第3話

 話は一度、潤と文香が出会った日の夜まで遡る――


                  ◇


 汐崎潤は素晴らしい。まだ会ったばかりだが、文香は確信していた。

 高校一年生で185センチの高さかつ筋骨隆々とした身体に、見掛け倒しではない体幹とスタミナ。もともと、小学生時代の武勇伝は知っていたが、あれほどのスペックであれば、野球でもサッカーでもラグビーでも、なんなら卓球でも、いっそペタンクでも、どんな競技をやっても一流と呼ばれるだろう。

 それに、何より趣味が良い。

「異世界云々って、チート能力を貰って大活躍! みたいな話だと思い込んでたけど、身体一つ何も持たないでみたいなのもあるんだねー。思い込みはよくない、うん」

 孝太郎に街まで送ってもらった文香は、帰宅してからずっと潤から借りてきた異世界モノを手当たり次第読んでいた。畳敷きの自室に、10冊ほどの本が散らばっている。

「こっちは逆にもらった能力が強すぎて、普段から使えないタイプ。こっちのは、クラスみんなで転移して、一人だけ能力が貰えなかったと思ってたら実はってタイプだねー。うんうん、いいよ、いい。どの作品にも、作者の情熱が込められている」

 なぜ、潤が異世界モノに惹かれたのかはわからないが、惹かれ続けている理由もわかる。これほどに斬新な発想や様々な人材が集まっているジャンルは、そうそうない。これが流行っているということなのかと、思わず嫉妬してしまうくらいに。

 めぼしい本の気になるポイントをざっと読んだ後、畳に寝転んだ文香はタブレットを手にする。インターネットで繋がった先にあるのは、小説投稿サイト。検索欄にJJJと打ち込む。作家名JJJの作品はおよそ数十、どれもが異世界モノである。しかしJJJの平均PV数はよくて50、悪くて1か2。なかなかに苦戦している。

「潤だからJはわかるけど、そこに二つつけちゃったんだ。うーん、個性は大事でノーコメント」

 このJJJは、潤のペンネームであった。当人はあまり公にはしていないが、これぐらいの情報は調べがついてる。そもそも、潤の自室のPCに、JJJ名義の編集用ページがちらりと写っていた。

 寝転びながら、JJJの作品を読む文香。ごろごろごろごろ。転がっている内に、敷いてあるヨガマットの上に辿り着く。文香は仰向けに寝ている体勢から、そのままブリッジへと移行した。手はタブレットを持ったまま、首の力だけでブリッジをする。器用かつ、レスラーブリッジに慣れた人間だからこそできる動作だった。

 ブリッジをしつつ、考え込む文香。オススメの作品、そして当人が書いた小説を読むことで、潤の趣味嗜好の深いところを知ることができた。

「さーて、どう引きずり込もうかなー。悩むねー」

 会場に来るという約束は取り付けた。相手の趣味嗜好を学んだ。いわば、組み合った上で、相手の実力や性格がわかっている状況である。これだけ揃っていて、自分のペースに持ち込めなければ恥だ。少なくとも、文香が考える一流のプロレスラーとは、これができる人間である。

 文香はブリッジを続けつつ、アイディアを練り始める。相手に指がかかった以上、そこからの労力をケチる気はまったく無かった。


                  ◇


 ハイスクール・プロレスリング 淀耶麻市 市民体育館 夏大会。

 夏休み開始から数日、私服の潤は淀耶麻市の市民体育館につけられた看板の前にいた。ここが、文香との待ち合わせ場所である。途中何度か面倒になったものの、結局山を降りてここに来てしまった。本音で言うなら、今でも家で原稿に挑んでいたい。

 淀耶麻市。家に学校に生活基盤と、今現在潤が住んでいる市である。電車が通り栄えている東部。住宅街と畑がぽつぽつとある中央。良く言えば大自然、悪く言えば人住んでるの? な西部。この三つに分かれた、都会と言うには田舎が多く、田舎と言うには一部が栄えている街である。

 なお、潤が住んでいるのは西部、通っている凪目高校があるのは中央、そして市民体育館があるのは東部であった。普段木に囲まれて生きているせいか、東部で林立するビルに囲まれていと、どうにも場違い感がある。

 それにしても、約束の時間通りに来たのだが、まだ随分と人が少ない。ところどころ、ぽつぽつと人は居るのだが、全員せわしなく動いていたり学生服を着ていると、どうも関係者や参加者のようだ。多くの学生が着ているのは、緑色のブレザーである。確かあの制服は、荒子浦高校の制服だ。東部に位置する荒子浦高校は、中央の凪目高と比べ、学力は少し下で、体育会系の強さはだいぶ上。遠くから見ればどっこいどっこいぐらいの差しかない感じだ。後は、同じ市内の高校として、ちょっぴり対抗心がある。

