誘惑

「お前が曲者であることは分かっていた。玲藍という側室を匿っていただろう。匿うことが難しくなり、お前は玲藍と親しかった李子布に助けを求めた。悪くない判断だと思うぞ。だがお前は女の口の軽さを甘く見ていた。……そうだ。玲藍は話しちまったんだよ。李子布は即座に俺に報告した。なぜって、そりゃ俺があいつらの恩人だからだ。ん? 俺が強姦して十六人の女を殺したって? それは俺が流した出鱈目だ」


 本当は匿ってたんだよ、と斜奪は言った。


 黒髪の男が出たという騒ぎの中、飛燕は斜奪の部下に捕えられ、幕舎に連れ込まれた。


 幕舎の中には、斜奪と、二人の部下がいた。二人の部下は、地面に座らされた飛燕の背後に立っている。


「俺は、武将としてのお前の能力は認めていたが、人間としては気に食わなった。……だがお前が女を匿っていると知って、見直した。それなのに、お前が国家転覆を謀っていることも同時に知っちまった。……どうしたものかと思ったよ」


 斜奪は苦笑した。


「お前を殺したところで、お前の育てた騎馬隊を動かせられる代わりはいない。なんなら、お前が死んだとなれば、優秀な騎馬隊の士気は下がり、使い物にならなくなる可能性があった。反乱なんか起こされたら最悪だ。……だから様子を見ることにした。お前の……タンチョウ族の計画は把握できたから、最悪の事態は回避できる。問題はお前の処遇だ」


 玲藍から、漏れていた……


 血液がするすると引いていく。玲藍は「誰にも言わない」と言った。なのに漏らした……でもきっと、彼女に裏切ったという意識はない。……ならばどうするべきだったのか。他に二人を救う方法が、あの時点であったか?


「ううっ……」


 うまく思考を処理できず、吐き気がした。前にのめった体を、背後の男によって上げられる。


「宴の場で、お前は脈絡もなく佐了に突っかかり、皆の前で犯そうとした。どうしてあんなことを言った? 皆の前で犯せば、佐了も、お前も、確実にタンチョウ族と判明し、計画は破綻する」


「……覚えて、ない……」


「いいやお前は覚えているはずだ。お前は正気を失っているふうを演じていただけで、しっかり理性の手綱を握っていた。だから決定的な言葉が言えなかった。お前は、本当はあの場で自分の正体が暴かれることを望んでいた。佐了の体の秘密を暴露し、諸共破滅することを」


「ふっ……馬鹿な」


 飛燕は笑ってみせる。斜奪の哀れむような眼差しを受け、笑顔が凍りついた。


「俺は何度もタンチョウ族と戦ってきた。大きな功績はないが、都南と天天を守り抜いたことは、俺の数少ない誇りのひとつだ。……タンチョウ族のことは、よく知っているつもりだ。奴らは気性が荒く粗暴で、時には人の肉も喰らう。史実通りの野蛮民族。……だが、俺たちが見習うべき部分もある。……家族の絆だ。黒髪であることの仲間意識、その強さはお前もよく知っているだろう」


「俺が……除け者にされているとでも? 残念ですが……俺はこう見えても、彼らに仲間と認められているのです。でなければ、こんな大役任せられません」


「だが用が済めば殺される」


「黒髪の男から聞いたのですか?」


「いや、黒髪の男は逃亡中だ。……お前、自分が殺されるとわかっているのか。ならどうして」


「俺が死ぬところまでが計画なのです。三百年の因縁に決着をつけるわけですから、それなりの犠牲は必要でしょう」


 斜奪は後頭部をカリカリと掻いた。どう思う? とでもいうように、飛燕の背後にいる部下に視線を飛ばす。


「取り込むのは難しいかと」


 背後の男が言った。


「取り込む? ふん、ありえません。俺はタンチョウ族にこの身を捧げると誓ったのです」


「随分余裕だな。お前は、このままでは確実に処刑されるんだぞ」


「十年前、正体を偽りここへ来た時から、その覚悟はできています」


「覚悟……一万の麾下を死なせずに済むという、安堵ではないのか?」


 ドキリとした。動揺を見透かされないよう、挑戦的に男を睨む。でも返す言葉が出てこない。


「自分でもどうしたらいいのか分からねえんだろう。それだけタンチョウ族を思っているなら、計画をぶち壊すこともしたくない。だからって一万の麾下も死なせたくない。……だがな飛燕、どっちつかずってのは、結局何も守れねえんだ。お前は運命に身を任せているつもりだろうが、俺には無責任としか思えない。酒の力を借りようとしたのがいい例じゃねえか。タンチョウ族の計画を小出しになんかしやがって」


 恥ずかしさから、つい俯けてしまった顔を、ぐいと背後の男に戻される。


「飛燕、単刀直入に言う。座貫に尽くせ」


 飛燕は激しく瞬きした。この男……人の話を聞いていたのか?


