第1話

 人生の分岐点とはなんなのだろうか。少なくとも、彼にとっての分岐点は、12歳の冬であった。

 父親が尋ねる。

「本当にこれが、君のしたいことなのかな」

 そう聞かれて、大きく頭を横に振る。

 乱れた息で返事をするのは難しかった。

「そうか。ゴメン。今まで、それでいいと思いこんでしまっていたよ」

 父親はそう言うと、笑顔で彼の頭を撫でる。

 そして、父親を睨みつける老人に向かって堂々と言った。

「というわけで、この子は連れて帰ります」

「そんなことが許されると思っているのか」

「許されるも何も、誰に許しを乞うものではありません。むしろ僕は、今まで見逃してしまったことを、この子に許してほしいと思ってます」

「私の娘がいいと言うとでも?」

「僕の妻は、まず息子のことを考えてくれる人です。そう信じてます」

 父親は一礼すると彼の手を引き柔道場を後にする。

 少年の祖父である道場主は、痛めた肩を抑えつつ呻く。

「これほどの、これほどの才能が道を外れることは、あってはならない……!」

 道場にいたるところで呻く、高校生や大人たち。全員が全員、12歳の少年に敗北を喫していた。全員が黒帯を巻いているのにだ。彼の才能は、紛れもない特級であった。

 そんな彼と共に柔道場を後にした父親は、最後にこう言った。

「才能云々は気にしなくていい。みんな、きっと文句を言うだろうけど、流してくれていい。まずは、君がやりたいことや好きなことを考えてほしい。ちゃんとした親と息子に戻ろう」

 そう言われた瞬間、彼の目からはとめどなく涙が溢れた。ああこれで、才能で舗装された道を無理やり歩かなくていい。分かった瞬間、涙が止まらなかった。

 こうして一つの才能が消え、一組の父子が生まれた。


                  ◇


 目が覚めた瞬間、まず視界に飛び込んできたのは、横書きの文章がずらりと並ぶPCのディスプレイであった。

「やべっ」

 作業に没頭したまま、椅子で寝てしまったのだろう。

 やっちまったと、慌てて時間を確認する。時刻は7:00。まだ十分学校には間に合う時間だ。飛び跳ねるように椅子から立ち、軽いストレッチを何度かする。バキバキという身体が鳴る音を数度経て、不自然な体勢で寝てしまった疲れは吹き飛んだ。若さのなせる技である。

 急いで着替えようと、自室を飛び出す際、ドア上部の縁にゴンと頭をぶつける。この家に、中学生の時に引っ越してきてから三年ちょっと。高校一年の夏となった今では、頭をぶつけるのはしょっちゅうだ。身長が180を越えたころから、とにかく頭をぶつけるようになった。今は185くらいだろうか、体重は抑えているものの、住んでいる木製の洋館のきしみは、徐々に大きくなっているように思える。

 頭を撫でつつ、階段を降りる。この家も、随分と小さくなったものだ。

「おはよう」

 声をかけてきたのは、既に支度を終え、朝食の席につく父親であった。藍色のワイシャツに赤いネクタイに紺のスラックス。ヒゲも剃り、きっちり髪も固めている。在宅勤務かつ、これから作業着に着替えるのに、しっかりしている。身支度に油断のない人であった。

 大きな身体で、小さな父親に挨拶する。

「おはようございます……」

「昨日はもしかして、徹夜でしたか?」

「いや、そんなことは……ないです……」

「寝る時は寝る、作業する時は作業する。境目を疎かにしていると、そのうち無理が効かなくなりますよ」

「すみません」

 ぺこぺこと頭を下げ、席にあったサラダと目玉焼きを口の中に放り込む。熱いコーヒーとパンに挑んでいる内に、ようやく意識が覚醒してきた。

「もっとゆっくりと食べて。まあ、いいです。今日は遅くなりますか?」

「学校はもう早く終わるけど、ちょっと本屋に寄って来ようかなって。もし遅くなるなら、連絡する」

「そうですね。さっきも言いましたが、あまり無理はしないように。どうも貴方は、持ち前の体力で物事を強引に押し通してしまう癖があります」

「肝に銘じるよ」

 朝食を終えたあと、急いで脱衣所に向かうと、制服に着替える。焦っていたせいで学ランのボタンをずらして止めてしまい、もう一度止め直す羽目になった。

「行ってきます」

 またも玄関に頭をぶつけつつ、外へと飛び出す。この家は、やはり小さくなった。

 目の前に広がるのは、夏らしいまばゆさと、日を浴びる木々。伸びをしたあと、学校に向け走り出す。時刻は7時20分、始業は8時30分。残り一時間未満で、山を二つほど越えなければならない。いかんせん現住所は、山の中の一軒家なのだから。

