忘れてないのはきっとあなたも同じ

僕にとって過去は、切り離したくて仕方のないもので、忘れたいこと、忘れてほしいこと、許せないこと、許さないでほしいこと、そんなことばかりが水に垂らした墨みたいにもやもやとあちこちに漂っている。


ただ忘れたいと思うものほど、脳のどこかしらに強烈に残っていてなかなか消えてくれない。全部忘れることができないなら、いっそ誰も僕を知らないし誰のことも知らない場所で、違う自分で生きていきたいとすら思う。故郷にいればかつての通学路さえ時折牙をむいてくるから。


場所をきっかけに思い出す程度なら大したことじゃない。地図を縮小していけばいい思い出があった場所もそこかしこにあるから、そっちに飛びつけばいい。


でも回避できないきっかけがある。


もう二度と顔を合わせないと思った人と会ってしまったとき。ただ視界にいるだけなら逃げようもある。でも人生そうは作られていない時があって、ばったり話しかけられてしまうなんてことがある。


きっと言葉に詰まるという状況は、こんな場面を指したに違いない。言い淀んだぎこちない挨拶。なんとか悟られまいと声がおかしくなる。まるで運命の相手に…ある意味で人生にかなりの影響をいただいた相手だからこの言葉も不相応ではないが、やっぱり悪い枕詞をつけたくもなる。とにかく、トラウマそのものみたいにな人に出会ってしまう経験は、しばらく息をひそめていた記憶を想起させるには十分すぎる起爆剤になってしまった。


幸い、言葉を交わす時間は10秒となかったから簡単な会釈で終わった。ぎこちない内容であったのは変わりないが時間の短さが唯一の救いだった。


つらいのはそのあとだ。ぐつぐつと煮えてはぱちんと弾ける粘度の高い泡みたいな思いが、湧いて止まらない。会ってしまった、思い出してしまった、忘れていたかった。


そしてなにより、あの人は変わっていた。

ずるいじゃないか。こんなにこちらは何年も引きずり回したうえで、いまだ形が変わらないあの時のままなのに、ひとりだけあの時とは違う表情でそこに現れるなんて。


バカみたいだ。時間が止まっているのは僕だけだ。全部そうだ。いつまでも引きずって変わらないままでいるのは、僕だけ。みんな置いて行ってしまう。あったこと全部無かったような顔をして時間を進めてしまう。苦しい。なら僕だって過去全部置いて、行きたい。

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みないの声は今日もでかい 未綯 @minai7171

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