黄金の記憶

仁矢田美弥

第1話

 吹きつけるビル風は強すぎて、まるで氷を叩きつけられているようだった。

 ビルのはざ間の空はすでに藍色に落ち、オフィスビルの照明は消えている階も多かった。急ぎ足で帰路につく人々は黒っぽいコートの襟を立て、一様にうつむいている。

 だから、周りに人が多いとはいっても、いち早く彼女の異変に気づいたのは俺だった。

 交差点の信号が変わり、並んでいた車が走り出した瞬間、その前に飛び出す彼女を見た。

 考えるより先に体が動き、俺は彼女のまとった白いコートの端を思い切りつかんで、歩道側に引いた。半ば放り投げるように彼女をアスファルトの上に投げ出した。そして仰向けから体を起こそうとする彼女の上に覆いかぶさり、全身の力で止めた。

 彼女の心臓の鼓動とぬくもりが俺の体にも伝わってきた。顔を上げると、彼女の目はまっすぐに俺を見ていた。そして、ふいに俺の唇に自分のそれを押し当てたのだ。

 不意をつかれて混乱する俺の頭には、ひんやりとした唇の感触よりも先に彼女の金色の豊かな髪が波打っていた。

 明らかに染めたのではないと分かる。暗がりのなかでも分かる日本人離れした顔立ち。

 俺が我に返るよりも早く、彼女は体をくねらせ、俺の下から逃れようとした。信号が変わり周囲の人々が無言で渡りはじめた。少女はすっくと立ちあがって、俺を見下ろしながら言った。

「うちに来てください」

 おそらくまだ高校生だ。全体に華奢で幼い顔貌。白いコートやその下の服装は不釣り合いなくらい高価そうなものだった。

 俺はためらったが、断ればまたさっきのように道に飛び出しかねない。とりあえず、帰宅するまでは見守るつもりで了承した。

 信号が点滅しはじめ、俺と少女は駆け足で渡った。そのまま彼女はすたすたと大通りの広い歩道を歩きはじめた。


 無言で彼女のすぐ後をついていく俺。遠い塔のようなビルディングがシルエットとなって見える。彼女はその方向へと歩いているように見えた。

 『北新宿あたりが住まいなのか』という俺の推測は外れ、少女はさらに明るい方角へと歩いていく。副都心の高層ビル群の下を歩き、見違えるように明るくなった中で、俺はひたすらに彼女の金色の髪が揺れるのを見ていた。

「ここ」

 と彼女があごをしゃくったのを見て、俺は面食らった。西新宿の高層ホテルの中の一つだった。

 きらびやかなフロントを彼女は平然と通りすぎ、エレベーターホールへと向かった。俺のことなどもう忘れてしまったかのようだ。とにかくも部屋に入るまでは見届けようと思った。このまま屋上に行って……などと想像すると胸糞わるい。エレベーターは11階で停まった。相変わらず無言で降りる少女の後をついて俺も降りる。彼女はポケットからカードキーを取りだすと、1105号室のリーダーに通した。

 『これで十分だろう。後のことは知らない』。俺は自分に言い聞かせ、踵を返した。すぐに高く細い声が背中に響いた。

「どこ、行くの? 来て」

 切実な声音にためらい、俺は部屋の中まで入ってしまった。さっきの訳だけは聞いておきたい、という好奇心めいた気持ちもあった。誰に見られるわけでもなし。俺自身はその気はない。だから大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた。

 俺が部屋の中に入ると、彼女はほっとしたようにドアを閉めた。

 カードキーで部屋の灯りもいっせいに点灯されていた。そこで改めて彼女の姿を横目で観察した。

 今、白いコートを脱いでハンガーにかけている。セミロングの金髪はやはり染めたものではなかった。こちらを振り向いた眼。色素が薄いが茶色。顔立ちはやはり日本人離れしてはいるが、おそらく彼女はハーフだろうと推測した。

「君、高校生だよね」

 少し詰問調で尋ねた。彼女は不満げに鼻を鳴らす。子供っぽい仕草だ。

「どうしてこんなところに泊まってるの。家はどこ」

 構わず問いただすと、少女は一転顔を上げた。

「私は弥栄やよい。高校3年生で17歳。見ての通り、生粋のアジア系ではないけれど、国籍は日本。家は広尾にある。ここに泊まっているのは、家出したから」

 するすると応えた。嘘はなさそうだった。俺が信じたので手応えを感じたのか、少女はさらに説明する。

「母は実業家……女社長ってやつね。お金はたくさんあるの。私は何不自由なく立派な家で有名校に通い、ブランド物を着て育ってきた。でも、愛だけがなかったの。母は私を疎んじてた」

 きっぱりと言い切る。低い声で返した。

「何で? 親はかわいいから娘にいい思いさせてんじゃないの。君、さっき死のうとしてた?」

「してた。でも、止めた。助けてもらったから」

 そういって彼女は再び俺の顔に近づいたが押しのけた。やばい娘に関わったかもしれないとも思った。

「止めたんならよかった。じゃ、俺はもう行くよ」

 出ていこうとする俺のダウンの裾を少女は握りしめた。きつく。

「行かないで」

「用は済んだ」

「父を探しているの。手伝って」

 つい足を止めてしまった。

「母は世間体で私にお金をかけたけれど、愛していない。私のこの金色の髪のせいで」

 疎まれて育つ子供の気持ちがふと俺の中にも蘇る。

「私は本当の父に会ってみたいの」

 シングルルームに泊まるのはまずいのではないか。そう思ったが、かまわないと思った。もちろん、未成年に何かしようとは思っていない。彼女は何の警戒心もなく風呂に入り、ナイトガウンをかけてベッドに座った。

「気持ちいいよ。シャワー」

 言われて俺は、少しためらったが冷え切った体を温めたくて、シャワーだけ借りた。着るものはないので元の通りシャツとセーター。

「一緒に寝ていいよ。寒いし」

「冗談じゃない。俺は、そうだな、そこで寝る」

 備え付けのデスクとチェアを指した。

「そうお」

 のんびりと言って、少女はベッドに横たわり、向こうを向いてしまった。彼女からも俺からも同じ匂いが発散されている。備え付けのシャンプーやせっけんの匂い。

 おれはデスクに突っ伏した。空調も効いているのでかえって心地よい。

 彼女の身の上を思った。俺が帰れなくなった理由。

 俺の家も金持ちだ。だが、それは父と義理の母と兄貴たちのもの。いまや2人の兄もその両腕になっている。俺だけが、一人家を出て自力で生きている。

 それはどうでもいい。心を締め付けるのは、俺が非嫡出子だということだ。それなのに親父の家で育てられ、ガキの頃から蔑まれて育った。親父も含めて。なぜ施設に預けなかったのか。単なる奴らの体面の問題だ。

 決定的だったのは、大学受験。体面上、俺も受験させてもらえた。そして、兄貴たちよりもいい大学に受かった。学費など出してはもらえなかった。自力で大学に行っても良かったが、俺自身が嫌気の限界で、家を出て、働きはじめた。それ以来、彼らには会っていない。

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