新学期早々かわいそうに

「あら、もう出るの? いつもより三十分くらい早くない?」


 玄関先で靴を履く紫苑の背中に、美弥乃が声をかける。


「早く学校行って、新しいクラス確認したいの。それじゃあ行ってくる!」


「行ってらっしゃい」


 紫苑はドアを開けて、自転車に跨りゆっくりと漕ぎ出す。

 高校二年生の、初めての朝。フレンチトーストも満喫し、気分はかなり良かった。鼻歌まで無意識に歌ってしまうほどだった。


「ん?」


 家を出て少し走り、緩やかな長い下り坂に差し掛かるところで紫苑は何やら小さな影を目にした。


 二人の人影が、近づいたり離れたりしている。付き合いたてのカップルだろうか。


「せっかく気分よかったのに。朝からイチャイチャ見せつけられるなんてツイてないなぁ」


 そっとつぶやいて、紫苑は坂を下る。やがて、人影がだんだん解像度を増していく。


「……やけに激しいな。イチャイチャじゃなくてケンカかな。新学期早々かわいそうに」


 よく知りもしないカップルのことを好き勝手考察しあれこれ口走るのはよくないような気がしたが、まあ聞こえていないしいいだろうと紫苑はすぐにその考えを捨てた。


 二つの影はいつまでも、くっついて離れてを繰り返している。お前ら磁石か! と心の内でツッコミたくなるぐらいには、その光景は紫苑にとって焦ったいものだった。


「……えっ」


 何アレ。その言葉が喉から出てくることはなかった。思わずブレーキをかけて、紫苑はその異様な光景を静かに見つめた。


 男が女を襲っているようにしか見えない。こんな朝から何してんだ、というか女の方は無事なのか? そう思ったとき、紫苑は自転車をその場に投げ出し爆速で二人のところへ走っていった。


「ちょっとあんた! さっきから見てたけど女性を襲うなんて何考えてるの!?」


「っ……!? どけ!!」


 その場に尻をついていた少女の前に、紫苑は咄嗟に割り込む。

 男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目を吊り上げて怒鳴り散らした。


「どかない!! こんな朝からよく堂々と女の子に襲いかかれるよね、どういう神経してんのよ!」


 紫苑は負けじと声を張るが、男も男で退く素振りを見せない。


「お前こそどういう神経してるんだよ、バカ女! いいからそこをどけ! 俺はこいつを殺さないといけないんだ!」


「は、はぁ!? バカ? それに殺すって何、どうして!? 弱い女の子を一方的に——」


 男の目が見開かれた。そして紫苑の目はさらに大きく。


「庇ってくれてありがとう、お姉さん。でもね、私……『弱い』って言われるのが嫌いなの……!」


 金髪に赤い目をもつ少女は口をぐにゃりと歪めて目を細めた。それと同時に、赤かったはずの目は瞬時に黒く染まって、瞳孔だけが金色に光る。

 これこそ、アンデッドの持つ特性だった。黒い眼球に、金色の瞳孔。夜空に浮かぶ月のような、孤独な光。


「ぐはっ……!」


 紫苑の口から、鮮血が吹き出した。見下ろすと、腹部から赤く濡れた鋭利な狂気が顔を出している。


「だからどけって言ったんだよクソが……!」


「きゃはは、美味しいなぁ……! 若い女の子の血を吸ったのは久しぶり!」


 少女が凶器を紫苑の腹から引き抜くと、そこからさらに血が霧散した。

 血の雨を浴びて、少女の顔は恍惚に満ちる。

 その凶器は明らかに人ならざる者の、悍ましい見た目だ。


 毒を持った植物を引き抜いてそのまま放置し腐敗させたかのような熟成された闇色の、鎌のような形をした凶器。その刀身はちょうど少女の肘から手にかけてのびている。

 先端はカマキリのように鋭く研ぎ澄まされ、人を狩ることのみを意識しました、と言われても平気で頷ける、そんなフォルムだった。


「ああぁ、すごく甘い、一度に食べちゃうのはもったいないなぁ。ペットにして献血してもらわないと」


 紫苑はその場に両膝をつき、力なく倒れる。ペット? 献血? 一体何の話だ。

 意識が薄れていく。痛いだとか辛いだとか声をあげるほどの余力もない。

 自分はこのまま死ぬのか、誰かの談笑の一部になるのだろうか。朝のニュースの一部になって、全国にアンデッドへの恐怖をじっくりと刻みつけていくのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。そんなのは。


