VS宍戸水葉

 日本における女子プロレスの歴史は輝きに満ちている。

 ストリップ劇場やキャバレーの余興でおこなわれた女同士のキャットファイトは、様々な団体やスターや名試合を経由して、女たちがリングで競い合う女子プロレスとして昇華された。日本の女子プロレスは人材の数や質共に世界トップクラスであり、Joshipuroはもはや世界の共通言語である。


 日本における女子プロレスの歴史は暗雲に覆われている。

 ずさんな経営による団体の倒産、イジメにセクハラ、搾取とまで呼ばれる給料格差……中には、目を覆いたくなるような所業もある。今となっては昔話だが、これらは現代に残しておいてはいけないものでもある。現在の女子プロレスラーは、収入立場ともに向上している。


 かつての女子プロレスには、強烈な光と闇があった。これらの是非は、第三者に語れるものではない。一つ、はっきりと言えることがあるとしたら、この光と闇を存分に浴びた女子プロレスラーたちは、いわゆる怪物の域に達しているということだ。


                  ◇


 リングに上った時からずっと、潤は嫌な空気を感じていた。

 昼にプロレスのリングには上がっている。決して、この空間は未知ではない。それでも、なんだか今自分は、まったく違う場所に、例えるなら山奥の出ると噂される廃墟に足を踏み入れてしまったような、そんな畏れるべき未知に入ってしまったかのような感覚に支配されている。

 原因は、リングの質や、観戦者1の実質無観客試合といったところにはない。打撃禁止の関節の取り合いにして、両肩の抑え合い。ロープブレイク有りという、ルールも受け入れた。

 原因は、今現在対峙している、一人の女性のせいだ。女性と戦うことに逡巡はない。今の時代、男女間の技術交流は普通である。ただ単に、相手がどういう存在なのか、力量からしてよくわからないのだ。

 ラジャ・獅子堂、本名宍戸水葉。獅子堂のことも、水葉のことも、潤は知らない。知ってることと言えば、彼女がスナック・羅邪の店主兼ホステスであること。たてがみのついた獅子を思わせる容貌の高身長の美女であること。おそらく有名な女子プロレスラーであること。それぐらいだ。もう一つ、特筆すべき事項があるとすれば。

「がんばれー、どっちもー」

 今現在、リング下で呑気な声を出している、宍戸文香の叔母であることだ。始めて出会った時、文香は180センチを越える潤の肩口に一息で飛び乗り、そのままぶら下がって太ももで首を締めてきた。思い出してもわけのわからない出会いであるが、

事実なのだから仕方ない。この身のこなしに、山奥にある潤の家まで息を切らすことなく走ってみせたスタミナ。文香の身体能力は、まず高い。ならば、水葉はそれ以上と見積もるべきだ。

 だが、文香よりも、水葉は体格も年齢も一回り大きい。この体格と年齢の差が、果たしてどう影響するのか。いやそもそもプロレスラーとのスパーリングは始めてである。相手の目や急所を直接狙ってくる裏技なんてものを仕掛けてくるかもしれないし、もしかしたら噛みつきなんてのも、いやいやいきなり火を吹いてきてもおかしくない――

 「ねえ」

 リングとプロレスラーの妖気にやられ逡巡する潤に、水葉が声をかけてくる。

「私は、若い人は我武者羅な方が好きだなあ」

 ニコニコとしつつ、その顔には裏がある。

 グダグダせずに、さっさとかかってこい。そんな感情を隠していない。いやそもそも、隠していない感情を、裏と呼んでよいものなのか。

 こう言われて、動かないわけにはいかないだろう。だが……。

「行きます」

 潤はわざわざ口に出し、つま先をピクリと動かす。そんな潤の足に、巨大な弾丸が突き刺さった。潤は腰と足を引き、そんな弾丸を上から押し潰す。

 潤の腹の下にいる、水葉の表情はわからない。だがきっと、潤の機先を制したはずの高速タックルを読まれたことに、多少は驚いているはずだ。

 スパーリングとは肉体を使ったカードゲームだ。かつて、潤がアマレスをかじった時に聞いた言葉である。相手の手札を読み、適した手札を出す。手札を読むのは経験であり、手札の数は技術である。そう、教わった。

 水葉は、潤がもともと柔道の選手であることを知っていた。きっと、わけのわからぬ状況なら、まず身に染み込んだ技術を出してくるに違いない。柔道経験者らしく、上半身を攻めてくる潤をアマレス式のタックルで倒す。そんな手札を切ってきた。

