兎斗の出現
「ひえんっ!」
この日も飛燕は昼過ぎに馬小屋にやってきた。童子無が一目散に駆けていく。
「童子無、今日はなんだか甘い匂いがするな」
童子無を抱き抱え、飛燕が言う。
「玲藍が香の調合を教えてくれたんだ。さっきまで花の蕾をすり潰していたんだよ」
裕翔が言いながら近づくと、飛燕の表情がサッと強張った。
「飛燕?」
「そうか。良い香りだ」
飛燕は笑顔を繕い、童子無の頭をそろそろと撫でる。
「ふふ、やったあ」
「さあ、昨日の続きだ」
二人は机に向かい、巻物を広げる。
変だなと、裕翔は怪訝に眉を寄せた。昨日まで進んだのは真ん中あたりのはずなのに、飛燕は終盤を指で指し、読み始める。
得体の知れない恐怖が湧き上がる。その場に立ち尽くし、裕翔は二人の勉強をジッと見つめる。これだけ見られていたら気が散るだろうに、飛燕は頑なにこちらを見ようとしない。
「飛燕」
呼べば、飛燕の肩がビクリと震えた。
「ひえん、ゆうとが呼んでるー」
「いい。続きをやるぞ」
二人の勉強時間が終わり、飛燕が帰ろうと地上に出たところで、「飛燕」と呼んだ。止まってくれないから、「伊千佳」と呼び直す。
「その名で呼ぶな」
「飛燕……俺、なんか気に障るようなことした?」
感情の読めない飛燕の目が、力なく伏せられた。
「何も」
「何もってことないだろっ……」
腕を掴もうとした手を、パッと弾かれる。瞳が怯えるように揺れていた。……怖がられていると確信する。
「飛燕……どうしたんだよ」
「別に、どうもしない」
飛燕は背を向け、柵で仕切られた細い通路をカツカツと早足で進んでいく。
「待てって!」
「触るなっ!」
勢いよく振り返った飛燕は、バランスを崩して地面に腰をついた。チッとバツが悪そうに舌打ちし、そっぽを向く。
強がるような険しい表情が、突如くしゃりと歪んだ。引き結んだ唇がふるふると震え出す。
「お前の……せいだ」
か細い声で、飛燕は言った。
「お前のせいで……ずっと痛い。ずっと……痛みが消えないっ」
「え……」
裕翔には身に覚えがない。
「どこ……が?」
飛燕はキッと裕翔を睨んだ。それもすぐさま力なく伏せられ、さらには両手で顔を覆う。
「消えろっ……お前の顔など見たくないっ!」
「飛燕っ」
裕翔は膝をついた。湿った土が冷たい。
「消えろと言っているっ! でないと俺はっ……お前を罵倒してしまうっ……」
「飛燕……言ってくれなきゃわからないよ。俺が一体、何をしたって言うんだよ……」
肩に触れる。ビクッと跳ねたが、構わず押さえつけた。
「お前は、傷ついていたし……俺はっ、お前を慰めたかった。そうでなくても……俺は、お前ともう一度っ……か、体を重ねたいと、思った」
喘ぐように飛燕は言った。裕翔の胸の中に、それとしか思えない一つの結論が浮かび上がる。
「俺が、愚かだった。お前が愛しているのは、佐了だと……わ、わかっているつもりで、わかっていなかったのだ。もしかしたらあの日……お前を手に入れられると、勘違いしたのかもしれない」
図らずも飛燕の気持ちを知り、裕翔は激しく動揺した。
「飛燕……俺のこと、好きなのか?」
飛燕はククッと笑った。
「お前がこれほど無神経な人間だとは思わなかった」
「ごめん……驚いて、つい」
飛燕の目尻がキッと吊り上がった。
「誰が好きでもない人間にっ……」
飛燕の両目から、ボロボロと涙が溢れた。
「あんなこと……許すものかっ…………好きでなかったらっ、とっくに痛いと言っているっ……」
兎斗だ。兎斗が、飛燕の優しさにつけ込んで、ひどいことをしたのだ。
「飛燕……ごめん。ひどいことしてごめん……」
でもそれは俺じゃないと、言うべきか、言わないべきか。
兎斗の悪意を知って、飛燕は傷つかないだろうか。
そもそも二人の関係性を裕翔は知らない。だから、どうするべきか答えが出ない。
飛燕は、裕翔だから体を重ねたいと、受け入れてくれたのだ。それが兎斗だったと知ったら、余計にショックを受けるんじゃないか。
飛燕はかぶりを振った。
「佐了に、兎斗の体だと伝えたくなった気持ちも、それを受け入れてもらえず……何かに、当たりたくなった気持ちも、わかる。……お前は傷ついていた。ああでもしないと、気持ちが収まらなかったのだろう」
「っ……」
佐了に、兎斗の体だと伝えた?
だとしたら佐了は、兎斗と会話している。兎斗は、佐了には本当のことを伝えたのだ。
受け入れてもらえないわけがない。兎斗本人なのだから。
にも関わらず飛燕には、「受け入れてもらえなかった」と泣きついた。……なんて意地の悪い男だろうか。
(俺に成りすまして、飛燕に乱暴したんだ……)
激情が込み上げた。
「飛燕……ごめん……」
「……離れてくれ」
「どこが痛む?」
飛燕はキュッと唇を噛み締めた。
「……お前が、一番わかっているだろう」
「手当ては……した?」
ふいっと背けられた視線で、してないのだとわかった。
「玲藍から軟膏と生薬を貰ってくる。ここで待ってて」
けれど戻ってきた時、飛燕はいなかった。考えてみれば当然だ。
「兎斗……」
低い声が出た。
「飛燕に……何をした」
怒りの後、この体の持ち主は兎斗なのだと忘れかけていた事実を思い出し、目の前が真っ暗になった。もしかしたら、次、兎斗に乗っ取られたら、戻ってこられないかもしれない。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。馬小屋を飛び出し、飛燕を探す。誰かに見つかったらなんて考える余裕はなかった。自分でいるうちに飛燕に会いたい。次はないかもしれない。
「飛燕っ!」
山脈に向かって駆ける一頭の馬を見つけ、声を張り上げた。
馬が止まる。馬首が振り返るのも待てず、猛ダッシュして近づいた。
「裕翔っ……こんなところまでっ……何を考えているっ!」
「飛燕こそ……なんで待っててくれないんだよっ……」
頭上から布が降ってきた。頭を隠せという意味だと思って、顔だけ出す。飛燕はキョロキョロと周囲を見回していた。
「飛燕、頼む。体の傷、今すぐ手当てさせてくれ。今日だけ。それで終わりだ。俺はもう二度と飛燕に触らない」
意味がわからない、というように、飛燕が目を細める。
「俺が傷つけたとこ、どうしても手当てしたいんだよ。……俺のこと、怖いかもしんないけど……今日だけでいいからさ」
その時のことを思い出したのか、飛燕は顔色を曇らせた。
「今日は絶対ひどいことしないから……だから頼むよ」
少し甘える声音を出した。
「……乗れ」
飛燕はそれだけ言って、馬首を反転させた。
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