筆跡

 馬小屋は演習場から離れた場所にある。調練の合間に、飛燕はこうして馬小屋に来て、童子無の勉強相手をしていくらしい。


 今、飛燕と童子無はちゃぶ台に向かって読み書きの練習をしている。


 裕翔は玲藍と地上に出て、馬小屋の掃除だ。


「以前は、ここへはお休みになるために来られていたんです。自分が兵隊さんと一緒に休んでいると、みんな気を遣って休めないからと」


 宮廷の屋敷に戻るよりは、その中間地点であるここが丁度いい。だから飛燕はここで休むようになった。でも童子無が成長するにつれ、飛燕の休息時間は減っていき、ついには童子無が待ち望む勉強時間となった。


「申し訳ないとは思っているんです。でも童子無は飛燕様から文字を教わるのがとても楽しいようで……私はつい、飛燕様の優しさに甘えてしまうんです」


「そう、なんだ……」


「裕翔、来い」


 飛燕が下から顔を出し、裕翔を呼んだ。裕翔は熊手を置いて、地下へと降りていく。


「ゆうと、くさい」


 童子無が顔をしかめ、鼻をつまんだ。服には馬の糞尿が付いている。


「俺だってなあ、好きで臭くなってるわけじゃないんだからな」


 このこの、と童子無を小突く。


「くさーい」


「裕翔、これは読めるか?」


 飛燕が文字の書かれた紙を指差した。画数の多い漢字が縦にびっしりと並んでいる。


「っ……」


 元の世界の文字とは違うのに、書かれている内容は理解できた。


 文字が読めるということよりも、衝撃を受けたのはその筆跡だ。夢で見た……手紙の文字とそっくりだった。


 やはり伊千佳は飛燕。あの手紙は飛燕が書いたもので間違いない。


「どうなんだ、裕翔?」


「あっ……読めるよ。母上大好き、母上いつもありがとう」


「元の世界の文字と、同じなのか?」


「いや、違うけど……」


 飛燕は考え込むように顎に手を添えた。童子無も真似をする。


「なんか……まずいかな?」


「いや、文字は読めた方がいい。童子無、続きをやるぞ」


 飛燕は筆を手に取った。「はーい」と、童子無も筆を取る。


 飛燕は何かに気づいたようだが、きっと今は教えてくれないだろう。裕翔は部屋を出て、馬の元へ向かった。熊手を持って、地面に散らばった藁をかき集める。ここでの生活も十日目だ。自分が少しずつ順応していくのがわかる。


 ハッと怖気がした。手が止まる。


 順応……と言えるだろうか。少なくとも言語と文字の読解能力は最初から備わっていた。


 夢の中では兎斗として文字を読んだ。それらの能力は兎斗に備わっていたもの。……兎斗の魂は、まだこの体から抜けていないのではないか。


「裕翔」


 名前を呼ばれ、我に返った。勉強が終わったのか、飛燕がそばにいた。一体、自分はどれほどの時間、立ち尽くしていたのだろう。見当もつかなかった。


「今夜は佐了の元へ行くぞ。月が川の水面に映る頃に迎えに来る」


 馬小屋の裏には川が流れている。


「あ……うん」


 気のない返事に、飛燕は怪訝に眉根を寄せたものの、背を向け、歩き出す。


 男の背中が離れていくと、無性にもどかしくなった。佐了に会いに行けるのに、乳を飲めるのに、全然嬉しくない。


 あんたは俺に触れられたくないのかよと、俺様の極みのような不満が込み上げる。


 あんなに咽び泣いて、よがってたくせに。


 殺されたくなかった。でも自分にできることと言えば体に奉仕することくらいで、ちょうどその時、飛燕は媚薬を盛られたように熱い息を吐いていた。


 だから必死に尽くした。あらゆる技術を駆使して……でもいつの間にか、本来の目的を忘れて、夢中で男の体を貪っていた。セラピスト時代にはなかったことだ。必死に声を抑え、快楽に抗う姿が新鮮でたまらなかった。


