第7話 もう人魚姫じゃない<終わり>


 船はまだ眠りについていたが、朝日が漆黒の海に金砂を撒きながら紺碧の色を取り戻し、夜が明けたことを告げている。


 甲板に、暖かな朝日が差し込み、寄り添う人魚姫とレオン王子の影を映し出した。

 心地よい温もりに包まれながらまどろんでいた人魚姫は、急に息苦しくなり目が覚める。


「んっ……けふけふ」


 小さく咳き込むと、そこはレオンの腕の中だった。

 レオンがホッとした様子で、腕を緩め人魚姫の顔を覗き込む。


「気がついたか? このまま、消えてしまうんじゃないかと心配で……」


 今まで厳めしい顔しか見たことのなかったレオンが狼狽える様子は、どこかおかしく新鮮で人魚姫は思わず微笑んだ。


 夜が明けた。

 私は生きている……!

 

 熱い想いがこみ上げ、涙が頬を滑り落ちる。

 真珠の涙ではない。真珠のような涙。

 『人間の娘』となった彼女の涙は、きらきらとした雫となって頬をぬらした。


「泣かないでくれ、人魚姫。口づけが嫌だったのならすまない。

 お前に泣かれると、どうしていいのかわからない」


 大きな背を丸め所在なく首元を掻く仕草に、人魚姫はくすっと泣き笑いした。

 恐ろしいとさえ思っていた相手なのに、今はそんな気持ちは微塵も感じない。それどころか、可愛らしいとさえ思えるなんて。


「まだお礼も言う前に謝られたら、私はどうすればいいのですか?」


「声が戻ったのか……!」


 光り輝く波が奏でる音のような、優しく心地よい声にレオンは聞き惚れた。

 人魚姫の体を絡めていた見えない枷が外れ、足の痛みも喉の締め付けもなくなり、解放された健やかな体がそこにはあった。


「魔法の戒めが解けて、人間になれたようです」


 人魚姫は、新しい朝日を全身に浴びると熱い血が体を巡っているのを感じた。


「よかった……。本当によかった!」


 レオンは、破顔すると思い切り人魚姫を抱きしめた。


「王子。く、くるしいです……」


 人魚姫は、小さな手でレオンの背を叩き、両腕を緩めるように懇願する。


「すまんっ!」


「何度も謝らないでください。

 私がお礼を言わなければいけないのに。

 レオン王子、本当にありがとうございます」


 何もかも失ってしまった私を抱きしめてつなぎとめてくれた。


 もう死を恐れることはない。

 人間として生きてくだけ。

 それは、怖いようにも楽しいことようにも思えた。

 転んでも立ち上がる機会が与えられる。こんなに素晴らしいことはない。

 まぶしい太陽が燦々と二人に降り注ぐ。


「お前はもう人魚姫じゃない。なんと呼べばいい?」


「私の本当の名前は、パールです」


「パール。良い名だ。清らかで強いお前にぴったりな名だ」


 レオンは、今まで決して彼女の仮の名を呼ぼうとはせず、お前としか呼ばなかった。

 彼に、真の名を呼ばれると自分という存在が色濃くなるような気がする。


「その……。恩に着せるつもりはない。が、そのもう一度いいか? パール」


「はい??」


「口づけをしてもいいだろうか?」


「あの、えっと……苦しくない程度に」


「了解した」


 レオンは屈託のない笑顔をすると、パールに顔を寄せて浅く口づけをする。

 しかし、それは繰り返えされるうちに自分のものだと主張するような深いものに変わり熱を帯びた。

 大きな手で背中をさすり上げられると、パールの口からは甘い吐息が漏れた。


「君のそういう顔が見たかった。もう離さない」


 レオンの言葉に、パールは恥ずかしさで真っ赤になる。


「そんなこと言うなんて、レオン王子は、やさしいけれど意地悪です……!」


「上等! 話せたらきっと君はお喋りだと思っていたよ」



 甲板で笑い合う二人の頭上を大きな白い帆が力強くはためく。


 輝く海を、明日へ向かい進むために。




   * お わ り *




☆番外編というか、ちょっとだけ後日談つづきます。

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