復讐
その夜、飛燕は裕翔を迎えに厩舎へ行った。
薄明かりのついた狭い部屋。いつもは中央に二つ布団を敷いて、童子無は玲藍と、裕翔はその隣で寝るのだと聞いた。
けれど今、二つ敷かれた布団に童子無と玲藍の姿はない。裕翔(もしくは兎斗)だけが、ポツンと膝を抱えて座っている。
「裕翔……童子無と玲」
「残念でした」ぬらりと膝から顔を上げ、兎斗は言った。「僕だよ」
「兎斗……」
胸騒ぎがした。
「童子無と玲藍はどこだ」
「逃げた」
まさかと飛燕は総毛立った。ハッと部屋を見回す。枕元に置かれた提灯の灯りでは、部屋全体を見渡すことはできない。部屋の隅へ行けば、ちゃぶ台がひっくり返っていた。
「っ……二人に何をしたっ!」
「追いかけっこ。川を渡って遠くへ行ったよ」
岸の先には貨物車の停車場がある。夜は見張りが多いから、近づくのは危険だ。
飛燕は血相を変えて階段を駆け上がった。厩舎を出て、裏側へ周り、川の中へ入る。冷たい水を捌きながら岸辺を目指した。中間は腰まで浸かった。玲藍なら胸まで浸かってしまうだろう。玲藍に抱かれていても、童子無も水の冷たさを感じたかもしれない。そう思うと胸が痛くなった。
「童子無っ……玲藍っ!」
完全に油断していた。今夜は裕翔のままだろうと楽観視していた。裕翔の言った通り、すぐにでも裕翔を隔離するか、童子無と玲藍を安全な場所へ移すべきだった。
後悔する一方で、なら現実的にそれができたかと言われると、難しいだろうなという答えは変わらない。裕翔は処刑したことになっているから、部下にも身柄を預けるわけにはいかないし、童子無と玲藍を一時的にでも避難させるのに適した場所も、あの時点では用意できていなかった。
「童子無っ! ……玲藍っ……」
岸にたどり着いた。
斜面に生い茂る草木をかき分けながら、祈るような気持ちで二人を呼ぶが、反応はない。足場の悪いぬかるみと、連日の調練の疲れもあり、飛燕の足取りは次第におぼつかなくなっていく。ずるっと足を踏み外し、斜面を転がり落ちた。自分は何をやっているのだろうと自己嫌悪でいっぱいになる。
「童子無……」
根性で立ち上がり、再び斜面を上がろうとした時だった。
「伊千佳」と自分を呼ぶ声がした。振り返ると、川の向こうにポツンと兎斗が立っていた。
「ああ、今は飛燕だったね」
馴れ馴れしい口調は、裕翔との関係を知っているからだろう。あれだけの痴態を見られていては、飛燕もそれを咎めることはできない。
「冗談だよ。僕が二人を逃すわけないじゃない」
兎斗……十年前は俺の足元に這いつくばり、泣きながら蹴られていた。俺の足には今でも、発育途中の体を踏みつけた感触が生々しく残っている。
ならば、兎斗の中に根を張る憎しみはどれほどのものだろう。
兎斗から受けた嵐のような暴力を思い出し、ぶるりと体が震えた。体の芯まで冷えているのは、腰まで浸かった川の水のせいだけではない。
「あの二人は、あんたを言いなりするための道具なんだから」
今度はあんたの番だ。そんな声が聞こえてきそうな酷薄な笑みを浮かべると、兎斗はくるりと背を向け、歩き出した。
飛燕は慌てて冷たい水の中に入った。少しでも速く行こうと腕を振る。陸に上がった瞬間、足が掬われ前のめりに倒れ込んだ。口の中に土を含み、ケホケホとむせる。
兎斗の姿が見えなくなると、焦りから力が湧いた。立ち上がり、厩舎へ急ぐ。水を吸い込んだ脚絆が重い。
壁に手をつきながら階段を下りていく。兎斗は提灯の後ろにあぐらをかいて座っていた。
「二人を……どこへ、やった……」
息を弾ませ問うと、兎斗はグッと前のめりに顔を突き出した。提灯の橙色に接近した顔が、これ以上ないほど醜悪に、うっそり笑う。
「じゃあ、真っ裸になって、踊ってよ」
「っ……」
カッと怒りが込み上げ、思わずキツく睨んでしまった。兎斗がククッと肩を揺する。
