第2話
目覚めるともう外は明るく、水色の空が眺められた。いい部屋だ。遠くを、音もなく航空機が通っていく。なぜ冬の空は航空機をよく見るのだろう。窓枠の向こうに消えたが、しばらくすると、また別の航空機が現れた。
「ここ、飛行機がよく見えるの」
背後から声がした。やよいだ。俺は振り向かずに「おはよう」と言った。
「おはよう」
言いながら彼女は俺の横に来た。まだシャンプーの匂いが匂い立って、俺は戸惑う。
「私、鳥になりたい。馬でもいいな。駿足の」
「早く着替えろよ」
「え」
「見ないから、安心しな」
言うとやよいは不承不承後ろに下がって、ごそごそと音を立て始めた。
「ね、聞き忘れてたけど、何て名前なの」
「鵜飼敦史」
「ふうん」
それにしても、いい歳をして鳥になりたいの、馬になりたいの、大丈夫なんだろうか。昨日の飛び出し事件と言い、どこか危うい。あの時唇を合わせたことは考えないようにしていた。あれは事故だ。
「ルームサービスで朝ごはん食べる?」
「俺はいないことになってるんじゃないの?」
「それもそうね」
やよいは荷物をまとめた。ニットワンピースの上に白いコートを羽織っている。
「行こ、敦史くん」
俺は返事をせずにドアのほうに向かった。10歳は離れている高校生に「くん」づけで呼ばれるとは。
結局ビルの谷間のカフェで朝食を摂った。この辺に勤めるサラリーマンたちでごった返していたが、8時半くらいから急速に人が減った。
「私、奢るね。つき合わせてるし」
そういって彼女はカードで支払いを済ました。
「着替えたいんだけど」
「あ、おうちに帰って着替えるの。私、ついてく」
歩いても大した距離ではないのだが、彼女のためにタクシーを拾った。
住宅が込み合った場所にある木造の古いアパートを、やよいは興味深げに見る。ベニヤ板のような扉。突き破ろうと思えば簡単に突き破れるが、こんな金のなさそうなところに盗みに入る奴もいるまい。
「外で待ってろ」
そう言って、俺は急いで着替えた。
昨日の交差点は仕事帰り、あの辺りの店で一杯やろうと向かっていたところだった。ビル風が激しかった。やよいはもしかしたら、飛び出したのではなくビル風に押し出されただけかもしれないと頭を過った。もしそうなら、自分がずっと付き添って見ていてやる必要はない。やよいのようすには死のうとしている気配は感じられなかった。自分はとんだ勘違いをしただけかもしれない。そう思うと顔が熱くなった。だいたい、父親を捜しているというが、当てはあるのか。家出といっても広尾と西新宿ではすぐに帰れる距離だし、今日は土曜日だ。
俺はため息をついた。今日一日ようすを見たら、彼女を家に帰らせようと決めた。
俺が形ばかりの鍵をかけると、やよいは物珍し気にのぞき込む。
「俺の城さ」
「素敵」
「何が」
「ここに一人で住んでるんでしょ」
「まあ」
「私も独り暮らししたい。母と兄との生活は怖いの。でも父が見つかったら、一緒にイギリスに行く」
やよいの父はイギリス人なのか。
「ずっと父親はいなかったんだろ。何でいまさら父親捜しなんだ」
気になっていたことを尋ねた。
「父が訪日しているらしくて」
「へえ」
「父は有名な学者なの。日本である学会に参加することになっていて」
「じゃあ、すぐに見つかるだろ。ネットで調べればすぐだ」
「そう、ね」
あまり要領を得ない言い方だ。
「本当の話なんだろ」
彼女は顔を伏せた。
「うん。もしかしたら違うかもしれない。父の名前も顔も知らないの。教えてくれないから」
「じゃあ、学者ってのは」
「テレビで見たとき、自分に似ている気がしたから、もしかしたらって」
「何だよ」
そんなあいまいな話だったのか。
「でもね、確認する手段はあるの」
やよいはハンドバッグから何か光るものを取りだした。彼女の華奢な指には不似合いなほどの大きなゴールドの指輪だった。よく見ると、鳥と馬の彫金がされている。
「本物?」
「分からない。でも、すごく小さい頃、父が母に黙って私にそっと握らせてくれたの。これを見れば私だとすぐに分かるはず」
そして痛々しいような微笑を見せた。
「お守りに持ってたけど、今日はこれをつけて父の学会に行ってみる」
「学会は今日なのか」
「そう。会場はホテルみたい」
彼女はスマホの画面を見せた。俺はぎょっとした。それは俺の父の経営している高級ホテルだ。
「ホテルでやるのか」
「そうみたい」
「飯田橋か」
「ここからなら、JRで行けそうね」
「ああ、すぐだな」
父の経営するホテルなんぞに俺は一度も泊ったことはない。父と義母と兄二人はたまに泊りに行っていた。とりわけ全国展開のホテルの中でもリゾート地にあるところへ。俺は世間の目がないところでは除け者だった。俺も慣れっこになっていたので、早くあの家を出たいという、ただそれだけを希望にして成長してきた。
だから、都内とはいえ父のホテルに行くのは初めてで緊張が走った。やよいの話を聞いてから俺は慌てて安物だが一張羅のスーツにウールのコートを着た。髪も整えた。やよいと歩くにはこの方が合っていた。
「敦史くん、別人みたい。かっこいい」
「人を見た目で判断する奴は大嫌いだ」
そういうと弥生は黙り込んでしまった。俺は急に気の毒になって、俯いた彼女の表情をうかがう。
彼女は左手を顔の近くに寄せて、薬指にはめたさっきの指輪をじっと見ている。はめる場所がちがうと思ったが、黙っていた。
総武線で目的地に向かう。あっという間だ。彼女はほとんど口を利かなかった。黙って半ば無意識に指輪をさすっている。鳥になりたい、馬になりたいというのは、おそらく彼女の本音だ。
俺は10年ぶり位に親兄弟に合うかもしれないことで、少々気が弱くなっていた。俺にやましいところは何もないにもかかわらず。
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