第14話 ただ、幸せになってほしいだけなんだ


 目の前の紅茶を一口。

 一息ついて、思考を巡らせる。


「…ルルは当日に向けて今よりももっと上手にご挨拶ができるようにマナーの先生に学びなさい。それが今ルルにお願いできる唯一のことだ」

「学ぶこと、ですか」

「そう。お披露目会にはルルも出る。ルイーゼ・ゾンターとして出るからには、多くの人に一挙一動…つまり、ルルの姿勢や所作、発言に注目が集まる。伯爵令嬢としての振る舞いが求められるんだ」


 ルルは息を呑んだような表情で俺を見つめる。


「ルルが頑張っているのは知っている。けれど、周囲はもっともっとと望むんだ。相応しくないと判断されれば、後々苦労することになるだろう。…俺は分からないけど特に女性には女性なりの社交があると聞くから」

「…フィッシャー夫人から教えていただいたことがあるんです。社交界は、ぱっと見たときはきらびやかだけど、本当はいっぱい苦労するところだって」


 エマ嬢と仲が良いルルに、フィッシャー侯爵夫人は何かと気にかけてくださっているのでついでに教えてくれたのだろう。

 御息女のレナ嬢はマルクスと同い年だから、今年デビュタントのはずだ。

 …ゲームではデビュタント出来なかったんだろう。なんか、感慨深いな。


「そうだな。自分の家に爵位に応じた振る舞いをする必要があるほか、相手の爵位に応じては態度を変える必要がある。我が家は伯爵家だ。公の場で侯爵家、公爵家のお相手に馴れ馴れしくするのは望ましくない」

「エマ様ともですか?」

「エマ嬢ならいいんだ。挨拶もエマ嬢から声をかけられるまでは目礼やお辞儀程度で、自分から話しかけちゃいけない」

「そう、なんですね…」

「今はまだ7歳だから目こぼしされているが、学院入学前にはできるようにしないとな」

「はい」


 エマ嬢なら気にしないだろう。だが、周りがどう思うかだ。

 本当なら周りを気にせず過ごせばいいと伝えれば良いが、ここは日本じゃない。階級社会だ。


「…ルルは、公爵令嬢になりたいかい?公爵令嬢ともなれば、今よりももっと良い宝石やドレス、質の良い教師などを揃えられる」


 それに公爵家の令嬢ともなれば、王家以外には周りをあまり気にせず過ごすことができる。

 求められる教養も今よりぐんとレベルが上がるが、ルルならこなせるだろうという予感もある。


 ルルは、何度か目を瞬かせたあと…首を横に振った。


「いいえ」

「そう?」

「はい。お勉強はとても楽しいです。でも、わたしはゾンター伯爵家の娘としていたいです」

「綺麗な宝石やドレスがあって、王子様と結婚できるかもしれなくても?」

「うーん…宝石やドレスはキレイなのであると嬉しいな、ぐらいです。王子様は…あの方だったら嫌です」


 むす、と口を尖らせたルルを微笑ましく思う。

 本当は不敬な発言だが、まあ、邸内だけのことだしみんな思ってることだし、何より個人名出してないし問題ない。

 ふ、と笑いながら再び紅茶を飲もうとカップを口に近づけた。


「そうか。分かったよ」

「あの…お父さまは、あたらしいお母さまを迎えたりしないんですか?」



 ……え?



 思考も動作も止まった。

 思わずルルを見る。ルルは意外にも真剣な表情で俺を見ていた。

 持ち上げていたカップを静かに、ソーサーに戻す。


「……どうして、そう思ったのか聞いても?」

「えと…お父さまがいつもされているお仕事について、授業として聞いたのです。そうしたらお父さまは、今は当主と女主人の仕事を両立していると。先生から、世の中には我が家みたいにお母さまが亡くなって当主ひとりになったときは、ごさい?という立場で、新しい女主人を迎えると…」