「駿文がよくやってたでしょ。酒飲んで、顔真っ赤にして、えんやそーれって。……あんたが心底嫌っていたあの阿呆踊りだよ。あんたは何度絡まれても応じなかったよね。無視を決め込むあんたに、駿文はムキになってしつこく絡んだ。……だから、やり方はわかるでしょ」
「……俺は、二人の居場所を聞いたんだが」
「知りたきゃ僕の言う通りにしなよ」
「自分の立場をわかっているのか。お前の命など、俺の命令一つでどうすることもできるのだ。命が惜しいならもったいぶらずにさっさと言え」
兎斗は屈めていた背をスイと伸ばした。
「二人の居場所は僕しか知らない。僕が死んだら、二人は確実に飢え死にするよ」
「ならば拷問にかけ吐かせるまで」
「裕翔は耐えられるかな」
飛燕の動揺を兎斗は見逃さなかった。目を弓形にて笑う。
「あんたに僕を殺せるものか。僕の中には裕翔が入っているんだから。……ふふ、気持ちよさそうに喘いでたよね。自分から腰振ったりしてさっ! あんたは男に組み伏せられて悦ぶような異常しゃ」
飛燕が正座し、しゅるっと腰紐を解くと、兎斗は口をつぐんだ。飛燕は帯革にくくりつけた刀を一つずつ床に置いていく。羽織、長襦……無表情を繕い、身に纏ったものを脱いでいく。何の面白味もない光景を、兎斗は嫌がらせのようにつぶさに見つめた。ズボンに手をかけた時、
「乳首、勃ってるよ」
川に浸かって体が冷えたのだ。乳首だけでなく、全身に鳥肌が立っている。
「自分で慰めてよ。いつもやってるだろ」
「……いい加減にしろ。お前、本当に二人の居場所を教える気があるのか?」
疑いの目を向ける。
「あるから、僕の言うこと聞いてよ」
「言うことは聞くから、先に二人の居場所を教えてくれ」
「そういう悪あがきが時間を無駄にしているんだよ。……安心しなよ。二人は生きてるし、必ずあんたに会わせてやるから」
生きてる、という言葉にひとまず安堵する。そして自分が辱めを受けることなど、大した問題ではないのだと気づく。そもそもこうなったのは自分のせいだ。裕翔の忠告に従っていればこんなことにはならなかった。
片手を胸元へ運ぶ。
「両方。いつもやるように、両方をいじるんだよ」
いつも、こんなところは触らない。無価値な乳首なんて見たくも触れたくもない。
「っ……」
両方をキュッとつまんだ。ピリッとした刺激が起こる。
「手、止めないで」
灯りが動いた。兎斗が提灯を手に、真正面までやってくる。自分自身で苛むそこを提灯の灯りで照らされ、神経が焼き切れるような羞恥に駆られた。
「なにそのお上品な手つき。あんた自分に甘すぎるんじゃないの。もっと激しく、知布にしたみたいにやるんだよ」
「うあっ!」
提灯が膚に接近し、そこが燃え上がるように熱くなった。あまりの熱さに飛燕は声を上げ、焼かれたそこ……鎖骨のやや下を押さえてうずくまる。
「なんだよ。これくらいで」
兎斗が呆れたように言う。飛燕も同感だった。直接炎で炙られたわけでもないのに、この痛みはおかしい。
ボタボタと額から汗を垂らし、息を弾ませていると、ふいに兎斗とは別の気配を感じた。
ハッと暗闇を見回せば、ガツンと腰に衝撃が走った。前のめりに伏せった飛燕の背中に、兎斗がのし掛かる。
前方を見ろというふうに、提灯が顔の前に運ばれる。
「っ……!」
開け放たれた押入れの中に、探し求めた二人はいた。麻縄でぐるぐるに縛り上げられ、横向きに倒れる玲藍と、膝を曲げ、しゃがんだ姿勢で後ろ手に拘束された童子無……二人とも布を噛まされている。仄かな灯りでも、二人の顔が涙に濡れているのがわかった。
暗闇から、二人は自分の痴態を見ていたのだ。「ああっ」と声にならない声が出た。
「あんたなら分かるよね」
