かがちに噛まれてくちなわに

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第1話かがちに噛まれてくちなわに


 放課後、いつものように美術室の戸を開く。ツンと鼻を刺すテレピンの匂い。万華鏡のように色彩の散らばるカーテンの合間から差す斜陽。野球部の掛け声が木霊のように聞こえる。

 俺は、いつもの場所に腰を下ろす。巻物のような筆入れを取り出し、ナイフで鉛筆をこれでもかというほど削っていく。画架に書きかけの絵を挟んだカルトンをイーゼルに置く。準備をしていると鼻が慣れたのか、テレピンの匂いが気にならなくなってきた。今描いているのは、美術室に眠っていた不気味な蛇の置物である。左手で練消しゴムを練りつつ、2Hの鉛筆を紙に這わせていく。そして描画した線を、ファンデーションを塗るように紙に練消しを優しくたたいて淡くさせてゆく。

「よし」

  及第点といったところだろう。まだ教室に来てから一時間も立っていなかったのだが、新しい作品に取り掛かるほどの集中力も無かったので、帰り支度をする。

「よっ!」

「んだよ……もう俺は帰るからな」

  声の主にそっけなく答える。

「え?紫音もう帰るの?」

「まあ、描きかけのデッサンが終わったから」

「じゃあモデルになってよ」

「じゃあってなんだよ……めんどくせー」

「幼馴染の仲じゃん。おねがーい!」

「誰か他の男に頼めよ。どうせ誰もお前のお願いなら断らないだろ」

「そんなこと言わずに、お願い!なんでもお願い聞くからー!ね?」

「なんでも?」

「いや、エッチな事とかはダメだよ?」

「お前に発情するわけないだろ……ったく、じゃあ、モデルやってるときに考える」

「マジ?やったね」

 俺がモデルを了承すると、瞳は水を得た魚のようにデッサンの準備を始める。肩掛けバックに入っていたクロッキーを取り出し、立てたイーゼルに掛ける。

「そういえば、どうして人を描こうとしたんだよ。いつもは静物ばっかなのに」

「気分だよ気分。じゃ、そこに楽な姿勢で座って」

「はいはい」

 俺が座ると瞳は鉛筆を前に出し、片目をつぶって寸法を測り始める。モデルをやっている間は何もやることがなく、手遊びで暇をつぶそうとしてもすぐに飽きてしまう。

「飽きた」

「じゃあ、なんか話せばいいじゃん」

「何かって言われても……」

 少し考え込み、教室に暫しの静寂が訪れる。

「前かがみにならないで!」

「わるい」

「別にいいけど」

「そういえば、あんま気にしてなかったけどお前の苗字ってかっこいいよな」

「急にそんな話題?…まぁ、珍しいとは思ってるけど言いずらくない?鬼灯って」

「俺、初めてだったら絶対読めない自信あるわ」

「それ言うならあんたも蛭田じゃん」

「苗字にカエルはやばいだろ」

「ウケる。この前もさ、山本君だっけ?に、急に声かけられてさ」

「山本?二組の絃歩ってやつ?イケメンだよなあいつ」

「みんなそう言ってるよね」

「…で、なんて言われたの?」

「来週の夏祭り一緒に行かない?って」

「行くの?」

「行くわけないじゃん!どんな人かも知らないのに」

「そらそうか」

「なに?ちょっと安心しちゃったり?」

「そんなわけないだろ。筆止まってるぞ」

「ホントに?」

 彼女は、にへらと笑みをこぼしながら鉛筆でクロッキーをなでてゆく。

「先約がいるって言って断ったし、友達誘って行ってこようかなー」

「先約居るって言って断ったのかよ」

「別にいいじゃん。紫音には関係ないんだし」

「もう夏休みか、早いな」

「そうだね。そろそろ帰る?」

「書き終わったのか?」

「うん」

 気づけば空は闇で染まり、グランドには野球部のナイターライトが煌々と付いている。二人で美術室を片付け、教室を後にする。

「じゃ、帰ろっか」

 俺たち以外、誰もいなくなった廊下を歩き、下駄箱で靴に履き替える。これから夏本番ということで、湿気がまとわりついて来る。数歩歩くだけで、一滴、また一滴と汗が噴き出す。側道にある点滅している街灯に蜻蛉が群れを成し、野球部も部活が終了したのかさっきまでの活気が嘘のように静寂に包まれていている。週に二回程度は、こうして二人で帰っている。この習慣は昔から変わらない。