 対する潤は、血気盛んな若さを抑え、あえて老練の選手のように、足の動きで水葉のタックルを誘った。おそらくレスラーならまずタックルで来ると見越しての勘である。そして、タックルを潰した。今回のゲームは、潤の勝ちである。

 だが、よほど上手くハマらないかぎり、一回のゲームでスパーリングは終わらない。上から圧しかかってくる潤を、水葉は身体をよじることでいなす。更に圧をかけようとした潤の身体が、横に流れる。水葉の回転が、潤を投げ飛ばした。崩れた潤に、今度は水葉がのしかかろうとするものの、潤もまた身体をよじることで、水葉をいなす。

 何度も繰り返しカードを出すことで、己の完全なる勝利に寄せていく。これが、スパーリングだ。どちらかの体力や精神力が尽きるまで、もしくは時間いっぱいまで続く、フィジカルのデスゲームである。

「ストーップ! ブレイク!」

 文香の声により、二人の動きが止まる。気づけば、潤の足がロープに引っかかっていた。ロープに触れたら技を解く。プロレスのルールとして有名な、ロープブレイクである。

 潤と水葉は、お互い離れる。浮き出てきた汗を拭いつつ、潤は汗だくの水葉に聞く。

「ブレイク後は、真ん中からやり直す形でいいですか?」

「ああ、それでいいけど……あんた、本当に帰宅部だったの? 明らかに毎日やってる人間なんだけど」

「マジで帰宅部ですよ。ただ、毎日山道を走ったり、家で自主練はしてましたけど。こういうスパーリングは久々ですね」

「マジかあ……それで、ここまで動けるのかあ。てーかさ、先に言っておいてよ、そういうのはさあ」

 水葉はリング下の文香を睨む。

「そう言われても。見てる方としては、お互い相手を知らないほうが面白いしねー」

「しねー! クソッ!」

 同意のしねーだか、殺意の死ねーだかわからないが、とにかく水葉はずかずかとリング中央に戻っていく。少し遅れて、潤もついていく

 一度肌を合わせたことで、水葉は潤について学んだだろう。少なくとも、次はレスリングもできる人間と踏んで攻めてくるはずだ。

 潤もまた、水葉について学んだ。あのタックルの上手さに円をかくような寝技の動き。水葉はおそらく、アマレスをしっかりと学んでいる。多少不自然な点はあったが、身体能力は押し並べて高い。

 だが、おそらくスタミナ面はそこまでではない。レスラーと言えば体力バカのイメージがあるが、軽く汗をかいている潤と比べ、水葉は既に汗だくである。年上、しかもさっきまで吐くほど飲酒していたのだ。発汗量から見て、体力の消耗は潤より遥かに多い。そもそも、水葉は女性にしては大きいが、大柄な男性である潤よりは小さい。大きい相手とやり合うのは、とにかく体力を使うのだ。

 これはおそらくこちらが優勢だ。潤はそう判断した。一番大きいのは、先程まで怪物か何かかと思いこんでいた水葉が、人に見えてきたところにある。水葉は指を直接へし曲げて来たり、目を潰してくるような裏技も、ましてや噛みつきなんてこともしてこなかった。正々堂々と挑んでくる、プロフェッショナルである。それがわかっただけで、潤にまとわりついていた妖気はだいぶ薄れていた。

「いやー! 化粧取ってきて、本当に良かったわー。おばちゃんのスッピンなんて、至近距離で見せちゃって悪いねえ」

「化粧してなくてもその、綺麗だと思います」

「言うねえ。全然、手加減してくれないくせに」

 リング中央で軽口を交わす水葉と潤。潤の中に、軽口を交わせるだけの余裕が生まれていた。

 水葉は思いついたように呟く。

「いやいっそ、化粧してドロドロのデロデロを見せつけて、ビビらせればよかったかな」

「素顔でもその、デロデロだと思います」

「今、リング下で余計なこと言ったヤツ、覚えておきなよ?」

 水葉は潤の口調を真似てまで余計なことを言ってきた文香をギロリと睨みつける。だがその視線は、すぐに目の前の潤へと戻った。

「さて、やろうか。じっくりと、じんわりと、あんたを見極めてやるよ」

「よろしくお願いします」

 ペコリと頭を下げた潤は、今度は正々堂々と前から水葉めがけ組み付く。きっと水葉は逃げないだろう。予想通り、水葉は受けて立ってくる。ロックアップの状態となる二人。昼のケンゴとは比べ物にならない圧だが、押し切られるほどではない。潤は水葉との力比べをしつつ、次の手を考える。