兎斗が何をしようとしているのか、考えなくともわかった。必死に体を振って逃れようとするが、仰向けに返るのがやっとだった。両手を突き出し、掴まれ、振り払い、突き出し……埒の開かない攻防を、兎斗は楽しんでいるように見えた。
「往生際が悪いなっ! あんたが僕にしたことだろうっ!」
抗い続ける体力はなかった。両手を掴まれ、床に縫い止められる。
「やめろ……兎斗っ! 童子無と玲藍は関係ないっ!」
「はっ! そんなもの理由になるものかっ! 自分がしてきたことを思い出せっ!」
後悔するべきは昼の判断などではなく、遥か過去の行いだったのだと、飛燕は気づいた。
確かに兎斗が行おうとしているのは、過去に自分がやったこと。だからって受け入れられるはずがない。童子無はまだ四歳なのだ。
死なれたら後始末をしなければならない。それだけの理由で出産に立ち会った。けれど獣の咆哮のように苦しげに喘ぐ玲藍の姿に、気づけば彼女の手を握り、励ましの言葉をかけていた。どうか死なないでくれと、臆病になっていく自分を自覚した。
童子無をこの手に抱いた時の感動は、言葉に言い表せられるものではない。
なんという奇跡。感動と喜びが心地よく胸を締め付けた。血で汚れた体を濡れた布で拭きながら、この子の幸せを心から願った。尊い命を守ろうと誓った。
玲藍に差し出すと、彼女は慈しむような優しい微笑みで、我が子を抱いた。女が嫌いな飛燕も、その時は彼女から発散される本能的な愛情に目を奪われた。
なぜ、母上は俺を捨てたのだろうか。
命懸けで、奇跡としか言いようがない出産を目の当たりにし、胸の奥深いところに仕舞われていた疑問がふと湧いた。
物心ついた時には檻の中にいた。髪を墨汁で黒く染められ、タンチョウ族の子供として見せ物にされていた。憎悪と共に石をぶつけられるから、自分は黒髪なのだと飛燕は信じ込んでいた。
違うのだと知ったのは、甲斐連部隊と共に生活するようになって、十日目のことだ。根本が白いと指摘したのは四歳になるかならないか、幼い知布……佐了だった。
すぐに大人たちに囲まれ、どういうことかと問い詰められた。「座貫軍の差金ではないか」「黒髪ではないのなら、殺すべきではないのか」等々。物騒な意見を一通り聞き終えると、甲斐連は飛燕を裸に剥いた。
この貧相な体を見よ。ろくに食事も与えられず、タンチョウ族として硬い石を投げつけられてきたのだ。この子供が受けた仕打ちは、まさに我ら先人が受けたものと同じではないか。
伊千佳、お前が決めろ。我々と共に生きるか、ここで死ぬか。ただし我々と共に生きたいのなら、決してその恨みを忘れるな。俺が仲間と認めるのは、この国を滅ぼす意思のある者だけだ。
以来、飛燕は恨みの炎を絶やさないよう、檻の中の辛い日々を繰り返し思い出しながら生きてきた。
「ガキの前であんたを犯してやるっ!」
「兎斗っ……やめてくれっ……童子無はまだ四歳だ……っ」
「それがどうしたっ!」
両手をひとまとめにされた瞬間、飛燕は力一杯両手を振った。兎斗の顔面をぶつ。
「うっ……」
もう一発、腹を殴る。兎斗が腹を抱えてうずくまった隙に、床に置いた短剣を手に取った。
「童子無、玲藍……すまない。怖かっただろう」
押し入れに向かい、二人の拘束を解いていく。
「
玲藍に耳打ちすると、彼女の両目が感極まったように細められた。コクコクと頷く。
「女、そいつはタンチョウ族だ」
背後から、兎斗が言った。
玲藍の目が驚愕に見開かれる。
「そいつは座貫を滅ぼすためだけにここへ来た。一万の精鋭部隊を作り、タンチョウ族に討たせるために。そいつが立てた作戦は一見座貫軍に有利に見えるが、実際は我々タンチョウ族の罠にかかるよう、綿密に計画されたもの」
否定も肯定もせず、飛燕はキッと背後を振り返った。
兎斗は悪びれる様子もない。
「殺すしかなくなっちゃったね」
兎斗の言葉の意味がわかったのか、玲藍が童子無を抱きしめた。
飛燕は二人に向き直った。
