百五十二話 澄み渡る空と静かに輝く月
斗羅畏(とらい)さんが統治監督する領域、以前は「青牙部(せいがぶ)」と呼ばれた。
頭領である覇聖鳳(はせお)が斃れてからは、同じ土地を「白髪左部(はくはつさぶ)」と呼ぶようになったことは、以前から何度か述べている。
けれど。
「紛らわしいし、言いにくいですよね」
皇太后さまのお祝いの文書と品々を授受した後の、宴会の席。
私は羊の骨付き肉、塩と香草まぶしをもぐもぐと頬張りながら、何気なく言ってしまった。
それを聞いた斗羅畏さんが、ぴく、と半分塞がっている片まぶたと、片頬をひきつらせたのがわかった。
ところで覇聖鳳にやられた片目、眼球はギリギリ無事だったんですね、良かった。
彼の変化に気付いていないのか、それとも気にしていないのか、翔霏(しょうひ)も普段通りの顔で話に乗っかった。
「そうだな。もう実家を出たんだ。いつまでも分家のような名を称している必要もあるまい」
「……ご、ご使者どのたちには分からぬ、様々な事情がありましてな」
歯ぎしりがここまで聞こえてきそうな渋い顔で、向かいに座る斗羅畏さんが漏らした。
私たちと一緒にいるのが気まずいのか。
ちびちびとお酒を飲むだけで、ハッキリ言って楽しくなさそうである。
もちろん、色々と難しいことがあるだろうから、私たちが軽々に口を挟むような話ではない。
「ごめんなさい、軽い世間話です。ただ皇太后さまも、少し気にされていましたので」
「ほお、国母(こくぼ)さまがそのようなことを」
近くに座って私たちを接待してくれている老将さんが、話題に興味を持った。
銀月さんが彼に説明する。
「はい、母后陛下は、つまるところ斗羅畏どのが、どこまで白髪の本家と協調して政事を行うつもりであるのかを、知りたいとお思いになられておりまして。かような理由で、拙(せつ)らが遣わされたのであります」
痛いところを突かれたからなのか。
むっつりといつも以上に厳めしい顔になって、斗羅畏さんが短く答える。
「是々非々である、としか今は申し上げられませんな」
自領に利益があるなら、叔父の突骨無(とごん)さんや、引退してもなお影響力を強く維持している祖父の阿突羅(あつら)さんとも協力し合う。
けれど利益がないなら、むしろ害が及ぶなら、袂を分かつ道も、対決する道もあるだろう。
斗羅畏さんはそう言っているのだ。
冬に私たちと別れてから、斗羅畏さんの覚悟はすっかり完了しているのだな。
「さようでございますか。出過ぎた詮索をお許し下され」
銀月さんが恭しく謝罪した。
今の斗羅畏さんにはそこまでしか言えないだろう。
私たちがあれこれ聞いたところで、彼にも見通しの立たないこと、軽く返事できないことはいくらでも山積しているのだ。
「しかし」
居住まいを正し、ぐびりと杯の酒を空にした斗羅畏さんが、銀月さんを真っ直ぐに見据えて、言った。
「此度の国母さまのご厚情、この斗羅畏、生涯、忘れぬ。領民も喜んでおりましょう」
胡坐の太腿に両拳を乗せて、深く斗羅畏さんが頭を下げた。
銀月さんも礼を返し、満足そうに鷹揚に頷く。
うん、今回の使者の任は、これくらいで十分に及第点、良い収穫があったと考えるべきだろう。
「……実のところ、土地の名については、悩んでいた」
少し酔いが回ったのか、険しさの若干取れた顔で斗羅畏さんが吐露する。
