馬小屋で暮らす親子

 広々とした、太陽の当たらない湿った馬小屋。柵で仕切られたそこには仔馬や負傷した馬がいて、突き当たりの、一見、藁置き場としか思えないその下が、裕翔の居場所だ。


 藁の下には床板があり、それを開けると地下室が現れる。ここで過ごせと、飛燕に言われたのだ。


「うっ、ねむい……眠いけど……臭くて寝れないっ……」


 独特の獣臭で、昨日は一睡もできなかった。


「うふふ、そのうち慣れますよ」


 針仕事をしながら、玲藍が言った。この地下室で、四歳の子供と密かに暮らす元側室だ。


 玲藍は年齢を偽り、呂帝と体の関係を持っていた。年齢詐称が呂帝にバレ、処刑命令が下ったが、飛燕に「お腹に子供がいる」と訴えたら、見逃してもらえたのだという。


「慣れるって……鼻がいかれるってことじゃなくて? なあ……玲藍と童子無は、一日中ここにいるのか?」


「兵隊さんが調練をしている間は、外にも出られます。ここは宮廷からも、演習場からも離れていますから。調練が始まれば、人が来ることはないんですよ」


 笛のような音が聞こえ、玲藍は微笑んだ。


「もう、外へ出ても大丈夫ですよ」


「本当?」 


 裕翔は半信半疑で問う。


「わーっ」


 習慣なのか、玲藍の子供、童子無が一目散に階段を駆け上がっていく。


 裕翔もそれに続いて外へ出る。半日ぶりに吸った外の空気は、まだ馬小屋の中であるにも関わらず、爽やかに感じられた。


「ひえんーっ!」


 童子無が突然声を上げた。たったっと柵で仕切られた通路を駆けていく。


 外に出ていいと玲藍は言ったが、馬小屋の外まで出るのはまずいのではないか。裕翔は慌てて童子無を追った。


「飛燕?」


 人影にギョッとしたが、見るとそれは仏頂面の飛燕だった。


 童子無が飛燕の足にしがみつき、飛燕は足に童子無をまとわりつかせながら、近づいて来た。子供に好かれているのが意外すぎて、裕翔は思わず吹き出した。


「まじか……あんた、すっげえ好かれてるじゃん」


「童子無は飛燕様のことが大好きなんですよ」


 玲藍も地下から出てきた。


「この前は川へも連れていってくださいました。鮎の塩焼きがたいへん美味しかったと、童子無が興奮して大変でした」


「土産がなくて悪かったな。お前にも食わせるつもりでいたんだが、我慢できずに食ってしまった」


 飛燕は恥じらうように微笑んだ。我慢できずに食ってしまうなんて、子供らしいところがあるんだなと、裕翔は微笑ましくなった。


 玲藍はゆるゆると首を振る。


「童子無から聞きましたよ。飛燕様の分も、私の分も、自分が全部食べてしまったと」


 飛燕は切長の目を丸くし、足に絡みつく童子無を見た。


「童子無、それは黙っておけと言ったろう」


 そう言って、長い足を左右に振る。童子無は振り払われないよう必死にしがみ付きながら、きゃっきゃと笑った。


「飛燕様は童子無を甘やかしすぎです。飛燕様の分まで食べてしまうなんて……ちゃんと、叱ってください」


「童子無、母上にたっぷり叱られたんじゃないか? ええ? どうなんだ」


 飛燕が足の振りを大きくする。見ているだけで筋肉痛になりそうだ。


「ふふっ、しかられたー」


「だから黙っておけと言ったのだ。嘘をつけるようにならなければ、苦労するぞ」


「飛燕様っ!」


「玲藍、童子無は叱られるようなことは何もしていない。俺は童子無を喜ばせたくて川へ連れていったのだ。俺のために気を遣って残すより、夢中で食ってくれる方がよっぽど嬉し……」


 言葉の途中で、飛燕がしまったというふうに、両目を見開いた。そばの柱に手をつく。


「飛燕様……どうされました?」


 突然足を止めた飛燕を、玲藍と童子無が不思議そうに見つめる。


 昨夜の過激なセックスが祟ったのだと、裕翔はすぐに気づいた。飛燕の体をよじ登ろうとする童子無を、慌てて引き剥がす。


「わあっ、放せえー」


「童子無、ダメだ。この人は体が……その、ヒリヒリなんだよ」


 飛燕の顔が赤らむ。


「そ、そうなのですかっ……気が付かず、申し訳ございませんっ……童子無、飛燕様に謝りなさい」


「かまわん。……だが少し、疲れが溜まっているようだ。面倒事が増えたからな」


 飛燕にキッと睨まれる。


「面倒事で悪かったな」


「面倒事、お前を呼びにきたのだ。今すぐこれに着替えて外に出ろ」


「は?」


 なんだよ急にとムッとしたが、従うしかない。


 用意された服を着て外へ出る。よく晴れた空に鷹が飛んでいた。

 