「やだ……私、は」


 ここで死ぬなど。認められない。


「お前、まだ生きて……!」


 男は紫苑の元に駆け寄って赤く染まった体を抱き上げると、少女と距離をとって背中を預けることのできるところへ紫苑を置いた。


「ここでじっとしてろ」


「あれ、お姉さん喚かないんだね。つまんないの。もしかして声を出す力も残ってないのかな?」


 少女は退屈そうに髪の毛先をくるくると指で弄び始める。


「おいガキ。今から俺がお前を喰ってやる。せいぜい大人しく俺に喰われろ」


 青年が少女に向かって声を投げると、彼女は極めて不機嫌そうに「はあ?」と眉間に皺を寄せた。


「黙って喰われるかっての、喰らい返してやるよ……!」


 両者は腰を低く落として、互いの目に互いの像を写した。

 そして同時に地を蹴り、瞬時に近づく。少女の手先は鋭利な異形を宿し、青年を殺さんとする勢いで戦っている。しかし一方の青年は、両手に武器を持たず丸腰だ。


 それで勝てるのか。紫苑は一瞬考えたが、見ていると青年は少女の機敏な攻撃をひらりひらりと器用に躱している。


「逃げるだけなの? あなた死神リーパーでもないのよね、それなら死喰デッドイーター? まだいたんだ、もうとっくに皆殺しにされたとばかり思ってた」


「デッドイーターは名前のまんま、死を喰らう者だからな。てめえら人喰いとは違って、生命力とかいらねぇんだわ」


「はっ、言ってろ、クソがぁ!」


 少女の動きがより速くなる。青年もなんとか順応しているようだがギリギリだ。頬を凶器が掠める。


「避けるだけで、いつまで耐えられるのかしら? 傷だらけになるまで耐久戦を繰り広げるつもり? このままだとあなたに勝ち目なんてないわよ」


「ご心配どうも、だが、戦闘において観察は基本中の基本だろ」


「なら観察中にくたばれ」


 いつまで避ける、少女だけでなく紫苑も青年を見ながら思った。

 だが、その時。


「俺の勝ちだ」


「なっ……!?」


 紫苑には何も見えなかった。ただ今目の前にある光景は、少女が青年を攻め続ける様子ではなく、少女の華奢な首根が青年の手中におさまっているというものだ。


「油断したな」


「ちっ、何をした!」


 少女の顔が歪み、青年は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「言っただろ? 観察だよ。お前の行動パターンを解析しただけ。そっから先は簡単だ。一瞬の隙をついて首を獲る」


「す、すごい……」


 紫苑の口から思わず言葉が漏れた。


「それじゃ、喰わせてもら」


 しかし青年がセリフを言い終える前に、辺りが一瞬で白煙に包まれた。


「くそっ、なんだこれ……!」


 青年も少女も紫苑も、三人で咳き込む。


 やがてその白煙が薄れていくと、そこに少女の姿はなかった。


「女の子が……消えた……?」


「あっ……! ちっ、仲間がいたのか」


 どうやら少女の仲間が彼女を連れ去ったようだった。


「おいクソ女。お前のせいでアンデッドを逃したじゃねえかよ!」


「ちょ……なんで、私のせい……に」


 青年が紫苑に怒声を投げたとき、紫苑はすでに出血過多で意識を失いかけていた。


「うぉっ、おい、しっかりしろ! クソ女!」


「クソって、いう、な……!」


「喋るな、待ってろ。今治す」


 紫苑はその言葉を聞いたとき、この風穴をどうやって治すのかという疑問で頭を埋め尽くした。


「……」


 青年は目を閉じて何かを念じているようだった。すると腹部の出血がとまり、傷がみるみる塞がっていく。


「えっ……!」


 紫苑は朦朧とした意識の中でたしかに見た。青年の手から青白い光が放出し、自分の傷口が完全に塞がっているのを。


 気づいた時には意識もすっかり普通で、紫苑は自分が死んでアンデッドにでもなったのかと錯覚する。


「安心しろ、お前は生きてる」


「……どうして、こんなのあり得ない」


 腹部を執拗に触るが、完全に元通りになっている。痛みも全くない。紫苑は傷を治してくれた青年に感謝するが、正直気味悪くて仕方なかった。


「あり得なくないよ。お前がデッドイーターだから」


「……は?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る