第8話

 淀耶麻市は、駅に近い東に行けば行くほど栄えている。市役所や図書館、そして市民体育館と、人の集まる施設はだいたい集まっている。

 人の集まる場所には、当然ながら、物も集まってくる。物と人が集まれば、様々な雑多も生まれる。

 淀耶麻市駅前商店街――の裏通り。そこは、少し古風なスナックや、都会に比べてまあ……なクオリティのホストクラブやガールズバーが集まる繁華街であった。

 夏の夕闇がゆっくりやって来た繁華街。ピンク色の目立つハッピを着た、これまた目立つ金髪の客引きが、しゃがれた声で通行人を引っ張ろうとしている。

「ちょっとお兄さん! 寄ってかない? なにせここはこの街唯一のパンチr」

 殺し文句の途中で、客引きの声がヒュンと引っ込んだ。

「あ。すいません、お疲れ様です」

 消え入るような声で、そそくさと去っていく客引き。後に残されたのは、憮然とした様子の怪物であった。

「このマスク、ああいうのを避けるのには効果抜群だな」

「マスクの良さを分かってくれて、何よりだよー」

「嫌味に決まってんだろ」

 呑気に喜ぶ文香に、オークは言い返す。

 淀耶麻市 夏興行が終わっても、潤は未だにマスク・ド・オークのままであった。覆面をかぶったまま、街を練り歩いてる。ここに来るまで、子供に四回ほど指を刺され、通行人に十三回ほどクスクスと笑われ、数え切れないほどギョッとされた。

「だって、会場から出てマスクを取ったら……」

「正体がバレるってんだろ? でももう、流石にいいだろ。まさか、家まで被ってろって言うんじゃないだろうな?」

 いきなりオークのマスクを被って家に帰った日には、父親が失神しかねない。もっとも、身体は小さくとも肝は座っている人だから、そうなりそうにはない。ここ最近、獣害が多いのもあって猟銃の手入れをしてたなーという、バッドエンドフラグが頭にちらつく。

「うーん。じつは、ちょっとマスクを見せたい人がいてねー。どうせ見せるなら、持ち主に着けてもらってたほうがいいから。それに是非、一度会って欲しい人だし」

「いやでも、どこにその会わせたいいるんだよ。この辺は治安悪いから長居したくないんだが。と言うか、補導されても困るしなあ」

「うーん。でもね、これだからいいんだよねー。これが」

 どことなく肩身の狭そうなオークと比べ、文香はのびのびとしている。そんな彼女が案内したのは、一件のスナックであった。

 おそらく建物自体は平成、いや昭和の作りのコンクリート製だが、手入れがいいのかちゃんと直したのか、ヒビや塗装の剥がれなどは見当たらない。建物は四角い二階建てであり、二階の窓の数から見て、おそらく部屋は左右に一つずつ。奥行きはわからない。

 一階は派手な赤色の扉一つしかなく、脇で電飾の四角い看板が眠たそうにまばたいている。看板には「Snack 羅邪」と書かれてた。

 ここまでオークを先導してきた文香は、迷いなく羅邪の扉に手をかける。そんな文香の肩を、オークは掴んで止めた。

「いや待て待て! 未成年がスーッと入っていい場所じゃないだろ、ココ! 今までの店の中でも、トップクラスに怪しい店だぞ!」

「怪しいのは否定しないけど、中に入るのは大丈夫だよ。わたしにとっては、毎日やってることだしねー」

 毎日やっていること。謎のセリフを言いつつ、文香は扉を開ける。

 中を見た瞬間、オークは察した。きっと文香は、この男と自分を引き合わせたかったのだと。

 スナックの中にいたのは、185センチのオークですら見上げるしか無い大男であった。きっと身長は190後半、もしかしたら2メートルに到達しているかも知れない。腕も太く、足も太い。胴も太いが、それでいて肥満という印象はない。おおらかな筋肉で身体を覆っている。

 剃り上げられた頭に、色の濃いサングラスに、巌のごとき険しき顔。間違いない、この男は、何らかの玄人である。身体だけではない、内から放たれる圧を感じる。

 男はこちらを一瞥すると、真一文字に結ばれていた口を開く。

「文香ちゃん? いやー、助かったよ。なんか昼から一人でやってたらしくて、ついにぶっ倒れちゃってさあ。悪いんだけど、この人任せていいかナ? おじさん、明日、朝早くて。早いのは、いつものことなんだけどね」

