第23話

 きっと兎斗ととなら大丈夫。青山健斗は胸の中で何度も繰り返した。

 健斗は今、庵奴あんどの操縦する迂迫うはくに乗っている。護衛機は多い方がいい。健斗は自分一人でも迂迫うはくを操縦できる、だから兎斗ととを護衛させてくれと頼んだが、戦闘の素人が生意気言うなと怒られた。それで結局、庵奴あんどと相乗りになったのだ。

 操縦は健斗がし、射撃は庵奴あんどが横から機銃桿を操作して行った。一人乗り仕様の迂迫うはくは窮屈極まりないが、兎斗ととがカミカゼを行おうとしている今、それは些細なことだった。

「なあ健斗、兎斗ととはやってくれるよな?」

 甲斐連がいれんの代わりに隊長を務めることになった庵奴あんどは、顔は強面だが気のいい男だった。

 歳は38歳。戦前にできた子供が3人いるという。

兎斗ととならできる。大丈夫だよ。俺たちが敵から守ってやれば、兎斗ととならやってくれる」

 健斗は、自分に言い聞かせるように言った。

 兎斗ととがカミカゼをやると宣言し、第七中隊は兎斗ととを護衛する編隊で出発した。何よりも、兎斗ととの身を護るのだ。兎斗ととが、無事に敵母艦に辿り着けるように。それが第七中隊の秘められた任務だった。

「ああ、そうだよな。兎斗とと、だものな。あいつには死んでもらっちゃ困る。確か故郷に幼い妹がいたはずだ」

 ハッチのない兎斗とと迂迫うはくは、敵母艦へ果敢に突き進んでいく。敵戦闘機は、健斗ら護衛機の相手で手一杯で、兎斗ととまで手が回らない。

「いけっ! 兎斗ととっ!」

 健斗が叫ぶ。

兎斗ととっ!」

 庵奴あんどと一緒になって叫んだ。兎斗ととがさらに加速する。誰も追いつけない。

兎斗ととっ! お前ならできるっ! 怖がらずにやれっ!」

 昂り、レバーを思い切り引いた。敵戦闘機とまともにぶつかり、機体が大きく傾いだが、健斗は衝撃に目を閉じるのさえ堪えた。兎斗ととに全速ターンを伝授したのは自分なのだ。全部この目で見届けなければ。瞬きしている暇もない。

「そこだっ、腰を上げろっ! 全速ターンを決めろっ!」

 健斗にもできたのだ。きっと兎斗ととなら大丈夫。大丈夫。

 兎斗とと迂迫うはく艇にはハッチがない。全速ターンは身体を外へ出すようにして荷重を移動し、バランスをとることで可能となる。だから兎斗ととが腰をあげれば、わかるはずだった。

 ゴン、と衝撃音の後、一拍置いて、ドーンと凄まじい爆音が轟いた。水面が震撼し、健斗と庵奴あんどを乗せた迂迫うはくも波に流され、前後に行ったり来たりを繰り返す。戦闘どころではなかった。カミカゼ……兎斗とと迂迫うはくが敵母艦をやったのだ。

「あ……あ……」

 健斗は言葉にならなかった。何が……起こったのか。目撃者なのにわからない。

「なん……」

 酸素が上手く吸えず、肩を喘がせた。操縦困難となった健斗を見かね、庵奴あんどが操縦桿を代わった。「撤退」と静かに仲間に命令する。その単語で、健斗は我に返った。

「まっ……てよ、兎斗とと……兎斗ととを、助けないと……」

 庵奴あんどが「はあっ」と喘ぐように息を吸った。

「何を見てたんだ、お前はっ……お前も見ただろうっ……」

 見た。減速することなく、真っ直ぐ、敵母艦に体当たりした兎斗ととの艇を。

 最後まで兎斗ととの姿は見えなかった。直線距離は、風の抵抗を受けないよう、身を低くした姿勢が最もスピードが乗る。兎斗ととは最後まで身を低くし、迂迫うはくが出せる最大速度で、敵母艦に突っ込んだのだ。 

 兎斗ととは、全速ターンをやる素振りを、一瞬も見せなかった。それは迂迫うはく艇にトラブルが発生したわけではなく、兎斗ととが自らの意思で死を選んだことを意味する。

(どうして……兎斗ととっ!)

 健斗は喉を震わせた。庵奴あんどが洟をすする。大人が二人、互いを慰める言葉もかけず、ひたすら悲しみにくれていた。




 兎斗ととの部屋が健斗の部屋だった。この世界に来てからずっと一緒に生活していた。

 でもこれからは一人。二段構えの寝台で、健斗は初めて一人の夜を過ごした。

 兎斗ととは勝ち気で、一見ツンと生意気に見えるが、本当は思いやりのある優しい少年だった。

兎斗とと……)

 あんなに練習したじゃないか。確実にできるようになったから、カミカゼを決意したんじゃなかったのか。どうしてあんなこと……

 疲れているはずなのに眠れなかった。今朝まで兎斗ととはそこにいた。寝台の一段目が彼の定位置だった。

 健斗は一段目に移動した。壁に掛かった軍服を外し、めいっぱい抱きしめた。兎斗ととの臭いは血の臭いだった。まだ15歳。向こうの世界では中学三年生。やっとボートレーサー試験が受験できる年齢だ。人生これからというときに……

 ふと、手のひらにカサリと感触があった。胸ポケットに、折られた紙が入っていた。

 二枚だった。一つには「健斗」と書いてある。そういえば名前の綴りを聞かれ、砂浜に流木で書いたのだった。

 もう一つには「庵奴」と書いてあった。首を傾げる。口に出して読んでみて初めて、それがあの庵奴であるとピンときた。綴りなど、気にしたこともなかった。庵奴はこういう字を書くのか。