 高校生、汐崎潤の一日の始まりは、このような始まりであった。


                  ◇


 夏休み前、テストが終わってどことなく弛緩した時期。私立凪目高校のとある一年のクラスにてこうして繰り広げられている会話も、どことなくだらけていた。

 私立凪目高校と言えば、学業は並の上、スポーツに力は入れているがそこそこ、規模も平均値と、言ってしまえば普通の高校である。おそらくこの会話も全国的に普通の会話だ。

 男子たちが集まって、何やら話し合っている。

「なあ、ウチの学校で最強って誰だと思う?」

 なんとも適当で無責任で、男子高校生らしい話題であった。

「あー。長田じゃないかなあ。中学時代、学校シメてたって言うじゃん」

「でも今は、むしろ大人しいだろ。だったら、仲西の方が強いんじゃないか? アイツ、柔道でいいとこ行ってるじゃん」

「いや、いいのかなあ。スポーツ選手がジャンルが違うような。まあいいか。いやいや、県大会進出は立派だけど、柔道は打撃がないだろ。同じ県大会進出組でも、ボクシング部の石沢の方が……」

「でもアイツ、俺よりちっちゃいし軽いぞ。基本、デカくて重いヤツの方が強いわけだし。 だったら、相撲部の児島だろ。アイツ、滅茶苦茶重いぞ」

「だったら、汐崎は? 学年の中でもデカいし重いだろ」

 その名前が出た瞬間、やいのやいのとやっていたトークが、ピタリと止まった。

「そういう、ガチなヤツは止めないか……?」

「が、ガチって、あいつ確かにバカでけえけど、帰宅部だろ? 体育でも、そんなに目立ってたっけ?」

「そうなんだけどさあ。あのガタイで、弱いわけないだろ。アイツ、腹筋割れてんだぞ。六つに。着替えてる時見て、マジビビった」

「毎日、山越えて通学しているらしいしなあ。しかも、走ってだろ? 山が急すぎて、自転車の方が疲れるからって」

「……ガチだな。よし、外すか」

 汐崎が禁止カードとなったことで、再び盛り上がる学内最強トーク。

 そんなトークを、遠くから楽しげに聞いていた女生徒がいた。黒髪のショートカットに、なんとなく人懐っこそうな笑顔。すらりとした手足に、太ももまで隠す黒いハイソックスと、どことなく黒猫を思わせる。

「なるほどねー」

 うんうんとうなずきつつ、女生徒は教室から出ていく。

 しばらく後、学内最強トークをしていたうちの一人が、唐突に言う。

「そういえば、なんでこんな話してるんだ。いや面白いからいいんだけどさ」

「えーっと、俺達が最初二人でだべってた時に、なんか知らない女がそんな話を聞いてきて、それから……」

「ああ。そうだった。なんか、目立つタイツみたいなの履いてたよな? そういえば、アイツ誰だ? ウチのクラスじゃないよな?」

 きょろきょろとあたりを見回すが、その女生徒が見つかることはなかった。いつの間にか居て、気づけば居なくなっている。まさしく、猫であった。


                ◇


 潤が凪目高校に進学した理由は三つある。自分の学力に見合っていたこと。家から通える距離であったこと。そしてもっとも大事な理由があった。

「うんうん、なるほど」

 図書室にて、レンズの厚い黒縁眼鏡とポニーテールが特徴的な文芸部部長が潤のスマホをじっと見ている。潤はデカい身体を縮こませるようにして、目の前の椅子でかしこまっていた。