 男の口調は、ハチャメチャに軽く、気安かった。そして男のデカイ影、足元には床に転がってる女性が居た。一升瓶を片手で抱き、ぐごーぐごーと気持ちよさそうに寝ている。たぶんまあ、この店の店主かスタッフだろう。

「任されました。でも、ちょっと違いますねー」

「何が?」

「その人、朝から飲んでましたよ」

「そいつあどうしょうもないね! じゃあ、おじさん帰るよ。ちょっとそこのお兄さん、失礼しますよー」

 男はそう言うと、ひょこひょこと人懐っこいステップで文香とオークの脇を通り、身をかがめるようにして扉から出て行った。

 オークは文香に聞く。

「俺に会わせたいのって、あの人じゃなかったのか……?」

「いや。あの人は、偶然居ただけ。いやでも、会いたいとは思うけど。ほら、中央の住宅街で人気のあのパン屋。あそこの店主」

「マジで!? あの店の正体不明の店主って、あの人だったの!?」

「本人、仕事中は厨房にこもりっきりで、表に出てこないからねー。接客や会合みたいなのも、みんな奥さん任せだし。あの人が店主だって知ってる人は、この街でも十人いるかいないかじゃないかな?」

「いやー。あそこの食パンと菓子パン、よく父さんが買ってくるんだよ。まさかあのふわっふわのパンをあの人が作ってたとは。こう言っちゃなんだけど、人は見かけによらないなあ」

 あのゴツイ腕は、パン生地を練り続けた証であり、彼は間違いなく(パン職人の)玄人であった。当たらずとも遠からず。決して見当ハズレではなかったと、オークは自分を甘やかす。

 となると、会わせたい人間は――

「なるほど。ここに居ると思ったら、留守だったと。なら今日は、お暇させてもらう形で」

「いやいや。居る居る。この人、この人」

 文香は近づいた上で、未だ床の上で寝ている酔っ払いを指さした。

 やっぱりかー。オークは現実を認めるしかなかった。今のところ、一番の「会わせたいってのがこの人だったら嫌だなあ」の該当者である。

 ロングの金髪と、真っ赤な肩出しのロングドレス。身長はおそらく170中盤といったところか。女性にしては長身であり、足も長い。身体の凹凸もハッキリしている。おそらく体格だけなら、スーパーモデル級と言っても差し支えない。顔立ちも細長い眉と切れ長の瞳のバランスが良く、鼻と口もよく整っている。一升瓶を抱えていびきをかいている分を差っ引いても、モデル級くらいはまずいけるだろう。少しばかり、異国の血を感じさせる美人だ。

 しかしながら、露出している肩から首、胸から顔の下までの部分で、だいぶ評価が変わってくる。両肩は筋肉の張りで膨らんでおり、首も鍛えた者特有の太さがある。肩と首のシルエットにより、全体的に四角くなっている。こうなると、美人より何より、強者らしい只者で無いオーラが先に来てしまう。

 文香はそんな酔っ払いの肩を揺さぶる。

「ほらほら、まだ夕方なのに、ここで寝てたら働く時間がないよー」

「ぐが、ぐー……ぐー……」

 酔っ払いが起きないと分かった瞬間、しゃがみ込んだ文香は、酔っ払いの顔を思いっきりビンタした。パシーン!というあまりに良い音を聞き、オークが思わずギョッとする。

「ぐー……ぐー……」

 そこまで頬を勢いよく叩かれても、酔っ払いは高いびきをかいていた。それほどまでに酔っている……というより、まったく意に介していないように思える。風が頬を撫でたか? と言わんばかりの泰然自若である。

 文香はまあそうだろうねーと目で語ると、今度は平手で床を叩いた。

「わんー、つー、すり」

「どりゃあぁぁぁ!」

 カウント2.9で酔っ払いは突如覚醒し、肩を上げた。

 ふわあと呑気なあくびをかいたあと、そこに居た文香にたずねる。

「ん? あれ? 今、何時?」

「たぶん、五時くらいかなー」

「まさか、二十時間くらい呑んでた……?」

「いや、夕方の五時だから。朝の五時じゃないから」

「なら、呑んでたのは七時間くらいだ。それくらいなら、いやーよかったよかった」

 まったくよくないと思う。オークの率直な感想である。

 この酔っぱらいと文香は知り合いのようだが、並んで話しているのを見ると、どうにも近しいものを感じる。きめ細やかな黒髪の細目でなつっこい猫が文香なら、粗く大きな金髪と鋭い目とたくましさを持つこの酔っぱらいは、さながらたてがみ付きのライオンである。サイズ感や凶暴性に違いがあっても、双方猫科である。

 ゆっくり立ち上がった酔いどれライオンは、一升瓶を左腕で持ち上げ、右手で持つ茶碗に注ごうとする。一升瓶とは、ああ軽々と扱うものだっただろうか?

