百六十話 半分の月と陰

 解呪の決め手として角州(かくしゅう)の司午(しご)屋敷を訪れた、沸教(ふっきょう)の学僧、百憩(ひゃっけい)さん。

 彼は医と呪の混じり合ったような療法に長けた、医術僧でもあったのだ。

 私は今回、実験台として彼の施術を受け、その腕と見識が確かで深淵なことを、身をもって知ったのである。

 沸の医術に対する屋敷の人たちの不安要素は、かなり減ったわけだけれど。


「さりとて、司午家と信頼をまだ築いていない拙僧が、貴人たる翠蝶(すいちょう)殿下のお体をあれこれ触ることに、まだ抵抗のある方もいらっしゃいましょう。疑問や不安があれば、遠慮なくこの場でおっしゃってください」


 百憩さんは屋敷の関係者の集まった一室で、そう切り出す。

 私と毛蘭(もうらん)さん、そして玉楊(ぎょくよう)さんも同席の、話し合いの場だ。


「なにしろ翠蝶は今や、陛下の御子をお腹に授かっている身です。万に一つでも間違いがあってはいけません」


 玉楊さんが威厳を露わにして言った。

 彼女は西方の地域、諸外国とも縁の深い、豪商の環家(かんけ)の生まれ育ちである。

 だから沸の術に対する忌避感はないようだけれど、翠さまの友人として、その身を案じる一人の女として、この場を監督する責任感を持っているのだ。


「ともあれまずは、眠っていた翠さまのご様子ですけれど」


 毛蘭さんが今までの状況を百憩さんに詳しく話して聞かせた。


「呪いに倒れたばかりの頃より、今の方が母子ともに体調は安らかなようです」


 毎日しっかりと翠さまのお腹に耳を当てて、胎児の脈動を確認している玉楊さんも補足する。

 私も思い出したり気になっていた情報を提示した。


「翠さまは考え事をしてるときとか、イライラしてるときに無意識に指を噛む癖があるんですけど、眠ってる今もたまに、爪と指先をかじってますね。でも痕がついてもすぐに癒えています」


 翠さまの自己治癒力は、ちゃんと働いているということだ。

 しかし健全な状態と同じかと言えば、違う部分もあり。


「爪や髪が伸びるのは、目に見えて遅くなっているわ。前はもっと頻繁に爪切りや散髪をしていたもの」


 ベテラン侍女ならではの微妙な違いに気付いた、毛蘭さんの情報。

 一つ一つに百憩さんは真剣な顔で頷き、重要そうな事柄を紙に書き留めている。

 相変わらず、字が超上手いな。

 昂国(こうこく)の外で生まれ育った人とは思えんわ。

 などなど、インチキ符術で翠さまが眠らされてから今日までの様子を、場にいる全員が事細かに百憩さんに報告した。

 その会議の途中で、ふと玉楊さんが漏らす。


「百憩僧人、あなた……?」


 なにかに気付いた玉楊さんの表情に、おやおや、と言った感じで片眉を吊り上げて、百憩さんは笑って言った。


「今、話した方が良いでしょうか? それとも後でも構いませんか?」

「そ、それは……」


 二人の間でだけわかるような事柄らしく、意味ありげな言葉が交わされる。

 玉楊さんは首を振って、答えた。


「後の方が、良いでしょう」


 私たちからはよくわからない納得があったようで、ひとまず玉楊さんはその話題を保留した。

 屋敷の関係者たちと百憩さんは実に丁寧な議論と折衝を重ねて、どうやら明日から、実際に翠さまの身体を診るという段取りに収まった。

 

「そう言えば百憩さんはもともと、相手とじっくり話すのが好きな人でしたね」


 話し合いは混乱もなく解散された。

 中庭で半分ほどの月を見ながら、私は在りし日を思い出し、言った。

 私のような小娘がエリートの集まる中書堂に出入りしていても、この人は私の話を真剣に聞いてくれたものだ。

 彼が「人と向き合わざるを得ない、医者と言う役目」にハマっているのも、なんだか頷けるものがある。


「人それぞれに、異なる『世界』がありますから。拙僧はそれを覗かせてもらうのが好きなのです」

「またわかるようなわからんような、胡散臭いこと言うー」


 みんなちがって、みんないい、の信奉者かよ。

 私なんかは「そろいもそろって、みんなダメ」って視点で世間を認識しているタイプだけれどね。


「色々な人がいて別々に面白い、と言うだけの話ですよ」


 雑にまとめやがったな、こいつめ。

 私も今はあまり余計なことに頭を使いたくないので、そのくらいの問答で十分だ。

 ただ一つ、気になることと言えば。


「お話の途中で、玉楊さんはなにを言いかけたんですか? 百憩さんに関することでしたよね」


 思わせぶりなやりとりの答え合わせが、まだ終わっていない。

 モヤモヤしたことを抱えたままで、翠さまの解呪に取り組みたくない。

 私は他に人がいないこの場を見計らって、敢えて聞いてみた。


「おそらく環貴妃……今は玉楊さまとお呼びした方が良いのでしたね。彼女は拙僧の身体のことに、気が付いたのでしょう」

「百憩さんも、どこかお病気なんですか」


 幽霊みたいに得体が知れない彼だけれど、顔色も良いし挙動もキビキビしている。

 体のことで他人に心配されるような問題を、なにか抱えているのだろうか。


「病と言うのではなく、生まれつきのものなのですが」


 そう言って。

 私が眺めているのと同じ、半分の月を穏やかな表情で見つめて。

 百憩さんが教えてくれたこと。


「拙僧は男に生まれながら、男の能が備わっていないのです。外科的に切除した宦官とはまた別の形の不能者なのですよ」

「は、へ、え?」


 知能がフリーズして、IQ3くらいになってしまった。

 えっと、いや、それは。

 どゆこと?