白髪左部、確かにあまりふさわしい名ではない、と彼も思っていたのだろう。
「麗女史、なにか古典から良き字、良き名を見つけられませぬかな」
同じくお酒が進んで上機嫌な銀月さんが、私に大役を振って来る。
ま、この場で私がテキトーなことを言ったところで、採用なんかされないだろうし。
言うだけ言ってみますかね、と私は荷物袋の中の泰学(たいがく)を開く。
「戌(じゅつ)の方々の地名や部族名は、色を指す字と、身体の一部を指す字で構成されていますよね」
ぱらぱらと流し見して行くページの、色に関する項目を注意して読みながら私は考える。
白髪部、青牙部、赤目部(せきもくぶ)、黄指部(こうしぶ)。
そして辺境の黒腹部(こくふくぶ)。
すべて、色プラス体のパーツの組み合わせで名前が決まっている。
「そうだ。それぞれに確たる由来がある」
相変わらず目を合せてくれないまま、斗羅畏さんが私に言った。
西方の異民族と混血していて赤い目を持つ人が多い氏族は、文字通りに赤目部。
風雪と太陽、地下水の中に混じる成分に晒されて、頭髪が白っぽく脱色しがちな氏族は、白髪部。
斗羅畏さんの髪の毛も、濃いグレーで渋かっこいい。
戌族の中でも、移動遊牧をせずに土をこねて町や建物を造る人たちは、土の色が指に移っているということで、黄指部なわけだ。
青牙部は、青白く光る歯の美しさを自慢して自称したのだろうか。
騎馬の洒落男たちは、歯の輝きが命だったのかもね。
黒腹部のことは、よく知らない。
「青……」
私はここに来る途中の美しく澄み渡った青空を思い出し、呟いた。
覇聖鳳たちが使っていた字をそのまま使うのは抵抗があるだろうから、少し字面と言い回しを変えるとして。
「蒼心部(そうしんぶ)、というのはどうでしょう」
私の思いつきに、ほお、と老将が感心する。
「心も、体の一部ではありますでな。心の臓と言うくらいじゃ」
ジト目で私たちの会話を聞いていた斗羅畏さんも。
「空のように蒼い、心か……」
不愉快そうではない反応を示してくれた。
これは、思いがけずグッドコミュニケーションを達成してしまったか?
ともあれ、この場は他愛のない雑談として、話題は次から次へと流れて行く。
土地と氏族の名前が正式に変わるか、今のままを続けるのかはわからないけれど、斗羅畏さんたちが新しい一歩を踏み出したことは、確かなことだ。
「最初は『えぇー』って思ったけど、来て良かったな」
その応援の一端を担う機会が得られて、私はお遣いを命じた皇太后さまに感謝の気持ちを抱くのだった。
宴会が終わった、その夜中。
「月を見に行かないか」
寝る準備をしていたら、翔霏がそんな超絶イケメン発言をしたので、嬉し恥かし同行することにした。
昨日か一昨日が満月だったので、今はいわゆる十六夜(いざよい)というやつだろう。
「すっぽんの甲羅のようにみごとな月だな。いかん、考えてたら食いたくなってきた」
花より団子、月よりすっぽんの翔霏であった。
昂国(こうこく)に比べて空気中の水蒸気や砂塵が少ないのか、ここから見る月は輪郭も模様もバッチリ分かりやすく、目の前に迫って来るかのようだ。
「……食いたいなら明日、用意してやる」
私たちと同じように、月を見て物思いに耽りたかったのか、あるいは夜風の酔い覚ましか。
暗闇の中から土と残雪を踏み、斗羅畏さんが来てそう言った。
え、すっぽん料理までご馳走してくれるんですか!?
