百五十九話 約束
早めの夕ご飯を済ませて、少しばかりお腹休めの時間を過ごした。
ここで百憩さんに私の症状と言うか、普段しんどいと感じていることを細かく説明する。
問診が終わり、いよいよ施術である。
「では、お願いします」
私は素肌の胸にサラシを巻いて、うなじや肩甲骨まわりが露出する薄着になる。
夏を先取りしすぎたちょっと以上に涼しいそんな格好で、寝台にうつ伏せで寝る。
「はい、こちらこそ失礼します。痛かったり熱かったりがあれば、遠慮なく」
道具を脇に並べた百憩(ひゃっけい)さんが手指を酒で清める。
まずは熱湯を絞った布巾で、施術する箇所をごしごしと拭いてくれる。
「や、優しくしてあげてくださいね。央那(おうな)は外から帰って来たばかりで、疲れているのですから」
心配してくれている毛蘭さんには申し訳ないけれど、この時点ですでに気持ち良くて、変な声が出そう。
男の人にべたべたと体を触られるなんて私のような喪女には有り得ないイベントなのに、不思議と嫌な気持ちも緊張感もなかった。
百憩さんの手指がまるで女性のようにしなやかで柔らかいからだろうか。
つんつんつん、と私の肩周りの肉を指で押しながら、百憩さんが説明する。
「お話を伺ったところ、央那さんはおそらく『眼』を特に酷使しているのでしょう。目で見るものの刺激が強い、あるいは情報が多すぎるので意識も昂り、眠りにくくなっているおそれがあります。肩凝りや頭痛の根本原因もその辺りが大きいのではと」
側頭部、こめかみ、そこから頭と首周りをグリグリと指圧してもらう。
おぉぉぉ、ン気持ぢイィィ。
そこそこ、そこだよ~、と唸りたくなる気分で、私は為すがままにされる。
なんと、このマッサージが、タダで受けられるんですよ、みなさん!
これも実験台の役得と言えますね。
「本ばかり読んでいるのが、いけないということですか」
今更だけれど目をしっかりつむって、私は訊く。
ごく弱い力で、けれどしっかりと私の筋肉の硬直をほぐすように揉みしだきながら、百憩さんが答える。
「文や書に限った話ではありませんが、そうですね。意識して遠くをぼんやりと見つめるような時間を増やしていただければ、随分と改善するのではないでしょうか。視点を集中する時間が増えれば増えるだけ、頭や意識に負荷がかかりますので」
さすが、経験と実証を主義とする沸教(ふっきょう)だな。
人の脳がなにに対してストレスを感じるのかというデータ、ケーススタディもしっかりと積み重ねて、定量的に分析しているのか。
私はどうも近視眼的と言うか、近くにあるもの、近くで起きたことを穴の空くほど集中して凝視する、意識し過ぎる傾向にある。
物事の解像度を高めるために、必死で色々なことを観察しなければと気負うあまり、脳へのストレスが知らず知らず、溜まってたんだろうな。
これからは空いた時間に、もっと雲とか遠くの山とかを無心で眺めてみるとしようかね。
指による圧迫を終えた百憩さんが、道具をカチャカチャといじりながら、次の工程を話す。
「このように実際に手で触れ、央那さんにこれからどのような術を施せばいいのかを判断します。鍼(はり)を入れない方が良い場合もありますし、灸を置かない方が良い場合もあります。それは状況に応じてであり、貴妃殿下を診る場合も同じです」
それを聞いて、毛蘭さんが少し安心した声で言った。
「なら、お薬や指圧だけで翠さまの呪いが解ける場合も、あるのですね」
「もちろんです。拙僧は呪符を書くことはできませんが、それ以外の方法で、その方に最もふさわしい術を、適宜選択します。央那さんには、少しだけ鍼を入れて『経』と『脈』を刺激しましょう」
ほう、百憩さんはあくまでも「医学的アプローチ」から呪いを解くのが得意なのか。
呪いも病気の一種だと仮定すれば、自己治癒力や免疫力と言った「体の内側にあるエネルギーとシステム」で追っ払えるのかもしれないな。