 飛燕は裕翔を見るなり、「なんだその格好は」と咎めるように言った。


「なんだって……あんたがこれに着ろって言ったんだろ」


 飛燕は裕翔に近づくと、着物の襟を両手で掴んだ。躊躇いなくガバッと広げられ、ギョッとする。


「な、なにすんだよっ?」


「右のおくみが前に来ている。これは左衽さじんと言って、縁起が悪い」


 飛燕はそう言って、着物の合わせを逆にした。左の衽が前になる。


「そんなの……知らないし」


「左衽は死装束だ。これくらい覚えておけ」


「……わかった」


 丁寧な手に整えられて、落ち着かない。沈黙が気まずくて裕翔は言った。


「あんた、子供が好きなんだな」


「好きではない」


「……即答かよ。子供が嫌いな人間は、あんなふうに子供に付き合わないし、あんなデレデレしない」


「……子供が好きな人間は、あんな肥溜めに住まわせない」


 裕翔はまじまじと男を見た。物憂げな眼差しは、子供を思い遣ってのものだとわかる。


「あんた、優しいんだな」


「かもしれないな。お前を今から、佐了の元へ連れていく」


「え?」


 裕翔は死んだことになっている。佐了にもそう伝えたはずだ。


「お前を殺したと言ったら、反抗的な態度を取ってきた。あいつは甘やかされて育ったから、堪え性がないのだ」


 あの怯えっぷりだ。甘やかされて育ったようには思えないが、反論する気は起こらなかった。佐了に会いにいく……兎斗だとバレたらどうしようと、不安が芽生える。


「そう怯えるな。その体の傷さえ見られなければ、兎斗と気づかれることはない」


 こちらの不安を感じ取ったのか、飛燕が言った。


「本当のことを……言ったらダメなんだよな」


「言わない方がいい」


「……俺は、何のために、佐了の所に行くんだよ」


「裕翔」


 飛燕に初めて名前を呼ばれ、ドキッとした。


「あいつはお前を気に入っている。俺にしたように、あいつのことを抱いたのだろう」


「っ……最後までは、してないけど……」


 馬鹿な返しを、飛燕はクスっと笑った。


「あいつの気を引くことに成功した。少なくとも、殺すのは惜しいと思わせることができた。お前はあいつの秘密を知った。あいつは、本当はお前を殺さなくてはならなかった」


「それは……俺が兎斗に似ているから……」


「だがあいつは、お前を兎斗だとは思っていない」


 胸がギュッと締め付けられた。


「俺の、この体は、兎斗ってやつのものなんだろう……」


「昔はな。だが今はお前が入っている。だからお前の体だ。あいつはお前のことを『裕翔』と呼んだ。『裕翔のように殺してくれ』と」


 裕翔はハッと飛燕を見た。


「佐了が……殺してくれって、言ったのか?」


「お前を殺されたと聞かされて、よほど辛かったのだろう」


 その辛い感情に、恋愛感情が含まれていたら、どうしよう。


 自分は佐了に「好き」と言った。本心だった。美しい男に惹かれたのだ。


 でも、今同じことが言えるだろうか。この体が佐了の大切な弟のものだとわかった状態で……


 身勝手極まりないが、あの告白をなかったことにしたいと思った。それならまだ、関われる。顔向けできる。


「行くぞ」


 黒髪を隠すよう、頭に麻布を掛けられた。


「俺っ……やっぱり……」


「お前が生きているとわかればいい。今あいつは、お前が死んだと思って、取り乱している。そんな状態では外にも出せん」


 そう言われてしまうと、従わざるを得なかった。


 飛燕の後に続いて、佐了を監禁しているという蔵へ向かった。人目を避けてか、飛燕はけもの道のような足場の悪い道を進んだ。快晴が嘘のように薄暗い。


 薄暗い中でも、飛燕の真っ白な髪は目立つ。


 タンチョウ族なら、地毛は黒いはずだ。でも飛燕の白髪は艶やかで、人工的に作られたようにはとても見えない。それに、この世界にブリーチ剤のような強力な脱色用品があるとも思えない。


 ……飛燕は、地毛?