 もしかして、荒子浦の連中はハイスクール・プロレスリングに熱心なのか。同じ市内の話なのに、これぐらいの感度。潤が情報に疎いことを考慮しても、両高校の距離感がうかがえる。

「いやー、待った……?」

 そんなことを考えている潤の後ろから、やけに覇気のない文香の声が聞こえてきた。

「多少早く来たけど、待つってほどじゃ……おおぅ!?」

 文香を見た潤は驚く。ノースリーブのシャツにハーフパンツに黒のロングタイツといった露出の多い私服が霞むくらいに、文香の顔は疲れ切っていた。

「どうした!? 夏にそんな顔してるの、夏コミ締め切り直前の作家ぐらいなもんだぞ!?」

「うーん。ちょっといろいろ頑張りすぎたっていうか、一週間で準備するのは難しかったかなってねー。もっと先の興行にしとけばよかった」

「準備? なにかその、ハイスクール・プロレスリングを観るために必要なことがあったのか? 言ってくれれば、手伝ったのに」

 ハイスクール・プロレスリングは入場無料だし、当日は動きやすそうな格好で来てくれればいい。潤は文香よりそう聞いていたが、ここまで追い込んで準備する物があったのなら、できれば言ってほしかった。

「いやいや、せっかく来てくれたのに、そこまで頼むのもって勝手に思っただけだから。うんうん、ちゃんと動きやすい格好で来てくれーってのは、聞いてくれたみたいだねー」

 潤の格好は、上下ともに紺のスポーツウェアであった。夏であるため上着は脱いでの黒シャツだが、言われた通り動きやすい格好で来ている。

「それと、持ってきてほしいって言った物は持ってきてくれたかな?」

「ああ。そっちほど準備するのに大変なもんじゃなかったからな」

 潤は持っていた袋の中から、一足の黒いレスリングシューズを取り出す。ほとんど着の身着のままでいいが、屋内履きだけは持ってきてほしいと言われ持ってきた品物だ。

「あれ? レスリングシューズ? てっきり、学校で履いてる上履きを持ってくるかと思ってたけど」

「うっかり、学校に置いてきちゃって。手元にあった動きやすそうな室内履きはこれしかなくてさ」

「それにしたって、今でも使えるレスリングシューズ? ううん? 小学生の時に助っ人した際に履いてたとしても、大きくない? ついこの間まで、使ってたみたいな……」

「そこはまあいいんじゃないか? とにかく、大事なのは室内履きがあるかどうかだろ? でも、ここ土足でいいんじゃないのか? それにまだ、開始時間までちょっとあるような」

 現在、時刻は8:30ジャスト。開始時間は10:30からとなっている。まだスタッフが動いており、土足で入るためのビニールも三分の一ほどまだ敷かれていない。席取りが必要だとしても、まだ早いように思える。

「まあまあ、いいからこっちに」

 ひょいひょいと手招きする文香に、潤はついていく。文香の行く先は、表ではなく脇の入口であった。

「ここで靴を履き替えて」

 潤は言われたように、持ってきたレスリングシューズに履き替える。普通の靴に比べ若干サンダルのようになっているせいか多少くるぶしが寂しいが、上履きの代わりにするには十分である。

「そうそう、これ。あげる」

 中に入った所で、文香は持ってきたスポーツバッグから取り出した布の塊を、潤に手渡した。潤は貰った布を手の中で広げる。

「これは……パンツ!?」

「下ネタはキャラじゃないからやらないほうがいいと思うけどねー。でっかい人の下ネタは、逆らえない感があって怖いし」

「色々挑戦しろって言ったのはそっちなのになあ。ああ、これはマスクか。プロレスと言えばマスクだよな」

 潤の手の中で広げられる、プロレスのマスク。くすんだ様子の緑色の生地の上に、鋭い目と下三角で尖った鼻と頬まで裂けた口と牙を模した布が縫い付けられている。鋭い目の覗き穴はメッシュ地となっており、鼻の部分は同じ緑系の布が当てられている。口の赤と牙の銀、派手な色を使うことで、異形の口と牙がよく目立つ。

 なんらかの怪物を模したマスク。潤には、この怪物の正体をひと目で理解した。

「これは、オークか! 豚型じゃなくて、鬼に近いタイプのヤツ! 作者の好みや作品の方向性でわかれるけど、俺はこっちの方が好きだなあ!」

 オーク。かつて、伝説的なファンタジー小説で生まれ、様々な作品を経由した結果、もはやファンタジーに居て当たり前、なんなら近未来のSFやR18な作品にもよく出張している著名な種族にして怪物である。

