第3話
俺には無縁な高級ホテルは物々しい。場所は10階だ。エレベータを出るとすぐに広いフロアが広がり、入り口にはクロークがあった。素知らぬ振りをして潜り抜けようとしたが、係員に「どちらのご関係者さまですか」と尋ねられてしまった。俺が困惑していると、やよいは涼し気に「弥栄です」と答えた。
「こちらは私のフィアンセよ」
しかたない。その手で行くしかなさそうだ。バレたらバレたでそのときはそのときだ。
俺の安っぽいコートと鞄にちらりと目を落として、係員はそれを奥に運んだ。やよいは手慣れたもので、白いコートだけを預けてハンドバッグは手に持っている。
「入れた」
「君の母親の力は大きいね」
「そうね」
連れ立ってホールに入った。席は指定されているのだろうか。さりげなく後ろの空いていそうなスペースを探していると、視線を感じた。俺の二人の兄貴たちが険しい目つきで俺を見ている。そしてこちらに来た。
「敦史、お前、どういうつもりだ。なんだって今頃現れた。しかもこんな大事なときに」
下の兄貴が言った。俺は沈黙する。やがて上の兄貴が口を開いた。
「ちょうどいい。こいつも何かかぎつけてきたに違いない。ここらではっきり言ってやろう」
俺は二人の兄貴に小突かれて外に出た。隅に行くと、上の兄貴が声をひそめた。
「親父は遺言書をもう書いてるよ。お前の取り分なんぞない。だからとっとと失せな」
思いがけない言葉だった。
「遺言書? あいつはもう長くないのか」
「知っててここに来たんだろう。でも無駄足だ。今は俺らがホテルを取り仕切っている。お前の出る幕はないよ。そもそも大学にも行ってないくせに」
「まって。遺言書があっても、遺留分はあるはずじゃない」
「何だ、この女は」
言いかけて兄貴たちはやよいの高級な装いに気づいて口をつぐむ。俺はもううんざりだった。
「何がいいたいのか知らんが、俺はもう家も出てるし、親父がくたばりかかってるなんてことも初めて知ったくらいだ。出てってやるよ」
吐き捨ててその場を去ろうとすると、後ろからやよいが抱きついてきた。
「思い出した。弥栄さんのお嬢さんじゃないか。何でこんな人がお前と? 何か企んでいるんじゃないだろうな」
「は、大きなお世話だ」
やよいを振りほどこうとするが、彼女も強情だ。
「そうよ。この人は私のフィアンセ。あなた方、失礼な態度をとったら、母に言いつけるわよ」
兄貴たちは黙り込む。やよいの母親は相当のタマのようだ。
そうこうするうちに、エレベーターが開いて、数人の日本人に囲まれて、ひときわ背の高い紳士が降りてきた。その顔を一目見たとき、俺は確信した。やよいの勘は外れていない。彼の端正な顔の面影をやよいは受け継いでいる。
兄貴たちは慌ててもてなすためにそちらに移動した。相当の人物らしい。ところが、やよいがさらにそれをかき分けて、美しい金髪の紳士の前に立ちはだかった。
紳士は足を止めた。が、眉一つ動かさない。
「オジョウサン」
たどたどしい日本語を発した。
「ナニカゴヨウデスカ」
やよいは黙って自分の左手を差し出した。そこに輝く金色の細工をしたリング。紳士は少し目線を下げてそれを見つめたが、手を振ってそのまま歩き出し、ホールに吸い込まれていった。
中では学会が始まったようだ。すでに俺の兄貴たちもホールの中に去り、俺とやよいはエレベーターホールの前に立ち尽くしていた。
「中に入ってみるか」
俺は尋ねたが彼女はうつむいたまま首を振った。
「じゃあ、帰るか」
返事をしない。
しばらく立ち尽くしていると、休憩になったらしく、クロークの向こうの広間のほうに人が溢れ出してきた。俺は目を凝らしたが、兄貴たちの顔はない。もちろん、やよいの父だという紳士も。
「帰ろう」
自分でも意外なくらい優しい声が出た。彼女は唇を嚙みしめて、まだ振り切れない様子だ。
「この指輪を父がくれた意味を、子どものころから考えてた。鳥や馬になって、いつかは自分のところにやってこい、という意味だと思ってた。でも、それは甘い空想だったんだね」
「少なくとも君にこのリングをくれたときにはそういうつもりだったのかもしれない。でも、人の心は変わるから」
俺は正直に答えた。あの紳士の様子からして、今日本に残してきたおそらく不義の娘にとらわれるのは迷惑だとしか思っていないのだろう。
「あの人たちは、敦史くんのお兄さんなの」
「そう、腹違いのね。俺は非嫡出子で蔑まれて育った。高校を出るとすぐ家を出たんだ」
「いいな。早く私も家を出たい」
「数年の我慢だよ」
「もう、これ以上はいや」
「大げさだな。あっという間だよ」
そのとき、スカーフをつけた女性に声をかけられた。クロークにいた人だ。
「あの、弥栄さまでしょうか」
「はい」
一瞬だけ彼女の色素の薄い瞳が輝いた。
「預かり物です」
きれいな布に載せられたそれは、やよいのものより一回り大きい、鳥と馬を象ったリングだった。やよいの眼に涙が浮かんだので、俺はそれを代わりに受け取って彼女の手に握らせた。
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