「暑いな……」

「そうだね」

 特に話す話題もなく、ただ一歩ずつ着実に家へと向かうこの時間が俺は好きだ。

「ねえ、勝負しようよ」

 無言の空間に、痺れを切らした瞳が勝負を嗾ける。

「何の勝負?」

「口パクでしゃべるから、なに言ってるか当てて」

「当たったら?」

「アイス奢ってあげる。外したら奢ってね」

「三回勝負ね」

「はいはい」

 瞳は口をゆっくりと動かす。

「分かった?」

 彼女の口の形は「い」と「う」だった。

「ヒントは?」

「しょうがないな~。ヒントは動物」

「いぬ」

「正解…次!」

「んー…ヒント」

 今度は三文字で「ういあ」だ…。

「ヒントかー…。さっきは秒で答えられちゃったからなー。ヒントはなし!」

「マジかよ…。ういあ…だろ…」

「スイカだ!」

「残念!睡魔でしたー」

「お前絶対答え変えただろ!」

「変えるわけないじゃん!次が最後だよ!」

 最後は四文字だった。母音はおそらく「あいうい」だ。

「さすがに何かヒントくれよ」

「ヒントねー…私が紫音にずっと思ってることかなぁ」

 少し歯切れの悪い返答だった。俺は皆目見当がつかず、一文字目のあ段から順に当てはめていく。考えること数分、俺は一つの答えに行きついた。それは小学校低学年の時に呼ばれていたあだ名だった。

「分かった」

「お!言ってみて」

「泣き虫だろ」

「ファイナルアンサー?」

「そうだよ」

「ぶっぶー!はずれー」

 瞳は心底安堵したような顔つきで言い放った。

「結局俺の負けかよ」

「勝負は勝負だから。甲斐性の見せ所だよ?」

「お前に見せてどうすんだよ…」

「それもそっか」

 彼女は、にへらと笑みを浮かべる。恐らく無意識だろう。笑みを浮かべる直前に、彼女は俺を刺すような視線を向けた。さながら、被捕食者を狙う捕食者のようだった。その瞬間、瞳の用意していた答えが頭を過ぎったような気がした。

「紫音?どうしたの?」

「いいや、なんでもない」

 きっと勘違いだ。そうに違いない。

「あぁ涼しー!」

 通学路沿いの空調の効いたコンビニの店内でアイスを探す。

「なににしよっかなー」

「早く選べよー」

「紫音は食べないの?」

「俺はもう決まってる」

「はやッ!」

「会計するからなー」

「えっ!?ちょっと待って!」

 二人とも買ったのは、棒状のラクトアイスだった。俺はバニラ、瞳はチョコレート味のアイスをコンビニの追突防止柵に座りながら頬張る。片足を振り子のようにぶらぶらと揺らしながら座る瞳を見つめる。

「なに?食べたいの?ほい」

 彼女は有無を言わせずに、先程まで咥えていたアイスを差し出す。俺は観念して彼女の差しだしたアイスを一口頬張る。

「チョコもうまいな」

「でしょ?そっちもちょーだい!」

 そう言って彼女は右手で髪を耳に掛ける。外れかかった第二ボタンの奥にある闇を見ないように瞳の顔を見つめる。口角から今にも滴り落ちそうなバニラアイス。アイスを咥えた彼女と眼が合う。その間、約二秒未満。その眼に見つめられた瞬間、身体中すべての器官が停止したような錯覚に陥った。そう、上目遣いで見つめる彼女の目が僕の胸を貫いたのだ。放心する紫音を他所に、瞳は口角から垂れたアイスをぺろりと掬い上げるように舌でなぞる。ぽたっと音を立てて、溶け始めたアイスが地面に濡れそぼる。

「紫音?溶けてるよ。早く食べないと」

 彼女の言葉で我に返り、アイスを口に運ぶ。

「食べるのはや!」

「うるせぇ。お前も食い終わってんだろ!捨ててくる」

 そう言って半ば強引に、瞳の持っていた棒をひったくる。

 家に向けて、再び歩を進める。先を進む瞳と後を追うように進む紫音。まるで持久走をしているときのように視界が狭まり、呼吸が早くなる。瞳の首筋を流れる汗。肌色が少し透けたワイシャツ。ふわっと翻りそうになるスカートにどうしても目が寄ってしまう。瞳がどんな話題を振っても上の空になってしまう。甘ったるくふわふわとしたわたがしのような夢見心地のまま、彼女の家の前に着いた。