 でもそれだと、タンチョウ族の条件に当てはまらない。移動中は喋るなと言われたから、聞くこともできない。


 蔵の前に着くと、飛燕は「日が沈む前に迎えに来る」と言って、来た道を戻っていった。


 扉の前でひとつ深呼吸し、中に入った。


 中央の柱に、佐了は後ろ手にくくり付けられていた。ぐったりと項垂れている。眠っているのならそのままにしておこうと、裕翔は静かに腰を下ろした。


 サーっという気味の悪い音が、耳に入った。なんだろうと顔を上げる。さっきとは別の方角から……いや、そこらじゅうから、サーっと聞こえる。


「ひっ……」


「だ、誰だっ……」


 佐了がガバッと顔を上げた。怯え切った表情が、裕翔を見て驚きに変わる。締め切られた窓の隙間から差し込む薄明かりでも、彼の瞳が涙ぐんでいくのがわかった。


「裕翔っ……」


 感極まって、掠れた声。もしやと、裕翔は胸騒ぎがした。もしや佐了は、俺のことを……


「よかった……裕翔っ……無事だったんだなっ……」


 佐了は繋がれた上半身をグッと前に伸ばした。


「裕翔……お前が殺されたと聞いて……俺は人生を放棄したくなった。……俺も、お前が好きだ。お前を失いかけて気づいた」


 裕翔はゴクリと唾液をのんだ。


「今まで、どこにいた? あの人に酷いことをされていないか? ……もっと近くに来て、お前の顔を見せてくれ」


 佐了の両目から、ボロボロと涙が溢れた。罪悪感が膨らんでいく。でもそれ以上に、綺麗な男が自分のために泣いているという状況に、高鳴る気持ちを抑えられない。


「佐了っ……」


 体の傷さえ見られなければ、兎斗と気づかれることはない。飛燕の言葉を免罪符にして、裕翔は佐了に駆け寄った。


「裕翔っ……」


 佐了の小さな頭を抱え込む。傷んだ髪の手触りにハッとした。きっと脱色の過程で傷んだのだ。栗色にするのにも、これほど髪を傷ませるのなら……


 飛燕の髪は絹のような手触りだった。やはりあれは地毛だと確信する。飛燕は髪色を変える必要がない。……一体どういうことか。


「お前も、髪色を変えるように言われたのか?」


「え?」


「馬の臭いがする。あの人に馬の糞尿を被るよう、命令されたんじゃないのか?」


「糞尿を? ……どうして?」


「俺は、そうやって髪色を変えた」


「……飛燕は?」


 佐了は鼻で笑った。


「あの人にタンチョウ族の血は流れていない。あの人の白髪は生まれ持ってのものだ。それでタンチョウ族を名乗っているのだから、笑えるだろう」


 心底嫌っていることが、蔑むような口調から伝わってくる。


「……どうして。タンチョウ族って、自分の意思で入れるものなのか?」


「いや、あの人は墨汁で髪を黒く染められていたのだ。それでタンチョウ族と間違われ、拾われたと聞いた」


 なんだ……その話……


「縄、解いてくれるか」


 縄を解くなり、佐了に抱き締められた。


「裕翔……本当に無事でよかった」


 佐了が顔を寄せてきた。唇を重ねる。触れるだけのキスは、すぐさま舌を絡ませる濃厚なものに変化した。


「裕翔……」


 佐了は体を離すと、忙しない手つきで腰紐を緩めた。着物が華奢な肩を滑り落ち、ツンと尖った二つの突起が現れる。扇情的な光景に、裕翔はごくりと唾液をのんだ。


「触って、くれるか」


「っ……うん」


 裕翔は彼の体を押し倒し、それに吸い付いた。


「んっ……」


 佐了の体がびくりと跳ねる。反対側を指で弾けば、裕翔の背中に回された手が爪を立てた。


「あっ……」


 後ろの穴にも指を入れた。同時にイジられるとたまらないようで、佐了は艶っぽい声を上げながら、あっけなく達した。


 口に含んだ突起から、ビュッと甘い乳が噴き出す。


「んっ、あ、あっ、はあっ……」


 ……そんなことをしてもっ……意味はないっ……


 極上の甘味を味わっていると、ふいに、飛燕の言葉が頭に過ぎった。


 俺の胸にっ……価値はないっ……出ないっ……俺は、佐了のようにはっ……


 劣等感と罪悪感がないまぜになったような、欠点を詫びるような、悲痛な声だった。


 あの時、自分は何を思ったか。男の後ろ暗い感情を全て引き受け、男の存在を認めてやりたいと、身の程知らずな正義感を覚えたのではなかったか。


「ゆう……と?」


 佐了が怪訝な目を向けてくる。頭に浮かんだ男を知られたくなくて、誤魔化すように、佐了の胸を吸った。この世のものとは思えない甘美な味にも関わらず、それを味わう余裕は、裕翔にはなかった。

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