 そこまで来て、始めて彼女は、この場に文香以外の人間がいることに気づいた。要は、オークの存在に気づいた。

「ん? えーと、確かメキシコのアレナ・メヒコで会ったことあるよね?」

 会ってない。そもそも、メキシコには行ったことがない。いったい誰と勘違いしているのか以前に、このマスクを見てギョッとしない、変だと思っていないと、あまりにすんなり、マスク・ド・オークの存在を呑み込み過ぎである。

 文香はまるで展示物を紹介するガイドのように、酔っ払いを手のひらで指し示した。

「紹介するねー。この人は、わたしの叔母さんの宍戸水葉。いまのわたしにとって、親代わりの人かな。実際わたしも、ここの二階に住んでるし。」

「いや、それって……」

 思わず言葉に詰まるオーク。叔母が親代わりで、このスナック兼住宅に住んでいる。文香には、なんらかの家庭の事情がある。オークも多少その手の事情を抱えているが、おそらく文香の方が重い。

 しかし文香は、そんな危ういことを言いつつも、あっけらかんとしていた。

「わたしの家庭事情は、まあさておき。見ただけじゃわからないかも知れないけど、この人、実はラジャ・獅子堂って名前の女子プロレスラーでもあるんだよねー」

「それはわかる」

 ラジャ・獅子堂という名前に覚えはないが、それくらいはわかる。

 ビンタされても起きない、とんでもない耐久力。カウント2.9で起き上がる条件反射。ここまでベタで、プロレスラーでもなんでもなかったらビックリだ。

 ああ。だからこの店は、スナック羅邪なのか。

 酔っ払い改め水葉は、改めて一升瓶から酒を注ぐと、グビリと美味そうに呑んだ。

「そう紹介されても、いかんせんここ数年、ちゃんとした試合はしてないからね。ほぼ、リタイア状態だよ」

「でも引退試合をやってない以上、現役だよねー?」

「あんたがそれを言うか? ああまあ、そうだね。確かに引退試合をやってなければ、レスラーは永遠に現役だね。ヤクザに刺殺されたレジェンドも、デビュー後にすぐ夜逃げした新人も、みんな現役だね」

 茶碗で酒を飲んでる人間らしい適当かつおおらかなコメントである。実に、文香との血の繋がりを感じる。

 文香はくるりと向き直る。手の形とポーズはそのままなため、自然と今度はオークを水葉に紹介する形となった。

「この人は、マスク・ド・オーク。今日デビューした、新人レスラーってとこかな」

「ふーん。どこの団体? それとも、マスクを被って再デビューした感じ? というか、今日この辺りで、なんか興行あったっけ?」

「あったよ。ほら、市民体育館でハイスクール・プロレスリングの興行が」

「あー。あたしの嫌いなアレかあ。アレは、どうも性に合わないっていうか。ちょっと待った。アレ、高校生にプロレスをやらせるアレだよねえ?」

「アレ、アレ、アレって言われても。まあアレなんじゃないかなー」

「アレだね! いやつまりその、え? ちょっと待った。そいつ、現役じゃないの?」

「同級生で高校生だから、まだプロじゃないねー」

「あんたと同級生ってことは、その身体のデカさと分厚さで、高校一年ってことかー……元いた場所に、戻してきなさい! 有望な新人を勝手に連れてきたら、そこの運動部が困るでしょ!」

 なんだか、他所で飼ってる犬や猫を勝手に拾ってきたかのようなやり取りである。むしろ、文香が他所の運動部から有望な選手を強奪してきたとでも思っている感じだ。半分、いや二割くらいは合ってるが。

