土産話は酒の肴になりやしない
青葉シラフ
土産話は酒の肴になりやしない
「誕生日、おめでとう」
雨上がりの空の下、一人の男がそう告げた。雲間から日が差して、天から光の幕が降りているようだ。湿った空気が
手に持った傘から雨粒が
「久しぶりだな、今日でお前も30か。ケーキは、
傘とは反対の手には濡れた紙袋が
「その代わり、ビールは買ってきたんだ。一緒に飲もう」
石の地面に腰を下ろすとジーンズの尻のところがじわっと湿る。傘は隣に置いて向かい合う。
乾杯。
コンビニで買ってきた缶ビールを
「それにしても、晴れてよかった。水臭いのは
「今日はさ、お前に伝えたいことがあるんだ。」
一瞬、沈黙があたりを包む。
「俺、今月結婚するんだ。すごいだろ、俺でも結婚できるんだぜ。相手は俺より年下でさあ、その料理の美味いのなんのって。最近はちょっと尻に敷かれがちなんだけどな」
膝の上の手を後ろに置いて、それに体重を預ける姿勢になる。肩は盛り上がったままで、腕をピンと伸ばしている。
はあ、とため息を一つこぼすとより一層柔らかく崩れた笑みになり、缶ビールを口に運ぶ。
「なんてな。土産話の一つでも持ってきてやれたらいいのに、俺の話ってばつまらないものばっかりでさ。最近は特に何にもいいことがないんだ。俺のおもしろポケットは空っぽさ」
缶を少し強めに地面に置くと、中に残った液体が泡とともに外に飛び出しては、地面に残った雨粒と混ざりあう。
「あの時は楽しかったよなあ。夢があって、それを語り合える友達がいて、女もいてさ。金以外のすべてがあったよなあ。今はそれをどこかに忘れて、置いてきちまったみたいだ」
缶から手を離すことなく言う。顔を見られたくないのだろうか、下を向いて静止したままだ。
半乾きの風が吹く。それが腋の下を通り抜けてひやりと
「やっぱり今日、伝えたいことがあるんだ」
先ほどよりも深い
瞳を閉じては開けて、ゆっくりと一度まばたきをすると、男から笑みが消えた。視線があらぬ方へと遊びを繰り返している。次第に瞬きの回数が増え、落ち着く気配などない。
口の端は小刻みに震え、口が開くのを拒んでいるかのようである。しかしそのダムは今にも決壊してしまいそうだ。
その大きな
「俺、役者やめたんだ。ごめんな」
その声は震えていた。
「昔俺がお前に言ったよなあ、覚えてるか?いつか二人であの赤い
誰に向けてかその引きつった笑みは不自然に
「ああ、お前の演技は最高だったよ、俺と違ってさ。声は通るしツラもいい。細かい動きも器用にこなすし、迫力のある役もできた。そして何より華があった。お前ならきっと、いやお前とならきっと、あのレッドカーペットの上を歩けるって、そう思ってたんだ……」
冷たく乾いた風が吹いて缶を押し倒す。残った中身が流れ出て、間の抜けた高い音を鳴らしながら転がる。拾って
袋からもう一本取り出して開ける。
「これは、お前の分だな」
立ち上がり缶ビールを上へ持ち上げると、逆さ向きにして
「あーあ、お前もこんな石になっちまってよお」
名前の
手をその上に当てて、
「お前が生きてたらさ、今頃はどこの主演にも引っ張りだこだったろうな。きっと主演男優賞間違いなしさ。俺はそんなお前に憧れて、必死に追いつこうとするんだろうな。横に並んで歩けるように、お前と同じ景色が見られるように、
まぶたの裏に浮かぶは過去か、はたまた存在するはずだった未来か。
ただ確かなのは、まぶたを開けると目の前で無機質な友人が
「俺はそんな情熱、忘れちまったよ」
夢を
「そろそろ行くわ。じゃあ、またな。今度来るときは俺の隣に奥さんがいるかもな。きっと連れてきてやるよ」
——ごめんな、俺は行くよ。夢は叶わなかったけど、なにも人生それだけで終えるなんてことはない。きっとまた別の成功があって、また別の夢が見つかるはずさ。きっとそうに違いない。そうに違いないんだ。なあ、俺、間違ってないよなあ。
友に背を向けて歩き出す。もしこれを口に出してしまったら、もしこれに答えが返ってきてしまったら、もう取り返しのつかないことになるような気がして、胸の奥で強く思って、心に
「ああ、そうだ。形式ばったみたいで悪いが、線香とマッチ、せっかく貰ったからさ」
一本のマッチと線香を袋から取り出しながら、身を
マッチを
火が付いたままのマッチに気が付いて、ブンと振って火を消そうとしたが、その拍子に残りのマッチを箱ごと水たまりに落としてしまう。
「ああいけねえ、落としちまった」
それらを指でつまんで拾い上げると、火薬と湿気が混ざった匂いがする。
「あんなにタバコ吸ってたお前が、今じゃこんな細い線香しか吸えないなんてな。どうだ、美味いか。案外悪くないものなのかね、線香も」
トンと紙の箱の尻を叩いて、
最後の一本じゃねえかと口にくわえ、ジーンズのポケットをまさぐって漁る。だがポケットを裏返してまで探しても、その中は空っぽだ。
「ライター、忘れちまったよ」
ずぶ濡れのマッチを擦らせてみるが、火はつかない。
男は線香の煙の先を辿るように空を
「線香の火じゃ、付かないよなあ」
土産話は酒の肴になりやしない 青葉シラフ @aoba_sirahu
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