 今のところ、潤は水葉の手札を徐々に暴いている。おそらく、プロ相手に思った以上にやれているはずだ。潤は少なくともそう思っていたし、これは一つの事実であった。


                  ◇


 相手はアマレスの選手ではなく、プロレスラーなのだ。潤はそのことを、嫌でも思い知っていた。きっと相手の手札を読もうとした時点で、失策だったのだ。

「ブレーイク! さあ、さあ、戻って戻って」

 文香の声を聞き、潤はかかりかけのアキレス腱固めを解く。これでブレイクは何度目だろうか。そもそも、どれくらいスパーリングを続けてるのだろうか。終わらないし、決まらない。潤の顔からも、だくだくと汗が流れている。

「足関節も上手いっておかしくない!? 足技はむしろプロレスの得意分野なのにねえ。あと一歩で、やられるとこだったわー」

 だらだら汗を流しているのは、水葉も同じであった。それでも、水葉は意気軒昂を隠さず、リング中央へと戻っていく。水葉は潤よりも早く激しく汗をかいていたのに、ずっとそんな状態のまま動き続けている。そこに、ゲームらしいロジカルさは一切ない。HP0で動き続けてる、化け物がいるだけだ。

 一体いつまでやるんですか? 口に出しそうになった言葉を、潤は慌てて引っ込める。負けるもんかという意地でもなんでもない。ただおそらく、口に出した瞬間、身体がもういいやと思ってしまう。そんな確信があった。

 プロ相手に思った以上にやれている。潤の見解は間違っていない。ただその一方で、根本的に間違っていたこともあった。その間違いが今、潤の身体をがりがりと削っている。

 中央に戻った潤は、今度は自分からタックルを仕掛ける。水葉はタックルを切るが、潤は力任せに担ぎ上げ、リングに落とした。いわゆる水車落としである。

「やるねえ。そんなこともできるんだ!」

 水葉は汗だくで疲れているものの、その目はまだ生き生きとしている。潤が上から攻めようとした瞬間、まるで元気そのものの勢いで、リング上を這いずるように移動する。

「はい、ブレーイク!」

 文香の声を聞くと同時に、潤は水葉から手を離す。技を仕掛ける。ロープに逃げられる。ロープブレイク。もう、慣れた流れである。潤と水葉は決まり切った動きでリング中央に戻る。

 中央に戻り、再び組み合う。今度は水葉が潤の背後を取ってスリーパーホールド狙ってきたものの、潤の手が挟まっており、決まりきらない。そうこうしているうちに、いつの間にか移動していてのロープブレイクである。

 そして何より、いつまで経っても水葉は「終わり」と言わない。汗を流し、ぜえぜえと息を切らせたまま、ずっと動き続けている。潤から見て、限界にしか見えない状態なのに、まったく動きに陰りがない。おそらく、水葉の限界は、潤の限界よりも、世間一般の限界よりもさらに追い詰められたところにある。いや、もしかしたら、彼女に限界は無いのかもしれない。

 そしてとにかく、水葉はリングの使い方が上手い。正確にはロープブレイクに持ち込むのが上手い。捕まえたと思えば、ロープはすぐそこ。足を捕らえたと思えば、その手はロープにかかっている。このプロレスのリングで寝起きしているとしか思えないぐらいに、水葉はリングを熟知している。

 思えば、ロープブレイク自体、プロレスならではのルールだ。普通の格闘技は、場外に意図的に逃げれば、たいてい減点か注意、つまり反則である。しかしながら、プロレスでは戦術としてのロープブレイクが許容されている。どんなに複雑な関節技をかけられても、ロープに逃れればいい。完全無欠の防御技であり、互いの体力勝負になる泥沼必至の回避技である。

 再び水葉と組み合いながら、潤は考える。

 いつまでやるのか。どこまでやるのか。それを聞いてしまっていいのか。終わりを聞くこと自体はまともだ。だが、聞くこと自体が負けな気がする。そもそも、こう悩むだけで、頭を使う。頭と身体がつかれた時点で、おそらく自分はこの泥沼に溺れるだろう。

 ならば、最後まで泳ぎきってやる。溺れるまで、泳いでやる。潤は理屈よりも、意地に己を捧げることを選んだ。

 たとえ、どんなに異世界物を書くのに向いていないと言われても、好きを貫いて見せる。流されるまま、運命を受け入れたまま来ても、最後の選択肢は自分で選ぶ。これが、創作者としての、競技者としての、潤の個性であった。