「いやいや。この人は、フリーで帰宅部。それでいて、柔道諸々の経験がある、超優良物件だから」

「嘘ッ!? 信じられない……ドッキリでしょ……」

 オークを見て、呆然としている水葉。あまり自身の肉体については気にしていないオークではあるが、こうもストレートに羨望の目で見られるのは、なんだか面映い。

 水葉はしばしオークを眺めた後、文香に聞く。

「うーん。でくのぼうの身体はしてないよねえ。それで、なんでここに連れてきたの? あんたはともかく、あまりこのあたりに未成年を連れてこられると困るんだけどさ」

「ちょっと、この逸材を本格的に鍛えて欲しいんだけど」

 は? という顔をする水葉と、え? という顔をするオーク。マスクを見せたい人が居ると聞いてここまで来たら、まったく違う話を出してきた。おそらく、文香を問いただしても”見せたいのは間違いないよ? マスクだけでなく、レスラーとしてのキミもセットで見てもらって。でもせっかくだから、本物に鍛えてもらうってのもありじゃないかなー”ぐらいのことを言ってくるだろう。流石にもう、それぐらいの展開は読めるようになってきた。

 そんな文香に聞き返したのは、水葉であった。

「ごめん。まったく話が読めないんだけど。あんたが唐突なのは重々承知だけど、今回は過程が複数ぶっ飛んでるような……」

「昔、あー、なんか若くて優秀なプロレスラーを育てたいなーって言ってたでしょ?  だから、連れてきました」

「そんなこと言ったかどうか覚えてないけど、そっちがそういう詰め方してくる時は、まずあたしは言ってるね! でもそれは、ちゃんとしたプロレスラーを育てたいって話であって、高校生のレスラーもどきは対象外だからね」

 薄々感づいてはいたものの、やはり水葉は、ハイスクール・プロレスリングに良い感情を持っていないらしい。同じプロレス、そしてプロレス業界もいろいろと恩恵を受けていても、やはりこういう関係者はいるのだろう。全員が無条件で肯定するよりは、ある意味健全である。

 水葉は一升瓶をドン! と床に置くと、文香に言う。

「そっちが最近コソコソ何かをしてたのには気づいてたし、アレに関わろうが関わるまいが知ったこっちゃないけど。あたしを巻き込もうとするな。というか、勢い任せに人を巻き込む癖は、いいかげんにしときなよ。ほら、そこのマスクマンもうんうん頷いてるし!」

 思わず頷いてしまった。じろりをこちらを見てきた文香を前に、オークは咳をしてごまかす。おそらくまったく、ごまかせていない。

 水葉は更に言う。

「だいたい、アレの選手なんて去勢された猫みたいなのしかいないんだから、 これだけの逸材と、あんたのセンスがあれば、どうにでもなるでしょ」

「うーん。わたしもそう思ってたんだけど、猫の中に一匹、虎みたいなのがいて。しかも、そいつと秋にはやるハメになっちゃって。だから、ちょっと叔母さんに協力してもらいたいなーって」

 まあとにかく、自意識過剰とも思える文香の発言である。ただオークも水葉同様、それが過信ではないと思っている。文香のプロレスに関する頭脳とセンスは、おそらくハイスクール・プロレスリングに関わる者の中で群を抜いている。

 そしてその文香が、自分ひとりで物事を進めるのを諦めた理由、一匹の虎の正体もわかる。それは、オークが秋に戦うこととなる、鳩野龍之介である。

 リングに上がる腹を決めたオークとしては、特に異論は無い。むしろ、プロにちゃんと鍛えてもらうのは、望むところである。なにせ自分は、プロレスに関しては素人である。

 ただ、水葉は姪のそんな願いを受け入れがたいようだった。

「素材、状況、全部整ってる。本来だったら、アレに関わりたくないなあという気持ちを抑えて、任せておけ! と言うべきなんだろうね。でも、言いたくないなあ」

「どうして?」

「全部整いすぎてるから。年下のいいようにされてたまるかって言うのもある」

「うわー、小さい」

「あんたは物事を事前に整えすぎなのよ。完璧はきれいだしまっとうだけど、多少の穴や隙がないと付き合えないって人間もいる。わたしがそういう人間だってのを知らないはずが無い以上、少し自分の頭で先走りすぎたね」

