第15話
一ヶ月近くここで生活し、凄まじい悪臭にもすっかり慣れた。佐了は起き上がると、側にいる馬の頭をそろそろと撫で、
あの日、佐了を逃した娼妓だ。太陽の当たらない、湿った馬小屋に身を隠すよう勧めてくれた。糞尿の中での生活は、臭いさえ我慢できれば快適だった。
彼だけではない。比較的優雅な生活を送れる娼妓の中にも、佐了の行為を支持する者が少なからずいると言う。
だが佐了が馬小屋に身を潜めていると知るのは、
門の方から
今日は何やら荷物を持っていた。
「佐了、外へ出られる目処が立ちましたよ。騎射に使われた馬が負傷したでしょう。明日、あの馬を都に出すそうなのです。だからあなたは馬と一緒に逃げて」
騎射は貴族らの遊戯だ。
「ありがとう、
「罪人を標的に使うような人たちですよ。……捕まったらどんな酷い目に遭うか」
「そうなれば自決するまで。俺は一人でも多く殺したいんだ。ここで逃げたら一生後悔する」
「だるまにされた娼妓を知っています。あなたは残虐の限りを尽くされ、死ぬことも許されない」
本気で佐了を心配する
「
「私のことは良いから、あなたは自分のことを考えて」
そっくりそのまま返したくなる言葉だった。けれど佐了の口は、全く別のことを言っていた。
「酷いことを言って、すまなかった」
あの日、子供がいると訴えた彼女に、佐了は「なぜ産んだ」と言った。「娼妓の子供が幸せになどなるものか」と。
「俺の母は娼妓だった。父は客だ。よほど俺が憎かったんだろう。早く戦場へ行って死んで来いと、お前の頭を見ると吐き気がするとよく言われた」
母はいろんな男と寝たが、よりによって、一番嫌いな客の子供を産んでしまったと嘆いていた。カラスのような色の濃い黒髪で、種が特定できたのだ。
「俺の父は、娼妓の間で評判の悪い客だった。……だから、娼妓を憎んでいたのだろうな、俺は。お前たちが俺に悪感情を抱いていると勝手に思い込んでいた」
だが佐了は娼妓との接触を徹底して拒絶し、誘惑にも靡かなかった。
「……後悔している。
娼妓のくせに、佐了が何気なく視線をやった時、彼女は恥じらうように俯いた。客が乳房を鷲掴み、着物から取り出していたのだ。だがそれが仕事。頬を染める彼女に、佐了は苛立ちを覚えた。それに豊満な胸は栄養が足りている証拠。黄亜の兵士が見れば、情欲よりもまず食欲が湧くだろう。(お前に欲情などするか)そんな暴言を腹の中で吐いた気がする。
「私もです、佐了」
佐了の強張った頬を、
佐了は驚いて後退った。自分は糞尿まみれなのだ。そういう気後れも全て見抜いているような優しげな笑みを浮かべ、
「気づけばあなたを目で追っていた。天天を読むあなたの表情が、とても辛そうに見えたから」
そんなふうに思われていたのか。上手く感情を殺せていると思っていたから、驚いた。
「この人に
向いていない。自分が
言い当てられた。たったそれだけのことなのに、心臓がドキドキと激しく波打つ。
「佐了、あなたはよく頑張りました。これに着替えて、ここから逃げてください」
その夜、出発のために水を浴びた。厩舎裏の井戸は見通しがよく、身を隠すようなものはない。真夜中でも警戒しながら、サッと済ませて身体を拭いていた時だった。
「佐了」
名前を呼ばれ、ハッと振り返る。見慣れた老人にホッと頬を緩める。
「なんだ……
身体を拭く佐了を、
身体を拭き終わり、
「……返してもらえるか」
静かに訴える。しかし
佐了は裸のまま、
「
言いかけた佐了に、
「逃げるなど、許さん」
掠れてはいるが、強い声音だった。
「華族九人殺したくらいで、満足するな。殺せるだけ、殺せ」
佐了の気持ちが切り替わるのは早かった。逃げることを、本当は受け入れられずにいたのかもしれない。
「ああ、わかった。より盛大な宴の日、暴れよう。
しかし
「お前は男好きのする顔だ。体の線も細い」
何を言い出す。佐了は怪訝に眉根を寄せた。
「両目、両腕に包帯を巻け。お前の特徴は目と腕だ。生まれつき目が見えないということにして、両目を覆え。腕は皮膚病と。さすれば、お前が逃亡中の
ハッとし、着物をよく見る。品のない派手な柄。
「俺に、娼妓になれと言うのか」
「官吏を殺すのに都合がいい。曲者として忍び込んだとて、殺せる人数は知れている」
「しかし……」
確かに娼妓になれば、より多くの官吏を殺せるだろう。だが女のフリなどできるだろうか。それも女官ではなく、男と間近で接触する娼妓など。
それに佐了の特徴は、目と腕の他にもう一つ。それが一番の課題だと、佐了は思っている。
「この髪だ。俺は、これ以上に濃い黒髪を見たことがない。何を着ても、この髪で俺だとわかるだろう」
「何をするっ」
驚く佐了に、
「……っ!」
黒いはずのそれが、なぜか褐色だった。前髪に垂れる髪の毛をつまみ上げ、目を凝らす。それも褐色だった。
「どういうことだ……っ」
説明を求めるように
「馬の尿だ。お前はひと月馬の尿を浴びていた。色素が抜けたのだ」
息を呑んだ。なんという珍現象。佐了は濡れた髪を触った。パサついて、ギシギシだった。これも馬の尿の影響だろうか。
「誰よりも黒い髪がお前の特徴ならば、それを失えば、お前は別人ということだ」
佐了は鏡を探した。どうしても自分の姿を見てみたかった。キョロキョロと周囲を見回す佐了に、
佐了は屈み、壺に映った自分を覗いた。
ワッと胸が高鳴った。小首を捻ったり、髪をつまみあげたりする。しっかり中まで色が抜けている。われ知らず口角が上がった。
「もっと早く知りたかったな」
呟きも無意識だった。
(この方法を知っていれば、母が俺を見るたびに嫌な思いをすることもなかったのに)
それに気づいた瞬間、笑顔はスッと引っ込んだ。
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