 もともとは凶暴かつ不潔で破壊的な種族であったが、複数の作品に使われているうちに、豚顔や魔物といった要素が足されていき、今では作品によって知性も社会的地位も外観も違う。

 このマスクのオークは豚要素が薄く、牙の主張に猛々しい目と、凶暴さと強さを強調した、いわゆる猛者らしい顔をしている。潤の好みにドンピシャであった。

「いやー、そう興奮してもらえると何よりだよー。作ったかいがあるね」

「え!? これ、お前が作ったのか! 凄いな!」

「いやー知り合いに、こういうの得意な人がいてねー。半分くらい手伝ってもらったようなものだけど」

「半分担当しただけでも大したもんだろ!」

 このマスクは、文香が自ら作った。そう聞いた潤は、更に驚く。

 しっかりとした縫製に、使われている糸の太さといい、素人づくりとは思えない。きっと、ガラスケースの中にそれらしい解説と一緒に入れておけば、数万の値をつけても売れるに違いない。

「せっかくだから、被ってみてほしいな」

「え? 俺が?」

「男性用で作ってあるから、ちょっと使用感? みたいなのを試して欲しいんだよねー」

 文香の申し出は唐突であった。そもそも、いくらプロレスの会場とはいえ、入る直前にこうしてマスクを見せて、なおかつ被ってみたら? と言ってくる。唐突である。もっと、落ち着いた場所で見せたり言えばいい話である。

「しょうがねえなー。被ってみるか」

 そんな唐突さを、潤はあっさり受け入れてしまった。普段とは違う環境であること、デザインが好みそのものであったこと、マスクってカッコいいよなーという小学生スピリットがまだ中にあったこと。いろいろ混ざりあった結果である。

 潤は、オークのマスクをかぶってみせる。思ったよりフィットしたものの、どうにもゆるい。それもそのはず、マスクの後頭部は靴紐の編み込みのようになっており、かぶる時に紐は穴を通っていなかった。むしろ、被ってから編み込んだ上で縛ってマスクをずれないようにする紐だ。

 潤は自分の後頭部に手を伸ばすが、頭の後ろで細い紐を通して結ぶなんてのは初体験でどうにもおぼつかなかった。ハチマキに比べて、難易度が高すぎる。

「やってあげようか?」

「頼んだ」

 潤がかがむと、文香はすいすいと紐を通して結ぶ。マスクを作ったことといい、紐を通す速さといい、とにかく文香は器用である。

「よし、固く結んでできた。調子はどんな感じかなー?」

 文香にポンと背を押され、潤は立ち上がる。

「いやその、意外といいな」

 マスク越しの世界は、今までの世界より窮屈で不確かで、どことなくうきうきとした気持ちがあった。

 フルフェイスのマスクは息苦しい。そう思っていたが、実際に被ってみると予想よりは遥かに息がしやすかった。外見だとわからなかったが、口の部分の布が薄くなっている。これが工夫というやつだろう。

 一方、視界はあまりよくなかった。いやおそらく、こちらも思ったよりはマシなのだろうが、黒のメッシュ地の存在にどうしても慣れない。黒の幕から垣間見ているような視界は、どうにももどかしい。しかし、目を直接露出させるよりは、目を覆い隠すデザインの方がおそらく良い。ならば、これも致し方あるまい。物の完成度と、便利さが直結するとは限らないのだ。

 文香がたずねる。

「蒸し暑くはない?」

「そりゃ暑くないって言ったら嘘だけど、夏だからなあ。素顔だって十分暑い。そろそろ、外してもいいか?」

「まあまあ、似合ってるんだし、もったいないよ」

「とは言っても、これじゃ前も見えない」

 おそらく、少し覗き穴と目の位置がズレているのだろう。

「大丈夫、大丈夫。わたしが先導するからさ」

 潤がマスクの位置を直すより先に、文香は潤の手をぐいぐいと引っ張る。なんとなくの流れの中、潤は文香の先導に従う。

「ごめんねー、失礼、失礼」

 視界は悪いが、文香がそんなことを言っている以上、誰かとすれ違ったのだろう。事実、気配ぐらいは感じている。その気配は、徐々に多くなっているような気がした。

「ちょっと、ここ段差があって、くぐるところがあるから……いや、そっちの身長なら跨いだ方が早いね。一回、手を離すから」

 カンカンカンと鉄製の低い階段を登った後に、何やら腹や腰が弾力のある縄にぶつかる。文香に言われた通り、潤は縄を跨いだ。

「オラ! どうしたどうした! そんなんで、リングに上がるつもりか!?」

 突如荒々しい声が聞こえてくる。リングとは、一体何のことだろうか。少し考えてしまったせいで、この声が自分に向けられているのではないと気づくのに遅れてしまった。

 潤はここでようやく、ズレていたマスクを直す。メッシュに覆われ視界は未だ完全ではないものの、少なくとも周りの状況がわかるくらいの視野は取り戻した。

 ここは、リングの上だった。市民体育館の中央に作られた、プロレスのリングである。リングを取り囲むようにパイプ椅子が配置されているが、まだところどころに穴がある。つまりは、準備中である。

