百五十三話 国境の市場へ行くのですか?
角州(かくしゅう)の都、斜羅(しゃら)の街。
そこにある司午(しご)本家に私はいる。
ようやく戻って来た私は、翠(すい)さまの目覚めを待ちながら、とても静かに暮らしていた。
「意識があるみたいに顔色も良いですし、飲みものや朝の光に、明らかに反応してますよね」
翠さまが弱っていないことをこの目で見られて、とても嬉しい。
連絡を受けて知ってはいたことだけれど、やはり自分で強く実感したかったからね。
お腹はあまり大きくなっていないけれど、胎動は安定しているとのことだ。
一緒にお部屋の仕事をしている毛蘭(もうらん)さんも明るく言う。
「呼びかけにもわずかに首を動かしたり、あーとか、ウーンとか、うわ言を返してくれるときが増えたわ。悪い呪いは随分と体から出て行っているのね」
大きなきっかけがあった方が良いのか悪いのか、私にはわからない。
けれど、翠さまのお目覚めは近く、時間の問題であるように思われた。
私たちが翠さまの身の周りのことをしていると、洗濯を手伝ってくれた翔霏(しょうひ)が来て、聞いた。
「巌力(がんりき)どのはいないのか」
「ええ、州のお役人さんと、お話があるって朝早くから出かけているわね」
毛蘭さんがそう答えて、翔霏は残念そうに肩を竦めた。
「そうか。見せびらかしたい技があったんだが」
翔霏は変な古いお寺に閉じ込められ、閉暗所恐怖症の発作が出たのか知らないけれど、分身の術を身に着けてお寺を脱出してきた。
これだけ聞くと意味がわからねーとお思いになるでしょうけれど、私も意味がわからねー。
面白い玩具を手に入れて自慢する気持ちで、巌力さんにも講評して欲しかったんだろうな。
神台邑(じんだいむら)のことは軽螢(けいけい)たちにひとまず任せて、翔霏は司午屋敷に詰めてくれている。
翼州(よくしゅう)と角州の間に連絡ごとがあったときなどにすぐ走ってくれるので、お屋敷のみなさんからも重宝がられていた。
「いろいろありがとね。私がここから離れられないせいで、面倒事を押しつけちゃって」
「気にするな。麗央那(れおな)は翠蝶(すいちょう)貴妃殿下の傍に居た方が良い。そのために角州に戻って来たのだから」
今度こそなにがあっても傍らに、少なくとも翠さまが目覚めるまでは角州を離れないぞ、と私は心に決めている。
斜羅の街はすでに桜が散って、丘には菜の花やヒナゲシが咲き乱れているのが見えた。
すっかり春が深まって寒さに震えることもない。
「お目覚めするには最高の季節ですよ」
私は翠さまの耳元で囁くのだった。
「お屋敷の仕事を任せてしまい、申し訳ありませぬ」
「あら巌力、お帰りなさい。お疲れさま」
夕方、食事前の時間帯。
巌力さんが戻り、玉楊さんに帰宅を告げた。
横たわる翠さまと一緒に、私と毛蘭さんが玉楊(ぎょくよう)さんの琵琶の調べを聴いてうっとりしていた、実に穏やかな夕べである。
ちなみに翔霏は琵琶の音が気持ち良くて、長椅子の上で手足をだらりと投げ出して寝ている。
殿方の前ではしたないですわよ、翔霏さんったら。
巌力さんは、お役所でなにか用事を足していたという話だけれど。
「なにか州のお仕事に関わるんです?」
私の質問に、いやいや、と首を振って巌力さんは答える。
「奴才(ぬさい)はただの伝言係、使い走りの小僧でござる。州のとある高官の方が、司午家のみなさまに力を貸してほしい仕事があるとおっしゃられましてな。多少の話を聞いて持ち帰っただけのこと」
お前のような小僧がいるか、という突っ込みはさておき。
なにか、街でお祭りやイベントごとでもあるのだろうか。
あるいは地域の治安に関する話かもしれない。
代々の武家である司午家からは、軍人や警察関係の仕事に就いている人が多いので、その手の相談を役所、州庁府から受けることが多いと聞いている。