「じゃ、また明日ね」

「あぁ、もし先約が見つからなかったら言えよ」

 瞳が玄関のノブに手をかけた時、俺は言うはずのなかった言葉を口にしてしまった。しまった。と小声で呟いて瞳を見ると、にへらと笑みをこぼしていた。

「じゃ、お願い事これで決まりね!おやすみ!」

 俺を揶揄うような声で言って、逃げるように家に入って行ってしまった。

「はぁぁ…」

 自室に戻り、枕で顔を包んで叫ぶ。なんで言ってしまったんだと自責の念に苛まれる。

 この日から約一週間、時間は予想よりもだいぶ早く過ぎていた。床に塗られた、塗りたてのニスの香りが鼻をツンと刺す。教師すら欠伸する校長の挨拶、うろ覚えの校歌斉唱。蒸し風呂の様な体育館から戻り、空調の効いた教室でショートホームルームが始まる。ほぼすべての生徒が、小学生のころから聞きなれた夏休みの注意事項を聞き流し、貴重な高校生の夏が始まる。

 終業式の翌日、課題が全く手につかなかった。理由は一つ。夏祭り当日だからだ。午下、一定のリズムで鳴る蝉時雨。その声がカウントダウンのようで、むず痒さと焦燥に駆られる。俺は柄にもなく外に飛び出し、太陽がアスファルトを照り付ける中、がむしゃらに走り出す。

「そろそろ準備しないと」

 瞳はぱたりと本を閉じ、浴衣を押し入れから引き出す。自室から出て、シャワーを浴びる。髪を櫛ですいて結い、輝血の簪でとめ、オミナエシが映えた生成色の浴衣に袖を通す。カーテンの隙間から差す斜陽が、集合時間が近いことを伝える。そして、彼の来訪を知らせる呼び鈴が鳴る。

どたどたと階段を駆け下りる音が鳴り、戸が開く。

「ごめん待った?」

「いや。待ってない」

「じゃあもうちょい待ってて」

「お前がこの時間に指定したんだろ」

「冗談だよー!行こっか!」

 浴衣姿の瞳は、いつもの彼女とは思えないくらいの眩しさだった。息を呑むほどの美しさだった。呑み込んだ唾とともに、瞳への言葉も呑んでしまった。心なしか彼女の背中が不機嫌に見えた。

「なんか怒ってる?」

「別に怒ってない……」

 ぶっきらぼうに答える瞳。これは不機嫌なときの癖だ。

 会場はなかなかの熱気で、少しでもバランスを崩せば、人波に揉まれてどこかへ流されてしまうほどだ。波に乗り、少し前を歩く瞳の浴衣姿は凄く大人びて見えた。

「ねぇ、紫音」

 気付くと、少し先を歩いていたはずの瞳が目の前にいた。そして、そらしていた俺の視線に割り込むように覗いてきた。彼女の眼から逃れる方法を俺は知らない。

「浴衣、どう?」

 ついに聞かれてしまったと思った。家からここまでずっと避けてきたが、こう聞かれては、答えないという選択肢はなかった。今日の瞳は、俺の中にある幼馴染とはかけ離れた可愛さと美しさだった。しかし、その中には確かに幼馴染としての家族愛のようなものが存在していた。それなのになぜかずっと落ち着かずにどぎまぎしてしまっていた。

「ねぇ、さっきからこっち見てくれない」

 瞳が拗ねたようにそう言ったので、彼女の方へ視線を向ける。すると瞳は袖を軽く持ち上げて見せてから、もう一度聞いた。

「どう?」

 じっと瞳を見つめると、彼女の頬は暑いのか、軽く朱色に染まりはにかみながら俺を見つめ返した。前後に流れ続ける人混みの真ん中に俺と瞳は川の流れを分ける岩のように立っていた。暗くなるにつれて、一つまた一つと灯りだす辺りの照明が、まるで彼女を照らすために光っているような錯覚に陥る。人混みと照明で、あたりの景色が曖昧になり、視界の真ん中にいる瞳だけにピントが合う。

「綺麗だ」

 そう俺の口から言葉が零れた。瞳は予想外だったのか、口を半開きにしてきょとんとしている。俺も自分が何を言っていたのか脳内で反芻した。俺は瞳相手に何を言っているのだろうか。無難にかわいい、かわいいと言っておけばよかったのに。