 そんな時、するりと自身の腕の中に何かが入ってきた。それが、水葉の右腕であると気づくのに、数秒ほど時間がかかった。

 考えることで、いい感じに力が抜けたのか。それとも、身体に染み付いた反復的な動きが出てしまったのか。それはわからない。わかっているのは、潤が水葉を完璧な形の脇固めで捕らえたことである。

 潤はサイドに回り、ぐっと自身の身体で水葉を押さえつける。こうなってしまえば、前転でいなすといった、脇固めを外す際のセオリーは通じない。現に、潤が数秒呆けても外れなかったのが、完全に極まった証である。

「くそ! この……!」

 水葉はそれでも諦めていなかった。必死でもがき、力で逃げようとしている。潤も力で抑え込むが、徐々に嫌な感触が響いてくる。脇固めとは、肩と肘といった腕を動かす部位を捕縛する技である。捕まえられたまま、無理に動こうとすれば、肩や肘がどんどんと歪んでいく。歪みの先にあるのは、破滅である。

 潤は迷わず脇固めを解く。ゆっくりと離れる両者、いつも通りリング中央に戻ろうとした潤に、水葉が声をかけた。

「なんで折らなかったの?」

 まるで、腕を折らなかったのが悪いような言いぶりである。潤の答えは簡潔だった。

「折りたくないからです」

「折らないとしても、もっと強く極めていれば、私のギブアップでこのスパーリングが終わってたかもしれないのに。もういい加減、しんどくなってきたでしょ?」

「折らずに極めるだなんて、許すつもりも無かったでしょ? あんなに動かれたら、俺にできるのは折るか離すかですよ」

 水葉の能力から見て、あんな無理やり脇固めを外そうとするなんて、あるわけがない。オーソドックスな外し方が潰されても、別の外し方を試す余地は十分にあった。おそらく水葉は、自分の右腕を差し出すことでこちらを試してきた。いやむしろ、脇固めにかかったこと自体が、彼女の策略だったのかも知れない。

「よし。終わりにしようか」

 延々と続くスパーリングの終わりは、唐突に訪れた。

「なぜ?」

「キリもいいし、そっちの実力もわかったし、これ以上続ける気はないよ。明日の夕方からしばらく顔出しな。 そこらのガキには見劣りしないレベルには仕込んであげるよ」

「は、はあ……」

 気の抜けた返事をする潤。どうやら、話は決まってしまったらしい。もうハイスクール・プロレスリングに出ると決めた以上レベルアップは望むところだが、できればまずこちらの予定も考慮してほしかった。もっとも、考慮が得意な人種にはまったく見えないが。

「それに、私も歳だから。脇固めを外した後、また極めてやればいいなんてニヤケ面ができる若者とこれ以上やり合うのはキツいんだよ」

 水葉にこう言われ、潤は思わず己の顔をいじる。

「ニヤケてたかな?」

「ニヤケてたねー」

 潤はリング下の文香にたずねるが、文香の答えも叔母と同じであった。


                  ◇


 ”明日からよろしくお願いします”

 ペコリと頭を下げて、潤が帰っていってから1時間後。未だ、水葉と文香は店の裏のリングにいた。

 文香は水葉にたずねる。

「それで結局、汐崎潤はどうだった?」

「明日から来いって言った。それが、答えのすべてでしょ」

「盛り上げるためなら、ホラもハッタリもなんでもアリなレスラーの言葉を信じられるほど、純情じゃなくて……」

「そりゃそうだ。正直な評価を言うなら、よくもまああんなの連れてきたなってとこ」

「それは良い意味でってことでいいよね?」

「難しいね。私がもし、大団体を運営している、もしくはプロレス界に革命を起こしてやるってほどにイケイケだったら、完全に良い意味で。場末のスナック経営者で、ある程度冷めてきた身としてなら、良い意味七割くらいかな」

「悪い意味は三割かあ。その三割は、なんで?」

「アイツは、素材が良すぎる」

 この短い評価に、ホラもハッタリも押し込む余裕は無かった。

 水葉は話を続ける。

「とにかくデカいし、それでいて運動能力も高い。実戦から離れていたはずなのに、技に錆びつきがない。生まれ持った才能があるのか、それとも学ぶ際によほど身体に染み付かせたのか。おそらく両方だろうね。」