 そんな準備中のリングのはずなのに、すでにリングの中では試合がおこなわれていた。

 潤の目の前で、男子高校生がバウンドしている。投げられて後ろ受け身を取っているようだが、バウンドしてしまっている時点で威力を殺しきれていない。当然、その顔も苦痛に歪んでいる。

 そんな彼を投げたのは、黒と白、ストライプのポロシャツと黒の長ズボンを履いた大人であった。

 彼は、自身で投げた高校生に告げる。

「ダメ! 不合格!」

「いや……大丈夫ですよ、俺、受け身取れてます」

「馬鹿野郎! そんな顔で受け身取ってるなんてよく言えるな! レフェリーである俺が、お前ににゃ試合なんて無理だって言ってるんだ! 今日は帰れ!」

 まるで蹴り出すような勢いで、彼は高校生をリングから追い出した。彼はハイスクール・プロレスリングのレフェリーらしい。理知的で公正さを求められる審判にしては、色黒で傷だらけで目つきも悪く悪人ヅラだ。学生メインのイベントにいるには、治安が悪い人である。

 そういえば、聞いたことがある。ハイスクール・プロレスリングは高校生がメインプレイヤーであることから、名目上健全なプロレスとなっているが、実際のスタッフには現役のレスラーは元プロレスラーも多く入っているらしい。となると、このレフェリーはプロレスラーなのだろう。むしろ、そうでないのにこの怖さは困る。

 そんなレフェリーは、今度はジロリと潤を睨みつけた。

「次はお前か? デビュー前のくせに、いっちょ前にマスクなんかつけてきやがって」

「デビュー前?」

「今からいくつか実戦テストをおこなうが、合格ラインに達してなかったら、さっきの奴みたいに今日の大会には出さないからな」

「今日の大会?」

 潤は何度もオウム返しをする。

 ここで状況を把握する。どうやら、今自分は今日の大会に出るレスラーと勘違いされているらしい。マスクを被ってリングに上ってしまった以上、そう見えるのは仕方ない。それでも潤はあくまで観客として今日ここに来たのだ――

「いや俺はその、このマスクも人に貰ったもんで……ちょ、外れねえ!」

 潤はマスクを脱いで説明しようとするものの、マスクを縛っている紐はギチギチに縛られていた。丈夫な紐を使っているのか、潤の腕力でも揺らぐ気配を見せない。

 レフェリーはそんな潤に構わず、リングの端に置いてあったクリップファイルボードを手に取り挟んであった書類を読む。

「凪目高校所属のマスク・ド・オーク。本名は非公開希望、学校も公表はしてほしくないと。マスクマンは珍しいが、この非公開制度を使うヤツは始めてだな。どれだけもったいぶってやがるんだ? ああん?」

「ますくどおーく?」

 またも聞き慣れない単語が出てきた。つまり潤は、オークのマスクを被った謎のレスラー、マスク・ド・オークとして今この場にいるのだ。

 当然、潤は申込みなどしていない。潤の代わりに申し込みをして、リングまで潤を誘導した。そんな人間は、一人しか居ないだろう。

 潤はリング下に居る文香に目をやる。

「お前……」

 文香は悪びれもせず、ニコニコと笑っていた。あまりの楽しげな笑みに当てられ、潤の怒りも困惑もすべて削ぎ落とされてしまう。

 そんな潤に、文香がかけた言葉は一言であった。

「できるよねー」

 いったい、何ができるというのか。

 これからのテストに受かることができるというのか。

 プロレスラーの真似事ができるというのか。

 マスク・ド・オークというわけのわからない存在になりきることができるというのか。

 言葉の真意はわからない。だがこの一言で、潤の後退のネジは、おいそれと動かぬように締め付けられてしまった。

「さて、行くぞ! 不甲斐ないようだったら、そのマスクごと顔面引きちぎってやらあ!」

 まさか本当にやるとは思えないが、やるかもしれない。レフェリーの怒号には、そんなリアルさがあった。

 ええい、ままよ。こちらと組み合うために、両手を上げ向かってくるレフェリーを、潤ならぬマスク・ド・オークは真正面から受けて立った。

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