すぐに顔を逸らしてしまった俺とは対照的に彼女の眼は俺を見つめたままだった。瞳の方を見なくても頬のあたりに彼女の視線が当たっているのが分かる。

「それ…ってさ……」

 瞳が口を開く。そして消え入りそうな声で俺に聞いた。

「……って……こ……き……こと?」

「聞こえない。なんて?」

 祭の活気に彼女の言葉がかき消されてしまった。

「何でもないよ。なんか買いに行こ!」

 少し残念そうに眼を落とし、人波の流れに沿って進んでいく彼女の簪が、不意に照らされきらりと光った。

はぐれそうな人混みの中、一歩前を歩く瞳に、出しかけた手をポケットに入れて握りしめた。気づけば、二人は祭り会場の端まで来ていた。

「もう端まで来たぞ、何食うんだよ」

「うーん……あっ!」

 声を出し、彼女の指が差す先には落書きせんべいの店があった。

「おっちゃん、落書きせんべい二つ」

「まいどっ」

「わたしも払うよ」

「たまにはこういうのもいいじゃん」

「……ありがと」

 いつもの瞳からは想像のできないしおらしい態度に、動揺してしまう。祭りが俺を動揺させているんだ。この暑さのせいだ。

「別に」

 俺はぶっきらぼうに答えてしまう。

「兄ちゃん出来たよ!彼女さんも」

 落書きせんべいのおっさんに彼女でないと正す気力もなくどうも、と一言言ってせんべいを受け取る。

 大判のせんべいを割らずにそのままかぶりつく。えびせんにシロップの甘みとチョコスプレーの甘みが混ざった何とも言えない味。縁日などでしか食べない人工甘味料の合わさったような味がダイレクトに伝わる。何口か食べた後、口周りを拭く。瞳はというと、上品に一口サイズに割ってから食べていた。

「次はわたがし食べたい」

「綿菓子ならさっき見たな」

「ねねっ、ちょっと止まって」

「ん?」

「もーらい」

 彼女は俺が拭き忘れた頬のチョコをつまんで口に含んだ。照れ隠しに飲んだ行きがけに買った生温いコーラは炭酸が抜けて砂糖水のようになっていた。

「射的屋さんあるよ!一回やって行こうよ」

「別にいいけど。そろそろ場所取りしないと花火見れなくなるぞ」

「分かってるよー。さき私やるね」

 コルク銃を片手で持ち、狙いを定める。彼女は舌嘗めずりをしながら前髪を耳に掛ける。そんな彼女の姿に動揺してしまう自分に驚きが隠せない。なんともいたたまれぬ気持になり、彼女からもう一歩離れたところに陣取る。

「紫音じゃん」

 声の主は今一番来てほしくないやつだった。

「あ、絃歩か。お前も来てたんだな」

「まあここらへんじゃ一番でかい祭りだし、今は部活のメンバーで男同士暑苦しく楽しんでるよ。紫音は誰と来てんの」

「あー、一人で気楽に回ってるよ」

 すぐばれる様な嘘をついてしまった。

「ボンタンアメとれたよ!」

 なんて間が悪いのだろうか。瞳は、はちきれんばかりの笑顔で来た。

「鬼灯さんじゃん。もしかして紫音と来てたの?」

 首筋から冷や汗が流れる。

「いや、いまたまたま……」

「隠さなくてもいいって、どうせそうだろうと思ってたし。まぁなんだ、頑張れよ」

「ちげえって」

 絃歩に反抗するかのように彼の耳元で否定する。

「山本君この前は断っちゃってごめん。紫音に誘われてて……」

「別に気にしてないから大丈夫だよ。友達から呼ばれたから行くわ。二人とも楽しんで」

 わざとらしく携帯を見て逃げるように人混みの中に消えていく彼に申し訳なさを感じてしまう。

「そういう関係に見えたのかな?」

 瞳は反応に困る質問を投げかける。

「しらん」

「負けたらフルーツ飴奢りね」

「聞いてねえ!」

 彼女はにへらと笑って俺を急かす。射的をするのは久しぶりな気がする。そう思いながらボンタンアメよりも大きい景品に狙いを定める。五発中四発撃って景品なし。あと一発で取らなければ、フルーツ飴を奢ることになる。撃鉄を起こし、コルクを詰める。手汗で少し湿ったコルク銃のグリップを握り直し、ゆっくりと狙いを定める。集中しているせいだろうか、人混みの喧騒が小さくなっていく。小さくなった喧騒の中から、近づいてくる下駄の音が聞こえる。そして耳元に吐息が触れる。

