百六十一話 小さな部屋の静かな戦い

 翠(すい)さまの寝室。

 解呪の治療は、まず百憩(ひゃっけい)さんのお祈りから始められた。


「これより、司午家(しごけ)に生まれし溌剌にして英明たる翠蝶(すいちょう)貴妃殿下のお身体に、拙僧のごとき非才の小人が謹んで術を捧げます。貴妃殿下の祖神(おやがみ)たる偉大なる亥(いのしし)の御霊(みたま)におかれましては、お赦しと加護をいただきますよう、伏して伏して、お願い申し上げます」


 寝室の守り神を祀る祭壇に百憩さんは何度も拝跪して、施術の成功を願った。

 沸教(ふっきょう)の僧である百憩さんとは言え、ここは八畜(はっちく)の亥神(がいしん)を崇め奉る司午本家である。

 よそさまのお宅で失礼をさせていただきますが、どうぞ寛大な心でお許しくださいという挨拶は、とても大事な、欠かすことのできない礼なのだ。


「央那(おうな)さん、毛蘭(もうらん)さん、貴妃殿下のお身体をお浄めするのを、お手伝いいただけますか」


 用意されたたっぷりの温かいお湯を前に、百憩さんが言う。

 これは日の出ないうちから巌力さんが汲みに行ってくれた、角州(かくしゅう)半島の海水である。

 翠さまが生まれ育った土地の力を借りる、と百憩さんは言った。

 湧かされたアツアツの海水を布で濾過し、ゴミを取り除いてあるのだ。

 私と毛蘭さんはその熱湯に近い海水に布巾を浸し、ぎゅっと絞る。

 仰向けで寝ている翠さまの、胸と腰だけ布を巻いて隠された肩紐なしのビキニスタイルに似たお身体を、優しく、丁寧に、けれど一生懸命に拭き上げる。

 お手伝い、助手の私たちも真剣であり、現場の空気はまるでドラマで見た手術室のようであった。

 特にお子さまの眠っているお腹周りを拭くときは、緊張で歯がガタガタ言ったほどだ。

 とん、と軽く翠さまのおでこに指を置いて、百憩さんが述べる。


「お目覚めなされないということは、意識、脳にまず悪い呪いが及んでいると考えられます。しかし貴妃殿下はうわ言も口になさり、ときには爪を噛むしぐさまで見られるようです」

「ええ、本当に、いつ目覚めてもおかしくないような、そんなそぶりなのです……」


 すっかり百憩さんを信頼しきった顔の毛蘭さんが、哀しげに言った。

 今日は、今日こそは目覚めてくれるかも。

 そう願い続けて過ごした彼女にとって、とても切ない日々だったはずだ。

 毛蘭さんを元気付けるように、百憩さんは確信を持った強い顔と声で、言った。


「貴妃殿下は、目覚めと眠りの境目に立っておられるのです。呪いから自分の心身を守ること。そしてお腹の御子を守ること。そこに力を集中するあまり、眠りから覚めるためのあと一歩、ほんの些細なきっかけを掴めない状態でいる、と言いましょうか」