「若い女性に詳しく話すことでもないのですが、生来のそういう性質があったからこそ、主上も拙僧を司午家に遣わしたのです。普通の男に任せるよりは、良いのだろうと」

「よ、よよ、要するに、男の人のアレが、お役に立っていない、と……」

「はい。生まれてこの方、男が外に、特に女性の胎に放出する精と気を、拙僧は持ち合わせていません。見かけだけが男の、けれど男ではないなにか。それが拙僧なのですよ」


 百憩さんは。

 第二次性徴を、迎えていない!

 成人、壮年の男性でありつつ。

 彼は精通も経験していなければ、おそらくインポテンツでもあるのだ!!

 ああ、そう言う事情だから。

 玉楊さんは、衆人が聞いている場で指摘するのを、躊躇ったのか。

 きっとわずかな体臭の違和感から、玉楊さんは気付いてしまったんだね。

 後宮にいるときは親しく話をしていなかった二人だけれど、今日、同じ部屋で長く話をしたからこそ、玉楊さんは百憩さんの特殊性を知ることになったんだろう。

 普通の男性とも、宦官とも違う、別の雰囲気を嗅ぎ取って。

 そして、そういう百憩さんだからこそ。

 皇帝陛下も安心して翠さまの身体を、見て、診て、看ることを任せたのだ。


「わ、わた、私、今まで、そんなことちっとも知らなくて、ご、ごめんなさい、失礼なことをいっぱい、言ったかも」

「央那(おうな)さんがなにを謝る必要があるのです。拙僧は昔からこうなのですから、気にしてもらうようなことはありませんよ。とりあえず、今のところは困っておりませんからね」


 私は、自分の直感、第一印象が正しかったことを、今さら知った。

 最初に会ったときからなにかしら、普通の男性と違う感じがあると思っていた百憩さん。

 やはりその通り、私の想像範囲外の個性を持っていたわけだ。


「こ、困ってはいないと言っても、その、あのう」


 私は混乱しながら、言わなくてもいいことを言ってしまう。

 普通の男性ができることができない、と言うのは。

 それはものすごく辛く哀しく、寂しいことなのではと、私は思ってしまったのだ。

 その軽率な無神経に怒るでもなく、百憩さんは軽く笑って、諭すように言った。


「誰でも、他人とは違うのです。生きとし生けるもの、まったく同じ命というものは有り得ません。拙僧ができないことを、司午の玄霧(げんむ)どのもできるし、閉じ込められて腐っている幼麒(ようき)もできるでしょう。しかし、彼らにできなくとも、拙僧ならできる、巌力(がんりき)宦官ならできる、というようなことが、山のようにあるのです」


 言葉の途中で少し寂しそうに口を歪ませて。

 百憩さんは、懐かしい人の名前を出した。


「他の誰よりも、どんな立派な男性たちよりも、麻耶(まや)宦官の方が上手にこなせたということが、実に多くあったと思います。彼は、自分のできることをやり切ったのです。結果は残念ながら不幸に終わりましたが、拙僧はその『一人一人の違い』を、素晴らしいものだと思い、愛しているのですよ」


 だから。

 同情は要らないのだと、百憩さんは目で語っていた。

 他人と違う自分だけれど。

 違うからこそ自分であり、たった一つのかけがえのない存在なのだ。

 そうだよね、私だって目つきの悪いへそ曲がりで泣き虫の喪女だけれど。

 そんな私だからこそできること、他の人と違って面白いところが、たくさんあるはずじゃないか。

 万物万人の、そして自分の差異を受け入れて。

 肯定して、愛そうじゃないか。

 と、百憩さんは言っているのだ。


「……百憩さんのお話の中で、今日のが一番、良かったと思います」


 哀しみとも喜びともつかない微妙な感情に促された涙を指でぬぐいながら、私は言った。

 

「それはなによりです。さ、明日も早い。もう休みましょう」


 こだわりなく言って、百憩さんは寝室へ戻った。

 翠さまの身体へ直接に施す療術は、明日から始まる。

 私の肩凝り頭痛を緩和するようなものとは違い、かなりの大仕事になることを、百憩さんも、屋敷のみんなも、覚悟し準備していた。

 私は少しの間、余った涙で潤んだ瞳のまま、ぼんやりと半円の月夜を無心で眺めて。


「翠さま。お話したいことが、たくさんあります。きっとすぐに起きてくれますよね」


 愛しのご主人が目覚めたときに話したいことを、のんびりと考えて過ごした。

 十五分の七の月は、まるで翠さまの笑う口のようにも見えた。

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