「もし狙ってる景品取れたらキスしてあげよっか?」

「は?」

 俺は素っ頓狂な声を上げ、瞳の方を向く。もちろんコルクはあらぬ方向に飛んで行き、景品は取れずじまい。笑いを堪えるのに必死な瞳を横目に、参加賞の線香花火を貰う。

「今のは卑怯だろ」

「なんのこと?」

 しらを切る彼女をちょっと小突いてフルーツ飴の出店へ向かう。

「いちご飴ご馳走様!」

「はいはい」

「一つ食べる?」

「じゃあ貰う」

 俺がいちごを一粒口に含むと、瞳はまたにへらと笑う。

「何かおかしいか?もしかしてまた口に何かついてる?」

「うんん。キスが出来なかったから間接キスがしたかったのかなーって」

「そんなわけないだろ。瞳が言うまで気づかなかったわ」

 滲む汗で嘘を薄める。

「またまたー」

 彼女は俺を見透かしたかのようにわざとらしく言って見せる。

気が付けば花火大会まであと五分ほど。人々の話は花火で持ちきりだ。俺たちは、懐かしのある場所へと向かった。小さいころに二人で見つけた花火の特等席。

「ここに来るのも久しぶりだね」

「そうだな」

 神社の境内から延びる獣道を少し進むと、少し開けた場所に出るのだ。開けたと言っても高校生二人もいればもう手狭な空間で物理的に二人の距離も近くなる。腰を下ろすと、腹に響くような低く重い音が聞こえた。

いつしか降りた帷に咲く大輪の花。咲いては枯れる儚い夢。

夜滝を登る小さな光は、ここが死に場所だと言わんばかりに華麗に、そして儚く消える。瞳を見ると、彼女の視線は花火に吸い込まれるようにじっと花火に向いている。

綺麗だった。そして同時に怖くなった。ただ一言好きと伝えられたらどんなに楽だろう。けれど、拒まれたら?今までの関係を壊すほどの価値がこの一言にはあるのだろうか。

 汗をかいた缶コーラを一気に呷る。温くて甘ったるい、まるで自分みたいな味だ。花火の光でくっきりと現れる彼女の輪郭とうなじ。ぷるると潤った唇。

 俺の決断を急かす様に花火は勢いを増してゆく。地元の花火は最後の三分間が有名だ。

 そろそろその最後の三分間が始まる。また、一際腹に響く、低く重い音が鳴り、帷に牡丹の花が咲く。

「……綺麗な花火だね」

「確かに綺麗だな」

 帷に咲く花火も、隣で花火を見つめる彼女も。綺麗だと、そう素直に感じた。

顔が熱くなる。きっと俺の顔は赤い。でもそれはきっと、牡丹に照らされたからだ。

 牡丹の花火を皮切りに、花火はグンと勢いを増す。花火大会が終わるまであと90秒ほど。花火の勢いとともに逸る心臓が苦しい。

 好きだ。の三文字を言うのに一秒もかからないだろう。気づけば、枝垂桜が咲いていた。

 花火が終わっても、俺たちはしばらく無言のまま、夜空を見ていた。焦りの色が心のキャンパスの余白を塗り進めていく。

「そろそろ帰るか」

「そう…だね」

 無言に耐えきれなくなったのは俺だった。

「ねぇ…紫音。線香花火やってかない?」

 彼女はにへらと笑って俺に問いかける。

「いいけど、火はどうするんだよ。」

「じゃーん。」

 彼女は捕まえた蝶でも見せびらかす様にライターを見せる。

「どうしたん?それ」

「拾った」

「ふふっ」

「ははっ」

 別に面白くもないのに自然と笑みがこぼれてしまう。

「ちょっと広い所行こう」

「ああ」

 彼女に連れられ、人気のなくなった神社の石段に二人で座る。

「熱っ」

「貸して」

 俺は瞳からライターを取り上げ、花火に火をつける。ジュウジュウと音を立てながら膨らむ二つの蕾を眺めながら、瞳が口を開く。

「今日は楽しかったね」

「あぁ」

「またこうやって、一緒に遊べたらいいね」

 にへらとはにかむ彼女の真意は分からない。しかし、きっと彼女の言葉の前には、友達としてという言葉が入っているのだろう。そうなんとなく感じた。

 俺を鋭く貫く彼女の眼は俺には毒だ。

この感情はきっと魔法か、夏の暑さのせいだ。そうだ、きっとそうに違いない。


                 了


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