 ページをスクロールし終わったところで、部長は潤にスマホを返す。

「これ、返すわ」

「ど、どうでした?」

「ダメダメだね! というか、この間のアドバイス、本当に聞いてた? 前とダメなところが変わらないんだけど!」

 自身がネットに上げた自作の異世界転生小説の評価を聞き、潤は肩を落とす。そんな潤に、部長は更に追い打ちをかける。

「この学校の図書館にある本、片っ端から読んでこれじゃあ、ちょっともったいなさ過ぎるよ。楽しむのは良いけど、身につけることも少しは考えないと!」

 部長は背後にずらりとならぶ本棚に目をやる。どの背の高い本棚にも、小説本が詰まっている。小説、エッセイ、ライトノベル、時代小説、推理小説諸々。とにかく凪目高校の本棚は、物語で埋まっている。特に目立つのはファンタジー小説である。

 平均的な高校である、凪目高校。しかし図書室、特に小説のラインナップに関しては県内どころか全国最高峰のレベルであった。なんでもコレクター気質であったこの学校の卒業生の寄贈らしい。家に置ききれなくなったから、自宅にはこの数倍の本があるという噂が、長年語られている。

 そしてこの蔵書こそが、潤が凪目高校を選んだ理由であった。潤は物語、特にファンタジーもののファンであり、自分で小説を書く創作者でもあった。

「具体的に、どのへんがダメだったんでしょうか」

「いやね、いいところはそのままなのよ。きっと、作者には凄い世界観と構想があるんだなあ。好きな人が書いたんだろう。愛情と好きがわかるのはいいよ? でもねえ、それが先走りすぎてて、しんどいっていうか。最初に書いてある、この世界設定居る? 本にしたら20P近くあるよ?」

「いやでも最初に世界観や専門用語を説明しておかないと、読者が読んでって混乱するかなあって」

「この世界設定をぶつけられた時点でみんな帰るから、そこは心配しないでいいよ。そこをスルーしても、ちょっと話の展開が遅すぎるっていうかさ。主人公、このドワーフのオッサンでいいのかな? そもそもこのオッサンに主人公転生したの?」

「いやそれはサブキャラで、主人公は4話にトラックで……」

「1話で! つかみで殺そう! やりたいことと、書きたいことを取捨選択しよう! あと、もうちょっと国語を頑張ろう!」

 まるで編集者のような物言いであるが、文芸部部長氏は、いくつか小規模な賞を取り、大型の新人賞でも最終選考に残ると、いわば創作者として潤の先輩にあたる。潤は彼女を知り、こうして何度もアドバイスを求めていた。

「うーん、どおりで投稿サイトにアップしても伸びないと思った」

「今はファンタジーが流行ってるけど、そのぶん激戦区だからね。異世界転生で目立つのは、たぶん誰でも難しいかなあ。いっそ、他のジャンルはどう? もうちょっと静かな所でコツコツやってのスキルアップも悪くないよ? PVの伸びは緩やかだけど、その分、固定ファンも付きやすいし……」

「いや。俺は異世界モノが書きたいんで」

 潤は部長のそんな申し出をきっぱりと断った。

「うーん。その好きを貫くところは、凄くいいと思うんだけどなあ」

「じゃあ、いい加減文芸部に入れてもらえるんですか?」

「いや、もうちょっとかなあ。せめて一次審査を超えるレベルにならないと、部には入れないかなあ」

 うーんと唸る部長。偉そうなことを言っているが、現在文芸部は部員の大半が幽霊部員の、実質部長一人の部活である。この状況で、見栄を張れるからこそ、部長の作品は面白いのかもしれない。潤は密かに、そんなことを思っていた。


                  ◇


 酷評されるのは仕方ないが、それはそれとしてしんどい。そんなことを考えつつ、潤は帰路につく。外履きに履き替え、注意深く屈んでから昇降口を出た汐崎が目に飛び込んできたのは、細くしなやかで黒く肌色な――女性の太ももであった。

