逃亡
「裕翔っ!」
幕舎に入るなり、佐了……知布は弾けるような笑みを浮かべ、兎斗に駆け寄った。
あまりにも嬉しそうだから、兎斗は内心怯んだ。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。笑おうとしたら頬が引き攣った。それを見て、知布もおかしいと感じたのか、首を傾げる。
「ゆう……と?」
「僕だよ」
言うと、知布の顔がわかりやすく強張った。胸がツキリと痛む。
違う……ただ、驚いているだけだ。
「知布……やっと会えた……」
知布がくるりと踵を返し、出て行こうとした。
「待ってよ!」
背後からガバッと抱きつく。知布の体がびくりと強張る。これも、驚いているだけ。兎斗は抱きしめる力を強くした。知布は逃げない。体が小刻みに震え出した。これはきっと寒いから。
「なんで……」
知布が掠れた声で言う。横顔には怒りが滲んでいた。涼しげな目尻がきつく吊り上がっている。
「そんなに俺を……俺をっ……苦しめたいかっ……」
ヒヤリとした。唸るような低い声だった。
苦しめたいだなんて、そんなつもりはない。兎斗はパッと両手を離す。ちょっと強くしすぎたかもしれない。
解放するなり、知布はその場にしゃがみ込んだ。
「裕翔に会えると思ったのにっ……あんまりだ……あの人は鬼畜だ……」
「ち、違う……」
思わず否定すると、知布は憎悪たっぷりの目でこちらを仰いだ。
「僕が、裕翔のフリをしたんだよ……伊千佳が騙したわけじゃないよ……」
そう。裕翔ならば知布に会わせてもらえると思って、兎斗は裕翔を演じたのだった。ちゃんと、「今日はあんたを抱きたい」と飛燕を喜ばせることも忘れなかった。
「そうでもしないと……知布に会えないと思ったから……」
知布の目から怒りの色が消え、悲しみだけを残して伏せられる。
「そうか……」
「裕翔が良かった?」
知布は否定も肯定もしない。沈黙は肯定だ。
「この体は僕のものなんだよ」
自分の言葉に勇気づけられる。この体は僕のもの。それが何よりの強み。裕翔の時間は減り続けている。
「あいつはそのうち消えるよ」
知布がキッと兎斗を睨む。
「どうしてそんな目で僕を見るの?」
ショックを誤魔化すように兎斗は笑った。藁の敷かれた地面に膝をつき、知布の肩を掴む。
「嫌だっ……」
顔を寄せれば、ふいっと背けられる。
「何が、そんなに嫌なの?」
裕翔と散々していることだろう。なんなら同一人物だ。見た目が違うならともかく、中身が違うから嫌だなんておかしいじゃないか。……そんなの、人格否定じゃないか。
「やっ……離せっ……」
「離さない。裕翔とするつもりできたんだろ……期待してきたんだろっ……」
押し倒す。抵抗する体を封じ込め、ズボンを脱がし、股を開かせ、体を割り入れた。
「嫌だっ! 裕翔っ……」
「裕翔はいないっ!」
知布が嫌がれば嫌がるほど、兎斗の怒りは膨れ上がっていく。手のつけようがないほどに。
「裕翔っ……裕翔を……返してくれ……」
わかっていたことではないか。二人は愛し合っていた。愛の強さは知布の方が大きかったかもしれない。裕翔は飛燕に対しても、「あんたを抱きたい」と言っていたから。でも飛燕は……伊千佳はそれに応じなかった。貴重な裕翔の時間を自分が奪ってはいけないと考えたのか、知布と比べて気後れしたか……
なんにせよ、伊千佳は裕翔を拒んでいた。裕翔……あいつは不誠実だ。
純粋に、知布だけを愛せるのは、僕だけだ。
裕翔だけになったら、裕翔は伊千佳を抱くんじゃないかな。
可哀想な知布。そんなことも知らないで、自分だけ愛されると思い込んで。
「嫌だっ! やめろっ……いや、だっ!」
知布が暴れるから、なかなか次へ進めない。
「何をしているっ!」
怒声と、複数の足音。振り返ると槍を構えた男たちがいた。
「黒髪がっ! なぜっ!」
「この男っ……飛燕殿が処刑したはずではっ!」
幕舎を囲まれたら終わりだ。今なら入り口にしか人はいない。
体が勝手に動いていた。入り口とは反対側へ駆け、布を上げ、隙間から外へ出る。
「回れっ! あっちだっ!」
「黒髪の男を捕まえろっ!」
赤土の大地にはいくつも仮設の幕舎がある。騒ぎを聞きつけ、幕舎で休んでいた将軍らが外へと出てくる。その中には伊千佳の姿もあった。自分が知布と会っている間、彼は親しい男と酒を飲んでいたのだろう、幕舎から漏れる薄明かりでも、彼の顔がほんのりと赤いのがわかった。
伊千佳と目が合った。無防備な口の開き方……あれは「とと」と呟いたのかもしれない。
突っ立っている暇はない。兎斗は暗闇を求めて道を逸れた。山の斜面を駆け上がっていく。
追っ手から逃げながら、あの口の動きを思い出す。あれは「兎斗」。絶対そうだ。
兎斗の唇が知らず笑みの形を作る。この体は僕のもの……それを後ろめたく思う必要はない。僕には与えられた役目があるのだから。
王族の血を引くものを一人残らず殺すこと。伊千佳を殺すこと。
足場の悪い道をひたすら進みながら、乾いた唇を何度も舐める。
なに、躊躇う必要はない。あいつが僕にしたことを思い出せ。
兎斗は胸の古傷をさすった。それが伊千佳を殺す、唯一の正当性。
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