「誰にも言わないと、約束してくれるな?」
「はっ! 甘いなっ! 国の存続が掛かってるんだ。こんな大事な情報を黙っている人間がどこにいるっ!」
「決して誰にも言いません……飛燕様、どうかっ……」
大声で泣いてしまうからだろう。拘束を解かれても、玲藍は童子無の口を塞ぐ布を外さなかった。
「ああ、お前を信じる」
「伊千佳っ!」
背中に硬いものが当たった。カチャン、と床に落ちた音で長剣だとわかる。
「あんたはそれでもタンチョウ族かっ! 正体を知られたんだっ! 今すぐ殺せっ! 一歩もここから出すなっ!」
飛燕は長剣を手に取った。きゃっと玲藍が悲鳴をあげる。
剣先を兎斗に向けた。
「玲藍、行け」
兎斗が憎悪いっぱいに目尻を吊り上げた。
玲藍は童子無を抱え、部屋を出て行った。
「愚かな……」
兎斗に追いかける気がないとわかるなり、剣を下げた。
「そんなにあのガキがかわいいかっ……僕のことは散々痛めつけたくせにっ!」
「お前からしたら、俺の判断は許せないのだろうな」
「当然だっ! 僕の体にはっ、あんたにつけられた傷があるっ!」
「だがお前は我々の計画を壊すためにここへ来たわけではないはずだ。自分の役目を思い出せ。お前はタンチョウ族を勝利に導くためにここへ来た」
「だから殺せと言ったんだっ! あの女が情報を漏らしたらどうするっ! せっかくの計画が水の泡だっ!」
「その情報を女に漏らしたのは誰だ? 俺への復讐心で余計なことをするんじゃない」
「っ……全部あんたが悪い。知布をいじめるからっ……」
兎斗はムッと唇を噛み締める。幼い丸みが残った頬、豊かな表情に、まだ彼が十九歳であることを思い出す。
飛燕ははあ、とため息をついた。
「裕翔になりすまして、俺を暴行しただろう。……あれでは足りないか」
「全然足りない……同じことをしないと、気が済まないっ! あんたは知布の悲痛な声を聞いただろうっ! 兎斗が見ているとっ……兎斗が見ているからやめてとっ……だから僕も同じことをっ」
童子無に、犯される姿を見られる。その危機から逃れた今でも、飛燕の指先はかすかに震えていた。自分の身に降りかかってやっと、自分の罪の重さを知ったのだ。
「お前の中には、裕翔がいるだろう」
刀を鞘にしまい、座ったまま姿勢を正した。
「……俺は、裕翔に見られるのも嫌だ」
兎斗は目の下の皮膚を引き攣らせた。
「だから、なんだっていうの」
「……それでは、ダメか? 俺は裕翔を悲しませたくない。お前が俺を傷つければ、裕翔は悲しむ。……それで、お前の恨みは晴れないか?」
「それならあんたは受け入れられるってことだろ。童子無に見られるのは嫌でも、裕翔なら良いってわけだ」
「そうだ」
「そんなの自分勝手だっ!」
「兎斗っ!」
自分勝手はどっちだ。過去を引きずっている場合ではない。座貫との決戦が迫っているのだ。
「ここは座貫っ! 俺たちが歪み合ってどうするっ! 座貫を落とせなければっ、同志は砂漠に追いやられたままっ、今だって国土のどこかに、黒髪を理由に虐げられている者がいるかもしれないっ! 兎斗っ! お前は俺を憎んでいるだろうがっ、俺の力がなければタンチョウ族は救えないっ! それはお前も承知だろうっ!」
飛燕は再び刀を取ると、水平にして兎斗に突き出した。
「日の出までお前に付き合ってやる。好きなだけ俺を痛めつければいい。ただしこれで終わりにしろ」
「……なんで、あんたに指図されなきゃならないんだ」
「兎斗」
静かに呼びかけると、兎斗はギュッと瞼を閉じた。諦めたようにため息をつく。
「……裕翔を悲しませれば良いんだろ。それなら暴力よりもっと良い方法がある」
わかるだろ、と兎斗は憎々しげに飛燕を睨んだ。
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