兎斗の記憶
裕翔は飛び上がるように目を覚ました。全身にぐっしょりと汗をかいている。
「おはようございます」
女の声と……独特な、獣の臭い。
周囲を見回すと、ちゃぶ台で勉強する子供の姿が見えた。こぢんまりとした部屋……馬小屋の、地下に作られた生活スペースだ。台所や押し入れもある。
明かりを取り込む小窓があるため、地下でも日中は明るい。
「ゆうとー、起きるのおそーい」
「こら、童子無。裕翔さんは慣れない地でお疲れなのよ」
裕翔は胸に手を当てた。今のは……なんだ。夢にしては、やけにリアルだった。
伊千佳様を……殺すのですか?
夢の中で裕翔が言った。でもあれは別人の言葉だ。一緒にいた男に自分は、「兎斗」と呼ばれていた。
「あれは、兎斗の記憶……?」
「裕翔さん?」
「だってもうお昼だもん! ゆうと、おねぼーっ!」
童子無が筆を持って駆け寄ってきた。裕翔は夢の記憶を必死にかき集める。
そばにいた四十歳前後の男は、佐了によく似ていた。
……虫唾が走るのだ。
確かに、虫唾が走りますね。
承知しました。伊千佳様を、この手で必ず殺します。
誰のことだ。伊千佳って誰だ。口の中がカラカラに渇いてきた。まぶたを固く瞑り、記憶を手繰り寄せる。もっと……決定的な言葉があった気がする。
白髪の存在は邪魔だからな。
「っ……」
伊千佳……飛燕のことだと気づいた瞬間、心臓を鷲掴みされたような衝撃を受けた。
「おねぼー、おねぼーっ! 大人なのにだらしないのーっ!」
「うるさいっ!」
きゃっきゃと腕に絡みついてきた童子無を、反射的に振り払った。
「ぎゃっ」
童子無が床の上をひっくり返る。「うう」と呻いた後、サイレンのようにぎゃんぎゃんと泣き出した。子供が泣いているのに、可哀想という感情は湧いてこなかった。夢の記憶が消えないよう、こめかみを押さえる。
「童子無、大きな声を出してはいけません……」
玲藍が童子無を抱え上げ、押し入れの中に入った。パタン、と閉まると、嘘のように静かになった。
静かな部屋で夢についてひたすら考える。でもしばらくすると、押し入れの中が気になり出した。今になって罪悪感が芽生える。
「ごめん……童子無」
押し入れにそっと近づき、コツンと叩く。
「開けるよ」
隙間を開けると、暗闇から泣き声が溢れた。
「すみません……もう少し、時間が掛かりますから」
玲藍が伏せ目がちに言った。
「ごめん……童子無、大丈夫? 怪我はしてない?」
「……わかりません。あの、童子無が怖がっていますから」
玲藍が戸を閉めようとした時だった。
「何事だ」
背後から低い声が聞こえた。振り返るより先に、隣に男がしゃがんだ。
「飛燕様……」
「何があった」
「ううっ……ゆうとにぶたれたのー」
玲藍の腕の中から童子無が言った。飛燕に横目でギロリと睨まれ、裕翔は肩をすくめる。
「童子無が悪いんです。裕翔さんにしつこくちょっかいを出すから……」
「だからって、ぶつなんてひどいな?」
飛燕は童子無に笑いかける。童子無はコクコクと頷いた。
「玲藍、俺も中に入っていいか?」
「えっ! あ、えっ……せ、狭いですよ?」
玲藍が慌てふためく。
「母上が外に出ればいい」
ぐずぐずと洟をすすりながら、童子無が言った。
「なっ!」
玲藍はムッとし、いそいそと童子無を抱いたまま外へ出た。
「まったくもう、泣き止んだのなら押し入れに隠れる必要はないでしょう。勉強の続きをおやんなさい」
「やだっ! 飛燕とかくれんぼするのっ!」
ジタバタする童子無をすくっと抱き上げ、飛燕は身を低くし、押し入れの中へと入っていく。パタン、と戸を閉めたのは童子無だ。
「もう……童子無ったら、飛燕様と二人きりになりたいなんて、本当に飛燕様のことが好きなのね」
呆れたように言う玲藍も頬が赤い。
「あの……ごめん。童子無に怖い思いをさせて」
「いえ、童子無が悪いんですよ。あの子はやり過ぎてしまうんです。前に、飛燕様の分の鮎も食べてしまったと言ったでしょう。途中で止めるということができないんです。私の躾不足です」
「いや……悪いのは暴力を振るったお……」
突然、バッと押し入れの戸が開いて、童子無が飛び出してきた。何やら長細い棒を持っている。
童子無は細長い棒……鞘を構え、裕翔に突進してきた。
「わっ!」
裕翔は驚いて腰をつく。押し入れから出てきた飛燕と目が合った。飛燕は顎をしゃくる。「やられろ」という指示だと思って、裕翔はアニメの悪役のように胸の前で手を振った。
「た、頼むっ……許してくれっ!」
「わるものっ! せいばいっ!」
「うわーっ!」
「やっー!」
振り上げられた鞘は、しかし額の前でピタリと止まった。視界の隅で、飛燕がおや? と目を丸くする。
「まあよい、ゆるしてやろう」
童子無がフンと荒い息を吐くと、キョトンとしていた飛燕が手で口を覆い、肩を揺すって笑い出した。
溌剌な姿に、裕翔は釘付けになる。胸がドキドキと高鳴った。裕翔の視線に気付かず、飛燕は笑い続けた。まだ笑い止んでいないが口から手を離し、息を弾ませながら言った。
「玲藍、見ただろう。童子無は途中で止めることができる。それもあんな寸前で……大人だってなかなか出来ないぞ。俺はそいつを好きなだけ叩けと言ったのだ。それをしないなんて、大した子だ」
童子無の鼻の穴が誇らしげに膨らむ。玲藍は「飛燕様、そんなにこの子を甘やかさないでください」と文句を言ったが、その表情は嬉しそうだ。
「童子無様、このご恩は一生忘れません」
裕翔がそう言って平伏すると、童子無はきゃっきゃと飛び跳ねた。
顔を上げると、自然と飛燕に目がいった。目が合うと飛燕は微笑し、小さく頷いた。
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