 百憩さんは、施術前の見立て、翠さまの観察をしたときに、私たちにこう言った。


「こんなに身体の中に強い力を宿している女性を、私ははじめて見ました。信じられないほどの力のうねりが、貴妃殿下のお身体を駆け巡っております」


 スピリチュアルなことは分からんけれど。

 百憩さんの見立てでは、翠さまは弱っていないらしい。

 むしろその身に宿した強すぎる力を、赤子を守るために惜しげもなく注いでいる状態だと言う。

 電気回路が短絡(ショート)して、余計な経路に電流がぐるぐると無限循環しているイメージだろうか。

 お子さまを守るためのバリアにエネルギーを使いすぎていて、自分が目覚める方に回って行かない状況にある可能性が高い、というのが百憩さんの診断結果である。


「百憩さんが私に鍼(はり)でしたように、力の流れを変えて、意識の覚醒の方に持ってくる、ということでしょうか」


 私の質問に、百憩さんは半分の肯定と半分の否定を返した。


「それは行わなければなりません。しかしその前に、力の一部を用いて脳と身体に残る呪いの楔(くさび)を取り除かなくてはなりません」


 真因を消去してからでないと、目覚めてもまたいつか昏倒する恐れがある、ということだ。

 まずは呪いの解除、しかる後に目覚めを促す、という手順なわけね。


「……ですが、その呪いを解くだけでも、大きな力が必要になるのでは? それはどこから流し込むのですか?」


 まるで自分の力を分け与えたいとでも言うように。

 翠さまの手をずっと握ってくれている玉楊さんが訊いた。

 こくり、と小さく頷いた百憩さんが、私の目を見て、言った。


「央那さん。これから施術が終わるまでの間ずっと、玉楊さまと反対の方の手を、握っていてもらえますか」

「え、私ですか」


 いや、光栄だし、飛び上がるほど嬉しい役目だけれどさ。

 私で、物の役に立つのか?

 疑問に表情を歪めていると、どこから聞いた話なのか、百憩さんが理由となるエピソードを並べた。


「央那さん、塀(へい)貴妃殿下の鎖術(さじゅつ)を、跳ね返したそうではありませんか」

「ありましたね、そんなことも」


 それを百憩さんが知っている、ということは。

 ネタ元は、チャラ男の若手書官、涼獏(りょうばく)の野郎だな。


「でもあのときは無我夢中で、自分でもなにが起きてそうなったのか、まったく分からんのですけど」


 正直に自信がないと答える私。

 それも百憩さんには織り込み済みなようで。


「訳も分からずに塀貴妃の縛を弾くなど、それこそ尋常のことではありません。もちろん、この場での央那さんの役目は『念のため、翠蝶貴妃を元気付ける意味で』という範囲のものです。解呪そのものに必要な力は、貴妃のお身体に宿っているだけで、十分に事足りるでしょう」


 マジかよ、私のご主人の内的エネルギー、強すぎ?

 気休め要員であるとハッキリ言ってもらえて私はむしろ安心し、きゅむ、と翠さまのお手手を両手で握る。

  