今は皇都に出かけているけれど、当主の玄霧(げんむ)さんは角州軍国境警備隊の正使さま、要するに大隊長なのだ。
「どんなお話でしょう?」
毛蘭さんの問いに、巌力さんは角州の簡単な略地図が描かれた紙を懐から取り出して、説明した。
「ここから北の峠を越えてしばらく行くと、青牙部(せいがぶ)……今は白髪左部(はくはつさぶ)でござったか、彼(か)の国との境界の砦があり申す」
「私たちが前に牢屋に放り込まれたのとは、違う砦ですね」
微妙に苦い思い出が蘇った。
頷いて巌力さんが続ける。
「砦の周囲は軍馬の訓練地として平野が広がっておるのですが、得(とく)……いえ、その高官の方は、ここにこのたび、市場を開く仕事を担当しておられましてな」
「そんな辺鄙な、国境のギリギリにぃ?」
お客さんも出店者も、来ねーだろと思って、つい変な声で言い返してしまった。
なによりかにより。
「……戌族(じゅつぞく)の客が売り買い出来ない市場をそんなところで開いて、いったいなんの意味があるんだ」
いつの間にか起きて話を聞いていた翔霏が、首の骨をポキポキと鳴らしながら言った。
そう、私たち昂国(こうこく)の人間は、外国人を相手に勝手に商売をしてはいけないのだ。
通商を交わしたいなら国から割り当てられた枠内の予算で国に許可を取って、利益率はどれくらいで、これらの品目はダメで、などなどと。
非常に煩雑な手続きを何段階も踏まないと、おおっぴらの商売はできないことになっている、のだけれど。
なにかに気付いたように、玉楊さんが言った。
「環家(かんけ)の保持していた割り当てが、部分的に角州に回って来たのですね。おそらくは正妃さまたち、素乾家(そかんけ)の進めていた通りに」
「あ、そうか」
納得して呟く私。
今まで環家と黄指部(こうしぶ)に半ば独占状態で割り当てられていた、商取引の許可額のうちいくらかが、各地に分配されたわけだ。
これで翼州も角州もある程度は自由に、今までよりずっと大きな規模で戌族各氏部と商取引を行うことができる。
まず角州は、お隣さんである斗羅畏さんたち白髪左部の人に声をかけて。
「近くで市を開くから、ぜひ来てみませんか」
とお誘いしようとしているのか。
「なるほど。あのカタブツにとっては良い方向にばかり話が進むな」
微妙な含み笑いで翔霏が言った。
先だって、たくさんの贈り物を皇太后さまから受け取った斗羅畏さん。
その喜びも冷めないうちに、近所で大きな市場が開催される。
しかも普段は中々買うことのできない、角州の名物、名産品が目白押しだ。
特に白髪左部には、大きな漁港や塩田が少ない。
半島の近くに住んでいながら、彼らは海の幸に飢えているし、それらの加工技術も流通手段も、まだまだ未発達なのである。
「……きっと、これが良い流れなのでしょうね」
玉楊さんが、優しい声で感想を述べた。
かつては強大な既得権益の恩恵にあずかっていた彼ら、環家の一族。
その利権がずたずたに解体されたことで、他の地域の経済や交流が活発化する。
商品や技術者の行き来が盛んになれば、いずれ斗羅畏さんたちも、海岸に新しい港町を整備したりできるかもしれない。
「死なねば一粒の麦のまま、けれどその実が死ねば多くの穂を実らせる、かあ」
私は小さい頃に読んで知った訓話を思い出し、小声で嘆じた。
実家への未練はほぼないであろう玉楊さんにとっても、複雑な感情があるには違いない。
全体をまとめて、巌力さんが述べた。
「そう言った次第で、州庁から司午家に頼みたいことが山のようにある、とのことにござる」
国境軍との調整や、市場を実際に警備する段取り、往復する道路の治安情報の確認、建屋の設営、関係者の宿泊の段取りなどなど。
確かに玄霧さんたち角州左軍が関わる仕事は多岐にわたるだろう。
私は確認のために巌力さんに訊く。