「健斗」と書かれた方を開く。けれど漢字ばかりでさっぱりわからない。言語は通じても、読み書きには学習が必要ということだろうか。

 健斗はそれを持って部屋を出た。庵奴を探すが部屋にはいない。どこへ行ったのだろう。思い当たる場所を回るが、庵奴はどこにもいない。

 どうせ眠れないのだ。健斗は巨大な兵站の端から端まで探すことにした。そしてやっと、一番遠く離れた停車場に庵奴の姿を見つけた。他にも数人。輸送車から食糧を運び出している。

「庵奴っ」

 健斗が言いながら駆け寄ると、庵奴は疲れの滲んだ顔を和ませた。

「健斗、やったぞ。しばらく食うのには困らない。肉も野菜も揃ってる。タンチョウ族に襲われずに済んだんだ」

 真っ先に思ったのは、もう少し、カミカゼを先延ばしにしていれば、兎斗が空腹で死ぬことはなかったのに……という、切なさだった。

「せめて俺らの出撃が、明日だったらな」

 庵奴も同じ思いを抱いたらしい。浮かない顔で言った。

 兎斗のことを思うと思考が麻痺してしまう。ここへ来た理由も忘れ、ぼんやりとした健斗に、「何か用か?」と庵奴が聞いた。

 ハッとする。ああ、と手紙を出そうとすれば、手から抜け落ち、ひらひらと地面に舞い落ちた。

 俺のせいで兎斗は死んだんじゃないか。手から抜け落ちた手紙を見つめ、健斗は思った。兎斗の命を奪ったのは、俺なんじゃないか。全速ターンを教えたから。

「なんだ?」

 庵奴が手紙を拾い上げ、開いた。

 内容が知りたかったはずなのに、気づけば健斗はその場を去っていた。亜鉄の地面をカンカンと踏み進む。

「健斗っ! 健斗っ!」

 整備場を通り抜けようとしたところで、庵奴の手に捕まった。高い屋根のだだっ広い空間には傷んだ迂迫うはくが整然と並んでいて、人はいない。

「読んで欲しかったんだろうっ、俺にっ……」

 荒い息を吐きながら、庵奴が言った。「健斗」と書かれた紙をひらひらと掲げられ、なぜか怒りが込み上げる。健斗は自分が置いてきたくせに、大事なものを返せとばかりにひったくった。

 そんな健斗の態度に、庵奴は嫌な顔ひとつせず、静かに言った。

「あいつはカミカゼの報酬が欲しくて、死んだんだ」

 カミカゼを成功させると、報酬が出るというのは兎斗ととから聞いた。だから全速ターンを練習したのだ。死ななくても、それができるように。だから報酬が欲しくて死んだというのは意味がわからない。理屈が通っていない。

「死ななきゃ、カミカゼは認めらなかったんだ。お前がここへ来た日、カミカゼを成功させただろう。でも認められなかった。兎斗はそれを隊長から聞いて、だからっ……」

 愕然とした。兎斗……それを今まで黙っていたのも、「戦果を上げる」と息巻いていたのも、仲間に送り出してもらうためだったというのか。

 兎斗は止められたくなかったのだ。そしてちゃんと成功させたかった。護衛機を提案したのは兎斗だ。

「あ、ぁ……」

 カクリと膝が折れた。地面に両手をつく。きゅううと胸が絞られ、背中を丸めた。

(兎斗……お前のカミカゼを後押ししたのは、俺だったんだな)

 全速ターンという希望が、兎斗の背中を押したのだ。

 ……いや、兎斗の気持ちはずっとそれを望んでいた。全速ターンの希望が変えたのは周囲の空気だ。最年少の兎斗でも、腕前があればやらせても良いんじゃないかという空気に変わった。

「自分を責めるなと、そこには書いてあったぞ」

 庵奴がしゃがんで言う。健斗はブンブンとかぶりを振った。

「兎斗はお前に感謝してる。これで家族を……」

 庵奴が言葉に詰まった。健斗は声を押し殺していたが、胸が弾けた。わんわん声をあげて泣いた。

「家族を、貧しい暮らしから救ってやれる。本当にありがとう……お前には悪いことを、した。せっかく、……せっかく、教えてもらったのに、お前の気持ちを、ふ、踏み躙るような、ことを……した。最初から……そのつもりだった。悪かった。どうか自分をっ、責めるのだけは……やめてくれ。俺は、お前と出会えてよかった」

 庵奴は言葉を詰まらせながら、それでも兎斗の言葉を伝えてくれた。

 いつまでも健斗が泣き続けるので、庵奴は手紙を残して去っていった。

 発作のような嗚咽が治まると、健斗はむくりと体を起こし、手紙を開いた。何が書かれているのか、今ならわかる。それに読める文字もある。健斗は噛み締めるように兎斗の字を追った。

 兎斗の声で再生される。

『俺もお前と同じ世界の人間だったら、ボートレーサーになりたい。お前がなれるんだから、俺でもなれるよな? 大人にならなきゃなれないのかな。そういうこと、もっと聞きたかったな』

 兎斗は自分が子供であることをちゃんと自覚していた。

 ポタリと涙が文字を滲ませ、健斗は慌てて目を擦った。

(なれるよ、兎斗……お前なら)

 敵艦に全速力で突っ込んでいく迂迫うはく艇が、健斗の脳裏に、鮮明に蘇った。

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