「その、経とか脈とか言うのは、ツボ押しとかとは違うのですか?」
毛蘭さんの質問に、手を止めて百憩さんが返す。
喋りながら鍼を打つようなことをしないでくれるのは、ありがたいね。
「本質的には同じようなものです。人の身体の中には、血液のように目に見える力の流れと、目では見えなくとも確かに走っている力の流れとがあります。見える方、触れる方を『脈』と呼び、そうでないものを『経』と沸教では呼ぶのです」
血管やリンパ節、甲状腺のような器官は実体を確認することができる。
けれど、神経伝達物質や体中を駆け巡る電気信号は見ることも触ることもできないからね。
って、いかんいかん、またごちゃごちゃ考えてしまっているぞ。
心を楽に、ユルユルダラダラとさせて、療法に身を委ねなければ。
す、と音もなく、私の首後ろ、肩の始まりらへんに百憩さんがなにかを置いた。
トントンと軽く叩きながら、鍼を人体にゆっくり入れるために用いる、細い筒だろう。
秩父のおじいちゃんが鍼の先生にやってもらってたのを見たことがあるので、なんとなくわかる。
一手順ごとに、百憩さんは丁寧な説明を毛蘭さんに話す。
毛蘭さんも話せばわかる人なので、百憩さんのそのやり方はまったく正しい。
「眼が疲れの原因であるからと言って、眼に針を入れることはできません。そのために、央那さんの身体を走っている様々な力の中から、一部だけを眼と頭を癒すために借り受けるのです。川の横に運河を掘るようなものとお考えください」
乙女の身体を土木工事に例えるのを、やめてもらって構いませんか?
「は、はあ。大きく流れている力のうちから、目と頭に余分に引き込む、ということなのかしら」
「まさしく。その道筋を作り水先するために、鍼を入れて経脈を刺激します」
これからは精密動作。
私は身動きひとつせず、百憩さんと毛蘭さんが話すことにも反応せず、眼を閉じてじっと臥せるのみ。
とんとんとん、と鍼を通した小さく細い筒を優しく叩く、百憩さんの指の動きがわかる。
「本当に細い針なのですね。これなら痛みはないのかしら……」
なんだかんだ、はじめて目の当たりにする高度な未知の技術に、毛蘭さんも興味津々のようだ。
実際に、打たれている私としては。
痛みがないかどうかで言えば、ある、と言わざるを得ない。
でもそれは髪の毛一本をプチっと引き抜いたときと同程度のもので、騒ぐようなことも悶えるようなこともない。
むしろ、その若干の刺激のおかげで首に一種の緊張と解放が同時に訪れて、軽く走った後のような爽やかな感じすら覚える。
右肩から始まり、左肩、そして後頭部と首の境目あたりに鍼は入れられた。
計三本、鍼がぴょんと背面に立った状態で。
「入れた後に少し、待ちます。灸は今回、央那さんには置きませんが、お香を焚きましょう」
そう言って百憩さんは、香木を削って焼香のように燻した。
かなり個性的な香りを放っているけれど、お香とかに私はぜんぜん、詳しくないのでわからない。
玉楊(ぎょくよう)さんならわかるんだろうけれど、明日以降、翠さまの診療や解呪に朝早くから協力することもあって、今夜はもう休んでもらっている。
不思議な匂いに包まれながら、私は脳の奥にどんよりと佇んでいたわずかな不快感がすっかり消え失せ、頭痛も治まって来た。
暑くもないはずなのに、額にじんわりと汗の玉まで浮いて来たぞ。
なんてことをボーっと思っていたら。
「くぅ」
力の抜け切った間抜けな声を漏らし、私の意識は夢の中へと誘われた。
そりゃ、今日まで疲れてたし、こんなに気持ちのいいマッサージと鍼をいただいたら、寝てしまいますわな。
「ここは……?」
曖昧模糊とした視界に、微かな光の満ちる中。
最初はおぼろげだった目の前の景色に、まるで大道具小道具さんが背景を作って行くようにどんどん色が付き、建物の輪郭が伴って行く。
夢幻の中に表れたのは、一目でわかった。
司午(しご)屋敷の中庭だ。