 どんな授業してんだあの教師。

 いや、ルルの授業の進捗具合からして話す可能性はあるか…。跡取りの話だな。


「カールからも聞いたんです。平民でも、両親どちらかが亡くなった場合に、新しい父母を迎えることがあると。だから…お父さまは、どうするのかなって」


 少し俯きがちに、最後の方は呟くように話したルルに俺の胸がぎゅっと締め付けられた。

 そうだよな。カティが亡くなってからまだ2~3年だ。

 4歳児の記憶がどこまで残ってるのか分からないが、それでも母親との記憶はあるはずだ。


 俺はソーサーをテーブルに置くと、腰掛けていたソファの空いているところをぽんぽんと叩いた。


「おいで、ルル」


 ぱ、と顔を上げたルルは静かに立ち上がると、俺の隣に座る。

 ルルの頭は俺の肩より少し下程度。ああ、こんなに大きくなったんだな。

 そう思いながら、ルルの頭を撫でる。ルルは少し照れたように頬を染めた。


 視界の端で、そっとドロテアとカールが部屋から出ていくのが見えた。

 カールは心配そうな表情を浮かべていたが、ドロテアがその背を押す。

 それを見送ってから、俺はルルと視線を合わせた。


「そうだな。正直に言えば、俺はパンク寸前だ。これ以上仕事が増えたら倒れるかもしれない」

「えっ」

「でもそれは一時的なことで、今だけだ。マルクスが成人し、レーマン公爵として表立つことができる。そうすれば俺の仕事はグッと減るんだ。もちろん、女主人を迎えることもひとつの手だ。今後も今回みたいなことがないとも限らない」


 そっとルルの手を握る。

 ルルは不安げに俺を見上げているものの、真剣に受け止めようとしていた。


 まだこの子、7歳なんだ。7歳の子どもなんだよ。

 なのにこの子は、俺のことを、家のことを心配してくれている。


「けどな、ルル。俺は、お父さまはルルの気持ちを大事にしたい」

「…わたしの?」

「そう。俺にとってルルは大事な、大事な娘だ。ルルの幸せが第一だ。ルルが嫌なことはできればしたくない。…ルルは、どうしたい?新しいお母さまは必要かい?」


 俺と同じオレンジの瞳が揺れる。

 やがてルルは俯くと、ぎゅ、と手を握り返してきた。


「……まだ」

「ん?」

「まだ、お父さまだけがいい。せめて、わたしが10歳になるまで」


 ルルは顔を上げた。

 はっきりと、俺を見つめて。その瞳は揺らいでおらず、決意が込められていた。


「10歳を過ぎたら少しずつ大人になる準備をしなきゃいけないでしょ?お父さまは男の人だから、女の人のことが分からないと思うの。フィッシャー夫人にも先生にも聞けるし、たぶん教えてくれると思うけど…外の人だから。だから、わたしが10歳になったら…お父さまは、あたらしいお母さまのことについて、考えてほしいの」

「…ルル」


 そう、ルルの言う通り10歳を過ぎたらデビュタントへ向けた準備を本格化させなければいけない。

 今まで以上に知識を蓄え、健康的な体を作り、外見を磨き、社交界を渡れる淑女にならなければならない。そのためには、母親が必要だった。

 祖母がいればよかったが、あいにく俺の両親は12年前に亡くなっているし、カティの方はカティの兄君のご家庭が大変でそちらにかかりきり。

 フィッシャー侯爵夫人に依頼すれば快く引き受けてくれるだろう。だが、次女のエマ嬢がいる。実子であるエマ嬢ならまだしも、ルルは縁戚でもなんでもない。



 …ああ、カティ。俺は、俺はルルを幸せにしたいだけだったんだ。

 賢く気が利く娘に育ったことは喜ぶべきだろう。

 でも、でも。こんなふうに気持ちをぐっと我慢して、家のために身を犠牲にする貴族的な考えを持ってほしくなかった。

 エゴだと思う。ルールにそぐわない、前世からの俺の感覚だ。

 でも、だけど。


 そっとルルを抱き寄せた。

 「お父さま?」と困惑した声を出したルルだったが、やがて恐る恐る俺の背に腕を回してくれた。


「…ごめん、ごめんなぁ、ルル」

「…泣かないで、お父さま。わたしは無理してないの。だからお父さま、10歳まではわたしの、ルルだけのお父さまでいて」

「俺はずっとルルのお父さまだよ。俺は、ルルの味方だよ」



 例え、断罪がシナリオの強制力かなにかで引き寄せられて、ゲームのようにルルがたったひとりで舞台に立って国中から蔑まれるようになっても。

 誰も彼もがルルを信用しなくなっても。

 俺は、俺だけは、ルルの味方でいるから。お前の助けとなるから。

 俺の持てうるすべての魔力を使ってでも、それこそ国を燃やしてでも、お前を守るから。


 俺は、国全体を敵に回してでも守るから。

 お前の笑顔を守るから。



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