「べた褒めだあ」

「ここまで生まれ持ってるのに、調子に乗らず謙虚。それでいて、見ず知らずの女にスパーリングをしようだなんて言われて乗ってくるような……勇気、違うかな。まあとにかく変なところがある」

「あまり人付き合いが得意じゃないくせに、いざというときは退かないし、一度付き合うと面倒見もいいんだよねー。そうでなきゃ、まずここまでたどり着けなかっただろうけど」

「アレだけの器と中身があれば、柔道だろうがレスリングだろうが、なんなら剣道や弓道でも、いっそ野球やサッカーをやっても、どんなスポーツだろうと上手くいくだろうね。もしイケイケな指導者がアイツに出会ったら、その日は大宴会じゃない?」

「じゃあ、わたしたちも宴会する?」

「未成年が何を言ってるんだか」

「でも叔母さんは、新弟子の頃にはもう……」

「そういう伝統は、残さなくていいの。まあ、あまりに凄すぎて、持て余す。それが悪い意味かな。実際、あれだけデカいのとスパーリングをしただけで、すっごく疲れてるし。デカいのと戦うのって、大変なのよ」

 疲れたと言いつつ、カラカラと笑う水葉。とにかく彼女は、限界のラインがおかしい。

「私の見た限りだと、素材としては三本の指、いや一位か二位かなあ」

「へえ。誰と争ってるの?」

「わかってて、聞くもんじゃないよ」

 水葉のタックルを、文香は飛び越す形で避ける。水葉の背後に回った文香は、そのまま首を狙う。そんな文香の鼻先に、水葉の後頭部が突き刺さった。

「ヘッドバットなんて、さっきやらなかったくせに。差別反対!」

「慣れた相手、体格がさほど違う相手じゃないと、こういう荒々しいことはできないのさ。万が一鼻でも潰したら、向こうの親御さんに怒られるし……ね!」

 頭突きをくらって思わず退いた文香めがけ、振り向いた水葉が襲いかかる。二人は膝立ちのまま、至近距離で組み合う。さっきからずっと、二人はスパーリングの真っ最中であった。

「他人の親を気遣うことができる、やさしい叔母さんを持って幸せだねー」

「私も疲れ切った叔母相手に手加減しない姪を持って幸せだよ」

 お互いの額が、至近距離でぶつかり合う。ゴツゴツゴツと、女同士の争いは無骨であった。


                  ◇



 体力切れと言うより、KOである。気絶か眠っているのか分からぬ様子で、リング袖のベンチで眠る文香。一方汗だくの水葉は、リングでシメのストレッチをおこなっていた。巨躯の潤、遠慮なしの文香とのスパーリングを経ても、まだ余裕がある。やはり彼女は、底なしの怪物だった。

 水葉は自身の右腕をぷらぷらと揺らす。

「うーん。まだ、本調子じゃないな」

 水葉はスパーリング中、ほとんど右腕を使わないようにしていた。一見、素人さんへのハンデではあるが、そのような優しい話ではない。

 宍戸水葉には、ラジャ・獅子堂には、リングから姿を消すだけの理由があった。今の彼女の右手の握力は欠如である。彼女の今の握力は、小学生の低学年並。実際、一升瓶で酒を飲む際も、左手で一升瓶を自由自在に扱う一方、右手はお椀を持つくらいにしか使わなかった。それでいて、潤と文香とやり合ってみせたのは、怪我を怪我として扱わない、プロレスラーとしての上手さである。

 文香はそれを知っているが、潤は知らない。いやおそらく、途中で水葉の右腕に何かがあることには気づいていた。だからこそ、右腕を脇固めで捕らえた際、自分からあっさり離したのだろう。

 水葉が、潤を鍛える気になった理由はそこにあった。相手にトドメを刺せる段階で立ち止まれる理性は、プロレスラーにとって最も必要な才覚である。このたぐいの理性がない人間は、いつか相手を潰す。そんな人間の共犯になるつもりは毛頭ない。

 しかしながら、水葉は潤があそこで折りに来るとふんでいた。その時は、裏技反則すべてを駆使して、潤を潰す気でいた。潤を鍛えてやるという結論は、実は想定外の出来事である。

「あの女の息子なら、折ってくると思ったんだけど」

 水葉の右腕はなぜ壊れてしまったのか。それを知るのは、壊れた当人。そして、水葉の右腕を意図的に壊した犯人だけであった。

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マスク・ド・オークここにあり~リングで書くのは異世界譚~ 藤井 三打 @Fujii-sanda

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