 なんだと驚く間もなく、潤の首に巻き付く太もも。見知らぬ女生徒が、真正面から潤の首に飛びついてきた。

 突然の衝撃と襲撃であったが、潤はゆらぐことなく立ったまま受け止めてみせた。何かあったとしたら、ここで手から通学カバンを落としてしまったぐらいだろうか。だがそれにしたってこの突然さと太ももとその先で顔を圧されていることは、動揺するに十分だった。

 とにかく外さなければ。太ももに手をかけようとした所で、太ももも身体もするりと逃げる。潤の首を支点にして、後ろに移動したのだ。肩車のような体勢から、女生徒はぶらりと身を投げ出す。上半身は潤の背中に沿うようにだらりと垂れ、足はしっかりと潤の首にかけられている。女性との全体重が、潤の首にかかっていた。

 ここまでくれば、潤も一周回って落ち着いていた。普通、首に数十キロの重さがかかっている状態では落ち着けないのだが、落ち着いていた。

 潤は首にぶら下がっている女生徒にかまわず、スタスタ歩くと近くのベンチに腰掛ける。あまりにへんなネックレスをかけている潤を見て、先にベンチの端にいた男子生徒が逃げ出した。

 潤が腰掛ける動きに合わせ、潤の首にぶら下がっていた女生徒は、逆立ちのように地面に手をつき、綺麗に着地する。先程から重力に逆らっているかのようにスカートを乱さない、立派で見事で惜しい立ち回りだ。女生徒は足のハイソックスについた汚れを払いつつ、ベンチに座っている潤の前に回り込んだ。

 そんな女生徒に、潤が言う。

「びっくりした」

 あまりに率直で、平々凡々とした感想であった。

「それはこっちのセリフだねー。こうみえてわたし、体重40むにゃむにゃくらいにはあるんだけど」

 女生徒の喋り方は、どうにも気の抜ける喋り方だった。ちょっと細めで細目なこともあり、どうにもネコっぽさがある。

「ん? もうちょっと重かったような……んでもない」

「いくら軽いとは言っても、人間一人首にぶら下げて、平然としていられる人間なんて、そりゃビックリだよねー」

「俺としては、普通無理だってわかってて、いきなり首に飛びついてきたヤツにビックリだよ。普通、首曲がるからな。こう、ボキって!」

「あの汐崎くんなら大丈夫だとわかってたからやったんだけどねー」

 ピクリと、潤の眉が動いた。女生徒はそのまま話を続ける。

「あれから三年経つけど、傍目でわかる首の筋肉から見て、ナマってるわけじゃなさそうだったしねー。みんなの話を聞いていても、ちゃんとトレーニングは続けているみたいだったし」

「……何が目的だ?」

 潤の目には、これまで学校でしたことがないほどの力が込められていた。

 そんな目を前にしても、女生徒はまったく変わらぬ様子で話す。

「ああ。わたしが名乗ってないのは、無礼だったねー。わたしの名前は宍戸文香。できれば、覚えておいてほしいな」

「聞いたことのない名前だ」

「うーん。ついこの間、転校してきたばかりだからね。なにせ、君に興味があって」

 君に興味がある。異性にこんな言葉をぶつけられたら、多少なりとも警戒を緩めるだろうが、潤の警戒心はまったく揺らがなかった。

 文香はそんな潤に手を差し出しつつ、自分にとっての本題を口にした。

「わたしと一緒に、プロレスの天下を取ってくれないかな」

 何故、どうして、なんで。おそらくハテナとセットの言葉が様々に出る状況なのだろう。だいたい、なんでここでプロレスが出てくるのか。唐突すぎて、謎が多すぎる

 だが潤の選んだ言葉は、これらの疑問符ではなかった。

「断る」

 流石にここまでストレートに拒絶されるとは思わなかったのか、ここまで潤をリードしてた文香も固まってしまう。

 潤はベンチを立ち、通学カバンを拾いに戻ると、そのまま家に向かって走り出す。

 残された文香は、ここでようやく己を取り戻した。

「プロレスって口に出しちゃった以上、これぐらいで諦めるって選択肢はないよねー。あれだけの才能がないと、わたしの夢も叶えられないし」

 文香もまた、自分の足で潤を追う。多少距離は離されたものの、文香の目はしっかりと潤の背と行く先を捕らえていた。

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