「もう少しですからね。一緒に頑張りましょう、翠さま」


 私は涙をこらえて、自分を奮い立たせる意味も込めて、そう声に出した。

 そうだ。

 これは私と翠さまの、ほとんど初めてと言っても良い、一緒の戦いなんだ。


「ではこれから、皮膚の奥を流れている力を感じ取り、どのような療術を施すのかを決めて行きます」


 百憩さんは手をお酒で清めて、翠さまの頭皮、顔面、首筋、と体の上から下に、慎重に両手の指を這わせる。

 まるでピアノを弾いたり、パソコンのキーをタッチタイピングしているような軽やかで巧みな運指で。

 今までに見たことのない、真剣で切羽詰った顔で、百憩さんは翠さまを「診て」行った。

 ここを間違うと、これからの対処がすべてが台無し、見当違いになる。

 素人で門外漢の私たちにも伝わる、張り詰めた空気を百憩さんは体の周囲に纏っていた。

 一通りの触診を終え、ちらりと百憩さんが窓の外を見る。


「幸いにも、今は半月(はんげつ)の時期です。月は女性の力を象徴する存在であり、それが弱くも強くもない今頃であれば、貴妃殿下に月光の優しい加護が降り注ぐでしょう」


 ほほう、月の満ち欠けが生き物のバイオリズムに関与しているという話は広く聞くところだけれど、沸の教えにもそういうのがあるのか。

 確かに満月は綺麗だけれどギラギラしすぎていると怖いし、時代や場所によっては狂気と密接に繋がる存在にもなったりする。

 ちょうど良いバランスが、半月の今ということだな。

 まだ午前中なので月は見えないけれど、見えないだけでちゃんと空にはいてくれるはずだ。


「月の力よ、翠さまをどうかお助けください」


 祈れるものならなんにでも祈ってやるさという気構えで、私はぴったりと翠さまに寄り添う。

 廊下に面する窓の一つから、翔霏(しょうひ)が心配そうに覗いている顔が見えた。

 大丈夫だよ、という意味を込めて、私は頷く。

 今日あたりに軽螢(けいけい)と椿珠(ちんじゅ)さんが様子見とお見舞いに来るはずなので、彼らが来たときの対応は翔霏と巌力(がんりき)さんに任せているのだ。

 玄霧(げんむ)さんと想雲(そううん)くんは、本宅にある一番大きい祖霊祭壇の前で、昨夜から断食までして解呪の成功を祈願していた。

 いや、この屋敷の中だけの話じゃない。

 きっと州公の得(とく)さんも、皇都におわす皇帝陛下だって、翠さまの復活を心から願ってくれているに違いないんだ。

 自分と、お腹の子を必死で守ろうと力を振り絞っている翠さま。

 その翠さまの呪いを必ず解くのだと、知と技と気力を捧げる百憩さん。

 私たちはその二人を、必死で応援するだけ、祈るだけしかできないけれど。


「こういう戦いもあるんだな……」


 私たちは今、かつてないくらいに、戦っている。

 みんなで力を合わせて、気持ちを一つにして。

 こんなバカげた運命に負けてやるものかと、固く強く、現状に抗っているのだから。


「意と心に力を流すため、呼び水としてまず鍼を入れます」


 触診を終えた百憩さんが、並べた道具の中から鍼を選択した。

 仰向けに寝ている翠さまの顎、耳の下から首あたり。

 リンパの連続していることで有名な箇所に、慎重に狙いをつけて、何度も指先で皮膚と筋肉、血管を確認している。

 体の力を頭に持って行くわけだから、その経路である首筋に道を作る感じかな。


「毛蘭さん、並行して香を焚いていただけますか。邪(よこしま)な呪いが嫌がる香りを満たし、呪いがたまらず貴妃殿下のお体から逃げていくような働きがあります」

「わ、わかりました」


 毛蘭さんは、用意していた桃の枯れ木のチップを用意する。

 八州において桃は広く退魔に効能があると知られ、また古木を削ったり燃やしたりすると実に甘い香りがするのだ。

 焼けた石に桃の木を削ったチップをぱらぱらと振りかけて、お焼香のように燻し、煙を出す。

 春を強く感じさせる甘い香りが室内に満ちて行く中で、慎重に慎重に、百憩さんは翠さまの首筋に鍼を入れていく。


「あ、汗が」


 私がマッサージされていたときと同様に、翠さまのおでこに汗の玉が浮いた。

 翠さまの体の中で、よくわからないけれど、確実に変化が起こっている。

 ぴくぴく、と翠さまのまぶたが細かく動いた。


「ふーふーはーふー。ひーひーふーふー」


 浅く速い呼吸を繰り返し、翠さまの胴体がリズミカルに上下する。

 私たち全員が、手に汗を握り、固唾を飲んでその様子を見守る。

 汗をかいているのは百憩さんも同じで、極度に神経を集中させているのだろうとわかる。

 しかし彼の手元は全く狂いもなく、ミリ以下の単位で箇所を微調整し、一本、また一本と翠さまに鍼を入れて行った。

 最後の鍼を入れ終わった後、ふはー、と深呼吸をして、やっと百憩さんは額の汗をぬぐった。


「鍼を入れて少し時間を置き、呪いが出て行ったことを確認して灸を……」


 話している途中。

 百憩さんが、ぎょっ、とした顔になった。


「ああああ」


 まるで悪い夢にうなされているかのように。

 翠さまが突然、苦しそうな声を上げたのだ。


「うっうー!」


 そして、私と玉楊さんがそれぞれ握っていた手を力尽くで振り回して振りほどき。


「いやあああああああ!! わあああああああああっ!!」


 寝台の上で激しく暴れた翠さまに、私は額に裏拳を食らう格好になり、ぶっ飛ばされた。


「いったあ! す、翠さま!?」

「どうした? 大丈夫か麗央那?」


 部屋の中で起きた物音と叫び声を聞きつけ、翔霏が駆けつける。

 私と翔霏が見上げる先、寝台の上で。


「……小癪な坊主めが。せっかく苦労して掛けた呪いを断りもなく解こうとは」


 翠さまは目を閉じたまま立ち上がり、まるで別人のような口調で言い。


「わしの邪魔をしようとするとどうなるか思い知らせてくれる」


 ぐわあ、と牙を剥くように口を開け、獣のように百憩さんに飛びかかったのだった。

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