好き、斗羅畏さん、結婚して。
「それはありがたいな。忙しい身だろうに、なにからなにまでしてもらって恐縮だ」
不敵な顔でお礼を言う翔霏に、斗羅畏さんはフンと吐き捨てて。
「待っているのが貴様らだとわかっていれば、重雪峡(じゅうせつきょう)でしばらく風呂にでも入ってから来たものを。よくも俺の楽しみを奪ってくれたな」
いじけた顔で、こっちに悪態を投げて来た。
知らねーですわよ、そんなこと、と思いつつ。
「やっぱり重雪峡に行ってたんですね」
私は苦笑いするしかない。
私たちが焼いて滅茶苦茶にした重雪峡の奥宿(おくやど)を、斗羅畏さんはその生真面目さからきっと一生懸命に再建し、人々を宥めて過ごしていたのだろう。
しらっとした顔の翔霏に、斗羅畏さんが教える。
「邸瑠魅(てるみ)は生きていたぞ。あの調子だとしばらくすれば自分で動けるようにもなるだろう」
「そうか」
私たちが覇聖鳳の一党とどのような因縁を繰り広げて来たのか、大略は斗羅畏さんにも話してある。
報告を聞いても翔霏は特に表情を変えず、キンキンと音が鳴りそうなほどに輝いている月を眺め続けていた。
「殺したいほどに、憎い相手ではなかったのか」
斗羅畏さんの質問に、翔霏はさもどうでもいいように答えた。
「会えば殺し合いになるだろうな。お互いがお互いを、生かして置こうとは思うまい。だから会わない。それだけの話だ」
そう、今回は。
喧嘩も、殺し合いも、なし。
私たちはなにも騒ぎを起こさず斗羅畏さんに会って、役目を務めて、静かに帰るのみ。
翔霏にどれだけ含む感情があるのか、私にも詳しくわからない。
けれど翔霏は「それでもいい」と納得して、同行してくれている。
私はその上で気になっていることを、斗羅畏さんに聞いた。
「覇聖鳳の残党よりも、他の勢力に気を付けろって周りからは言われました。私たちが来た道はなにも物騒なことはなかったんですけど。他に誰か、厄介な連中がいるんですか?」
「黒腹の連中が、ここよりさらに北の境界辺りで多少のちょっかいをかけて来ているのは確かだな。あとは稀に所属不明の怪しい商人が来るくらいか」
黒腹部とのトラブルは斗羅畏さんにとって悩みの種らしく、苦い顔で腕を組んでいた。
一方、商人が来てくれること自体は喜ばしいことなので、素性が怪しかろうと取引価格が適正なら、斗羅畏さんは黙認しているらしい。
不器用な斗羅畏さんなりに私たちを安心させようとしてくれたのか。
少し照れくさそうな顔で、そっぽを向いて独り言のように彼は言った。
「まだ領内の管理も行き届いていない俺には、大きな戦を起こすような力も準備もない。俺を警戒したところで取り越し苦労だと、昂国の人間に伝えておけ」
多少の自嘲する感情があるのだろう。
自分はまだまだそこまでの大物ではないという吐露は、彼のプライドを微かに傷つける。
けれど、と私は言う。
「斗羅畏さんにその気がなくても、変なやつの変な行動に巻き込まれる、ってことがありますからね。お互いに気を付けておくのは大事かと」
私の言葉に、呆れた乾いた笑い声を漏らして、斗羅畏さんは返した。
「貴様ら以上に、変なやつがそうそういてたまるか。貴様らさえ大人しくしているのなら、俺の心配事はほぼないと言ってやる」
「ひどい。うら若き乙女にそんなこと」
「そうだぞ。言葉に気を付けろ。もう一度勝負するか?」
私と翔霏の苦情を黙殺して、斗羅畏さんは自分の包屋へと戻って行った。
翌日、私たちはほっぺたが落ちそうなすっぽん鍋を頂いて、さらにその翌日に昂国への帰路に着いた。
「また、いつでも遊びに来て下され」
気のいい老将さんに見送られる私たち。
なんとびっくり、空になった荷車と馬まで、皇太后さまは斗羅畏さんへのプレゼントとして置いて行くように指示していた。
「頭領どのからの心のこもった親書、この銀月めがしかと預かりましたぞ」
斗羅畏さんは慣れない筆を自ら執って、皇太后さまへの感謝の手紙をしたため、銀月さんに預けた。
決して綺麗な字ではないけれど、一生懸命書いた気持ちが伝わる、良いお手紙だった。
「上手く行き過ぎてて、怖いくらいだね。帰り道になにかあるかも」
「滅多なことを言うな。麗央那が言うと、冗談で済まない気がする」
私の軽率な発言に翔霏は顔をしかめたけれど。
帰り道も、なにも問題はなかった。
本当になにもなさ過ぎて、むしろ拍子抜けの気分だったくらいだ。
「いや、これが普通なんだよな」
私は思い直し、普通であること、平和であることに、深い感謝の心を抱く。
久しぶりに翠(すい)さまの顔が見れるということも重なって、昂国に国境から入ったとき、私はめそめそと嬉し泣きに明け暮れたのだった。
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