「ありえない……殺してください。凌遅刑でも、石打ちでも、甘んじて受けましょう」


「そうか。なら凌遅刑を、童子無に見てもらおうか」


「っ……」


「小刀で膚をくり抜かれ、塩漬けされていく様を、あの母子に見物させるのだ。童子無……俺も何度か会いに行ったが、その度にお前に会いたいとせがんでくる。……そろそろ望みを叶えてやらねばな」


「っ! 鬼がっ……」


「それだけの大罪だ。お前に拒否権はない。だが好きな方を選ばせてやる。座貫に寝返るか、童子無立ち合いのもと、処刑されるか……さあ飛燕、好きな方を選べ」


「うっ……」


 考えたら胸が悪くなった。タンチョウ族を裏切る。童子無に処刑される姿を見られる……どちらも嫌だ。


「飛燕……少し補足すると、俺はタンチョウ族を滅ぼそうとは考えちゃいない。この国が黒髪の人間にしたことは過ちであり、恥ずべきことだ。だがお前が言ったように、三百年の因縁を簡単になくせるとも思っていない。さてどうしようかと考えあぐねていたところへ、お前が現れた。最初は噂だったかな。十七、八の白髪の若造が、殺処分寸前の暴れ馬を易々と乗りこなし、空飛ぶ鷹三十七居を三十七射で射止めたと」


 コホン、と背後の男が咳払いした。


「斜奪殿、三十七ではなく、三十三射です。一射で二居命中が四度ありましたので」


「ははっ、そうだったか。細かいことは覚えちゃいねえな。……まあでも、お前を見た時のことはよーく覚えてる。白髪の美男がのけ反る馬に乗りながら大剣を振るう姿は鮮烈で、まるで絵巻でも見ているようだった。……この男ならと思ったよ。この男となら、もしかしたら国を変えられるかもしれない。タンチョウ族との交戦状態を打開する術が見つかるかもしれない。……だがお前はタンチョウ族を討伐することしか考えちゃいなかった。和平や交易を結ぶなど論外。……ああ、こいつとは仲良くなれねえと思ったよ。今なら、タンチョウ族にこの国を乗っ取らせるためだとわかるがな」


「ふふ……斜奪様は、そのような考えをお持ちでしたか……呂帝が知ったら、さぞお怒りになることでしょう……」


「だろうな。派は解体され、俺は宮廷の近侍で生涯を終えるだろう。……飛燕、俺は、呂帝を王座から引き摺り下ろしたい。あのボンクラがいる限り、タンチョウ族と和平を交わすことは不可能だと考えている」


「はっ、和平など……馬鹿馬鹿しい。タンチョウ族はそんなものに応じません。この国が彼らにしたことを考えればわかることです」


 斜奪の背後の壁……布がひらりと捲られ、男が何やら斜奪に耳打ちした。


「黒髪の男が捕まったぞ」


「っ……」


「尋問はまだだが、男の役目は呂帝の暗殺……もしくは王族の血を引くものを一人残らず殺すこと……ではないのか? ……安心しろ。殺しはしない。むしろ俺は、男にその役目を遂行させたいのだ。まずは友好の証として、王族の血をタンチョウ族に献上する」


 この男を信用して良いのだろうかと、飛燕の目が素早く彷徨う。


「……呂帝の暗殺がうまく行った場合、次期国王には、誰をつかせるおつもりですか。まさか王族の血を持たざるものを……」


 斜奪はニヤリと笑った。


「わかっているだろう、飛燕。王族の血を絶やしてはならん。だがお前のことだ。王族の血が流れるものを、黒髪の男には報告済みのはず……であれば、王座に担ぎ上げられるのは一人しかいない」


「童子無はまだ四歳です」


「それがどうした。呂帝が即位したのは七歳だ。飛燕……俺は、あの子なら国を良き方へと導いてくれる気がする」


「あなたが操りやすいというだけでは」


「飛燕、まだわからないのか。お前に拒否権はない。お前の選択肢は二択。俺の派に入るか、童子無の前で処刑されるか。……ついでに言うと、佐了はこちらに寝返ったぞ」


「なっ……」


 驚いたのは一瞬。あいつならありえるなと、すぐに納得した。不思議と怒りは湧かなかった。むしろ甲斐連の息子が裏切ったという事実に、逃げ場ができたような安堵を覚えた。


 拒否権がないという言葉も圧力というより誘惑だった。肩の力が抜け、喉元まで迫り上がっていた吐き気がスッと消える。はあ、と吐き出した息は震えていた。


「……座貫にこの身を捧げます」


 項垂れるようにして頭を下げる。三つの視線が、自分に強く注がれるのを感じた。

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