 どうして飛燕を抱いたのか、その目的を思い出したのは、飛燕の言葉を聞いた時だ。


 この体が兎斗のものだと、佐了に知られるのを恐れる裕翔に、飛燕は言った。


 あいつはお前を気に入っている。俺にしたように、あいつのことを抱いたんだろう。


 あいつの気を引くことに成功した。少なくとも、殺すのは惜しいと思わせることができた。


 ……あれは、飛燕自身のことでもあったんじゃないか。実際、裕翔はこうして生かされている。飛燕はもう一度、あんな抱かれ方をされたいのではないか。


 でもそんな気配を微塵も見せることなく、飛燕は「佐了の元へ行くぞ」と言う。あんなに激しく求め合ったのに、まるで何もなかったかのように。


「飛燕」


 俺のことどう思ってんだよ。幼稚な問いかけをぶつけようと名前を呼ぶ。


 飛燕は無視。悠然と先を進む。


「飛燕…………伊千佳」


 ピタリと男が足を止め、肩越しに振り返った。とっくに答えは出ていたはずなのに、より確実なものとなるとグッと胸が締め付けられた。


「お前……」


 飛燕が大股で引き返してきた。すぐさま目の前に迫る。


「佐了から聞いたのか?」


 とりあえず聞いてみただけ、というような口調だったから、それには答えなかった。


「伊千佳……あんたは、俺のことどう思ってるんだよ」


 飛燕が苛立ちをあらわに眉根を寄せる。


「俺に抱かれたいんじゃないのかよ」


「その名をどこで知った?」


「佐了のところには行かない。今日はあんたを抱く」


 飛燕は目だけで地下へと続く通路を見た。一瞬で裕翔に視線を戻す。


「口を慎め。童子無に聞かれたらどうする」


「聞かれても意味なんか分からない」


「みくびるな。お前より賢い子だ」


「兎斗は?」


 夢の中で、自分は兎斗の目から景色を見ていた。けれど兎斗の感情はわからない。得られた情報は景色と会話だけだ。


 承知しました。伊千佳様を、この手で必ず殺します。


 あれが本心なのか、それとも隣にいた男に取り入るための方便なのか、裕翔にはわからない。


「兎斗は……どんな奴なんだ?」


「知る必要はない。兎斗は死んだ」


「死んでない。兎斗は俺の中にいる」裕翔は言ってすぐ、違うとかぶりを振った。「俺が兎斗の中にいる。兎斗の体を借りて、ここにいる」


「……どうしてそう思う?」


 童子無を相手にするような、優しい口調で問われた。


「……兎斗の記憶を、夢で見た。空を鷹が飛んでいて、佐了によく似た男が……それを撃ち落とした……」


 飛燕は両目を見開いた。


「兎斗がうまそうですねって、言ったら、佐了によく似た男は……よく肥えている、羽も……赤みも強いし、これはうまいぞって」


 飛燕はハッと息をのむ。


「他……に、甲斐連様は、なんと言った?」


 やや上擦った声。期待するような眼差し。もしや自分は余計なことを言ったのかもしれない。口をつぐむと、飛燕は言った。


「ああ……甲斐連様というのは、佐了によく似た男のことだ……凛とした、美しいお人だろう。俺はあのお方を父のように慕っている。……俺を地獄から救ってくださった恩人だ。……それで、甲斐連様は、他にはなんと言った?」


「……今日見た夢なんだ。甲斐連……って人が、鷹を撃ち落とすシーンだけを見た。だから会話は……それだけ」


 飛燕は薄く笑った。


「俺を伊千佳と呼んだではないか。甲斐連様がそう言ったのだろう? どうして伊千佳が俺だとわかった?」


「それはっ……」


 白髪の存在は邪魔だからな。


「伊千佳に礼を言わないとって……甲斐連って人が、言ってたから。手紙の文字と、さっき飛燕が書いた文字が同じだったから、鷹の送り主……伊千佳が飛燕だって、わかった」


「……そうか」


 咄嗟についた嘘だったが、飛燕は信じた様子だ。


「ふふ」


 飛燕は唇に手を添え、クスクスと笑った。


「しかし、甲斐連様は相変わらずせっかちだな。撃ち落とさずとも、鷹は甲斐連様の腕に止まるよう躾けてあるのに」


 飛燕は微笑んで言うが、裕翔は甲斐連という男に撃ち落とされる鷹を思い出し、ゾッと寒気がした。


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