 オークは二人の関係を知らない。だがきっと、これは駄目な流れだ。少なくとも、今ここで水葉が任せておけ! と言うとは思えない。きっとそれは、文香も同じだろう。文香はわざとらしいほどに大きいため息をつくと、オークに話しかけてくる。

「ごめんねー。ちょっと、失敗しちゃったみたいだ。今日のところはここで解散だねー、汐崎潤くん」

 いつもはキミと呼んでいるのに、何故ここで本名を、しかもフルネームで呼ぶのか。オークが文香に聞くより先に、一升瓶が転がった。

「今、なんて言った?」

 ぶつかったのか、もう一回飲もうと手に取っていたのかは知らない。はっきりしているのは、水葉が突如立ち上がり、その顔色も変わっていることだった。

 小学生の時分、様々な分野で無双状態だった潤には、多少の知名度がある。あの時は、スカウトだって随分受けた。もしかして水葉も、当時潤の名前を何らかの形で知っていたのだろうか。それにしても、随分とリアクションが大きいが。

 文香が水葉の質問に答える。

「汐崎潤くん」

「汐崎? あー、そんな、この娘は本当に……わかってて呼んだ? 知らないで呼んだ? どっち?」

「少しわかってるけど、知らないってところかな」

 文香が答えた瞬間、文香の頬がいい勢いでひっぱたかれた。先程の水葉を起こすためのビンタが愛撫に思えるほどに、鋭く速く痛々しいビンタであった。

 文香を引っ叩いた水葉が言う。

「わかっているって言ったらグーパンチ、知らないって言ったら蹴っ飛ばしてたよ」

「じゃあ正解かな」

 ビンタを真正面から受け止めた文香は、笑顔で言った。

「ああ、本当に度し難い姪だよ。次はアレだ。そこのマスクマンのマスク、とってやりな」

「了解。いいかな?」

 こくりと頷くオーク。頬に紅葉のついた相手に聞かれ、嫌とは言えないだろう。親代わりの叔母による、姪へのビンタ。おそらく虐待や体罰になるのだろうが、お互いがそうであると飲み込んでいる以上、とやかくは言えまい。そんな二人に、オークは呑まれてしまっていた。だいたい、何故、汐崎潤の名前がビンタに繋がったのか。それすらわからない。罪悪感を抱いていいのかすらわからない。

 オークがしゃがみ、文香がマスクの紐を解く。およそ半日ぶりにマスクが外れ、マスク・ド・オークは汐崎潤へと戻った。

 そんな潤の素顔を、水葉はじーっと見る。先ほどと同じく、こちらを値踏みしてくるような目だが、その目に下心はない。コイツを自分の手元に置きたい、一から鍛え直して思うがままにしたい。類まれなる肉体と才能を実証してきた潤は、このような嫌な体育会系の大人の目を随分と経験してきた。水葉の目に、そのような嫌らしさはない。

 ただ、水葉の目と表情には、なんだか怒りが混じっているように見えた。

「よし!」

 水葉は柏手を打つと、そのまま背を向けて言ってくる。

「裏庭のガレージで待ってろ! 以上!」

 そう言い残した水葉は、ずかずかと二階へ上がっていく。残された潤は、文香にたずねる。

「俺、ここで帰っちゃマズいかな?」

「うーん。わたしが急に転校したり、行方不明になってもいいなら帰っていいよ?」

 二人がそんなやり取りをしている最中、大音量のゲ◯を吐く音が聞こえてきた。

「俺、ここで帰っちゃマズいかな!?」

「うーん。わたしが急に転校したり、行方不明になってもいいなら帰っていいよ?」

 ああ。これ、俺が折れないと先に進めないループに入ったな。

 潤はいろいろと覚悟を決めた。決めるしかなかった。 


                  ◇


 スナック羅邪の裏庭は、予想以上に広かった。もはやこれは、小さな公園ひとつ分の空き地である。空き地のあちこちに、苔の生えた土管や錆びた小型のショベルカーが放置されている。

「ここはもともと、潰れた工場を取り壊した跡地でねー。今、わたしたちが住んでる建物やスナックは、工場の事務所を改造したものなんだよ」

 潤を裏庭へと連れてきた文香がそう解説する。多少治安の悪い場所とはいえ、まさか市街地の繁華街に、ここまで広い土地があるとは。建物に四方を囲まれ、スナックを経由しないと入れない場所である。きっと、地元の人間でも知っているのは少数だろう。