「寝てる場所のすぐ横が夢に出て来たぞ」
塀も、庭石も、倉も、離れの建物も。
屋敷に滞在中、すっかり見慣れたオブジェクトたち。
しかし、一つだけいつもと違うことがある。
「視点が低い。私は今、子どもになってるのか」
どうやら私は、身長一メートル前後の小児の身体を持って、夢の司午屋敷にいるらしい。
「この身長で巌力(がんりき)さんを見上げたら、怖くて逃げだ出しちゃうかも」
楽しいことを考えながら、私は小石を拾って池で鳴くカエルに投げつけたり、植え込みの近くに珍しい虫がいないかな、などと庭の中を探検する。
「ねえ」
一人遊びに夢中になっていたら、誰かに声を掛けられた。
「なあに?」
振り向き、舌ったらずな口調で私は返す。
声の主は、今の私と同じくらいの、小さな子ども、男の子だった。
彼は、もじもじと恥ずかしがるしぐさをしてから、上目遣いでこう聞いてきた。
「すいちょうは、ぼくのおよめさんに、なってくれるの?」
「え」
なんとませたガキだ、言葉も足元もまだおぼつかないくらいの幼さなのに、プロポーズとは。
そして、なるほどと私は気付く。
私は今、夢の中で翠さまになっているのだ。
小さな、可愛らしい、まさにお屋敷の中で蝶よ花よと大事に育てられていた頃の、司午(しご)翠蝶(すいちょう)という女の子に。
我、夢の中で翠(みどり)の蝶となる、というわけか。
ああ、これは。
良い夢だ、幸せな幻影だ。
なら私は、目の前の男の子に、こう言わねばなるまい。
翠さまの分身として、身代わりの影武者として。
「あたしのおむこさんになりたいなら」
翠さまの侍女である私が、最も強く、なによりも願わねばならないことを。
「あたしをせかいでいちばんだいじにしないといけないわよ」
言ってやったぞ、とドヤ顔を決める私。
目の前の男の子は、少しだけ驚いた顔をして。
「うん、やくそくするよ。このよで、いいや、おじいちゃんおばあちゃんになって、しんであのよにいってしまっても」
思いがけず頼もしい、情熱的な言葉を。
翠さまでもあり、私でもある小さな子に、彼は捧げる。
「きみを、いちばんだいじにするよ」
「ならいいわ。およめさんになったげる」
あまりにも素敵な約束を交わして、世界のすべてが光に包まれて。
そうして、夢は終わった。
「ほえぇ」
よだれを垂らしながら私が目覚めると、すでに首後ろの鍼は外されていた。
「気持ち良さそうに寝てたわねえ」
「お恥ずかしながら」
口をぬぐうための布巾を私に手渡し、毛蘭さんが呆れている。
この様子から察するに、沸教の鍼灸治療に対する警戒感は、随分と小さくなったのだろう。
私の肩凝りと頭痛は中学生以来の持病と化しているので、たった一度の処置では完治しないだろうけれど。
「今回は百憩さんのおかげでずいぶんと、身も心も軽く、爽快になりました」
ちっ、ヤブだったら徹底的にこき下ろしてやろうと思ったのによ。
「それはなによりです。どんな楽しい夢を、ご覧になりましたか」
道具を片付けながら、百憩さんが問うた。
私はそれに、目覚めを惜しむように、残念がる口調で答える。
「皇帝陛下の、お嫁さんになる夢です」
夢の中の少年。
どこかで見た面影があると思ったら、あれは幼き日の皇帝陛下だろう。
陛下は確か皇太子になる前、幼少の一時期に角州(かくしゅう)で育てられていたことがあり、そのときに出会った翠さまとは幼馴染であるはずだから。
「あら、央那ったら、侍女としてだけでなく、妃としても朱蜂宮(しゅほうきゅう)に入りたいのかしら」
面白そうに、毛蘭さんが笑った。
つられて私も百憩さんも笑うのだった。
正直、いやらしくて色っぽいシーンになる前に夢が終わって良かったな、とも思う。
翠さまがお目覚めになったとき、どういう顔をしていいかわからないもの。
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