「市場が開催される前には、玄霧さんも帰って来るということですか?」
「その手はずに、進んでおりまする。これから少々、この屋敷もお役人が出入りして騒がしくなるやもしれませぬ」
ふーむ。
皇都で除葛(じょかつ)軍師の悪巧みを暴くのは、どれだけ進んでいるのやら。
そっちの仕事が半端にならないことを祈りつつも、玄霧さんが帰って来るのは基本的に嬉しいので、私も複雑。
「いいんじゃないかしら。賑やかな方が翠さまも驚いて、ひょっこり目を覚ますかもしれないわ」
ふふ、と笑って毛蘭さんが、寝ている翠さまのほっぺたをつつく。
「そうですね、玄霧さんと翠さまも仲の良い兄妹ですし、周りから楽しい話が聞こえて来たら『あたし抜きで面白そうなことしてるんじゃないわよ!』って飛び起きてくれますよね」
私も失礼して、反対側のほっぺをぷにぷに。
昏睡している妊婦と思えないくらい、翠さまの頬は瑞々しく、弾力があった。
「気を付けなさいよ」
唐突に。
いきなりそんな声が聞こえた。
私たちは一瞬、誰が言った台詞かを理解できず、驚いてお互いの顔を見比べた。
まんまるお目々に真一文字に結ばれた口をして、翔霏が寝台に横たわる翠さまを凝視している。
「す、翠さま?」
私は愛しのご主人が、とうとう意識を取り戻してくれたのかと涙ぐみつつ、その上体を優しく揺する。
「ぐう」
けれども、翠さまのまぶたは重く閉じられたままで、わずかばかりに突き出した口からは寝息しか聞こえなかった。
「夢の中にあっても、わたくしたちの話を聞いて、案じてくれているのね、翠蝶……」
きゅ、と翠さまの手を握り、はらはらと涙を流す玉楊さん。
もう片方の掌で翠さまの顔や頭を、愛おしげに撫で続けた。
見守っているのは、私たちだけではない。
翠さまも私たちを見守ってくれているのだと感じ、有り難さにボロボロと泣いた。
「麗央那はどうする?」
夜、私は翔霏と一緒にあてがわれたお部屋の寝台で、聞かれた。
角州と白髪左部の共同市場、カクハク・フェアーとなるであろうイベントに、私たちが足を運ぶかどうかという質問だ。
「急げば往復しても三日、四日くらいかなあ」
略地図を見ながら、私は考える。
翔霏の乗馬技術もかなり上達したので、国境の砦まで、強行軍であれば一日で走れるだろう。
私は翠さまの傍を遠く長く離れるつもりはまったくないけれど、斗羅畏さんたちへの仁義を考えると、知らんぷりを決め込むわけにも行くまい。
最低でも挨拶のお手紙を出すくらいはしないとね。
「……口に出すと、良いことも悪いことも真実になってしまうという考えがあるからな。正直、私はこんなことを言いたくないが」
翔霏は重い口調を皮切りに、話し始めた。
「斗羅畏に都合の良いことばかりが進み過ぎている。私が斗羅畏の敵だとすれば、ことを起こすなら、今しかない」
「私も、実はそう思ってた」
覇聖鳳や姜(きょう)さんから、私たちは嫌と言うほど学んだ。
なにかしたいなら、相手が一番嫌がるタイミングで、意外性を基に行え、と。
美味い話の裏に落とし穴があることを、幸せなときこそ災いが降りかかることを、心と体に叩き込まれている私たちなのだ。
「市場を警戒しに覗きに行くくらいなら、いいかあ」
私のぽつりとした呟きに、翔霏が安心させるように答えてくれた。
「ああ、すぐに帰って来られるさ」
少しばかり、お屋敷を留守にしますけれど、お許しください。
私は多少の罪悪感から心の中で翠さまに告げる。
国境で開催される、新しい市場。
角州と白髪左部の明るい未来を築くための、第一歩。
「誰も、傷付いたり悲しんだり、しませんように」
瞳を閉じて、祈った。
「気を付けるのよ」
夢か現か。
翠さまの声が、再び聴こえた。
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