 そんな工場の跡地の中、壁と屋根だけ残し後は柱以外何も無くなった大きな建物の中央に、土地の存在より信じられないものが鎮座していた。

「なんでここに!?」

 思わず潤は、そう口にしてしまう。

 四本の鉄柱と丈夫そうな三本のロープに囲まれた、四角いジャングル。プロレスのリングがそこにどんと置いてあった。

「団体やってた知り合いに、預かってくれって言われたもんでね。借金を返して、また興行ができるようになったら引き取りに来るって。それからずっと、音信不通。きっと、日本海の底か秩父山脈の森の中でのんびりしてるんだろうね」

 潤の質問に答えのは、文香ではなく、遅れてやってきた水葉であった。水葉は潤と文香の脇をすり抜けると、リングへと上がる。その服は、ドレスからジャージへ、スナック嬢からスポーツマンへと様変わりしていた。

 水葉は口をぬぐいつつ、二人を追い越しリングに滑り込む。

 リングに立った水葉は、ちょいちょいと指で招く。たったそれだけの動作をしただけで、リングと周囲がピリッ!と震える。リング上からこちらを見下すような目、体幹の良さを感じさせる背筋、こちらを挑発しているのがわかる緩やかな指、一挙手一投足に気が配られているのを分からせてくる仕草である。間違いない、水葉はプロの中のプロだ。

 そんなプロの視線は、潤に向けられていた。

「さあ。やろうか」

 ただ、それだけである。細かなことは言わず、ただここに来いと言っている。

 いくら水葉がプロレスラーとはいえ、女性だ。水葉は女性としては大柄だが、潤よりは一回り小さい。それに男性と女性には、技術や経験では埋めきれない身体能力の差がある。

 先程まで泥酔していた人間が、激しい運動をしていいわけがない。全部吐き出してきたから大丈夫、なんて理屈は通らない。嘔吐とは、すべての内臓を疲れさせる行為なのだ。

 やろうと言っても、どういうルールで何をするのか。プロレスをやるのか、それともなんらかのスパーリングをおこなうのか。ギブアップはアリなのか、ロープを掴むのはアリなのか、3カウントはアリなのか。なにもわからない。

 水葉の言葉に理屈はない。だが、潤は一言も文句を言わず、リングへと上がっていた。先程の仕草に、この言葉で作られた状況に異を唱えるのは何かが違う。何かの正体は、上手く言葉にできないが、強いて言うならカッコ悪いと思ってしまったのだ。

 リングに上ってきた潤を見て、水葉は言う。

「ああ、よかった。これぐらいは読める男じゃないと、吐いてきたかいがなかった」

 認められたことによる嬉しさと、なんだか物凄いモノを起こしてしまったのではという恐怖。二つの感情が、内部から潤を責め立てる。

 「打撃は無し。関節技を決めるか、両肩を着けてフォールを取るか。要は関節の決めあいっこで、アマレス式のスパーリングってこと。ロープに関しては、プロレス式でロープブレイク有りってことにしておこうか。これでだいたいわかる?」

「経験はあるんで、なんとか。時間は?」

「無制限でいいんじゃない」

 さらりと、水葉はハードなことを言い出した。

「ギブアップしたり、フォールを取られたら、そこでリセット。また中央で組んでやり直し。どちらかが音を上げるまでってことでいいでしょ」

 水葉は更にハードさを積み上げてくる。もしかして、水葉が考えているのは、レスラーならではのスタミナを武器に、こちらの心を折りに来る作戦なのだろうか。

 いや、それは違う。水葉はたった少しの仕草で、リングを自分の世界に染めてみせた。プロレスラーには、世界を創る権利がある。これだけ強大に権利を行使する者が、そんなありきたりな作戦をぶつけてくるわけがない。

「わかりました。やります」

「よろしい」

 一度、リングに上ってしまった以上、逃げることは許されない。

 こくりと頷く潤を見て、水葉は嬉しそうに微笑む。あの微笑みも、世界を作るための一端なのか、それとも単に嬉しいだけなのか。他人の世界に染められるというのは、こうも恐ろしいものなのか。

 リング下にいる文香が、置いてあったゴングを鳴らす。

 このまま他人の世界で溶かされるよりも、事態が進んだほうがまだマシだ。今の潤にとって、ゴングは試合開始の合図ではなく、救いの鐘であった。

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