第15話

 一ヶ月近くここで生活し、凄まじい悪臭にもすっかり慣れた。佐了は起き上がると、側にいる馬の頭をそろそろと撫で、怜蘭れいらんが来るのを待った。

 あの日、佐了を逃した娼妓だ。太陽の当たらない、湿った馬小屋に身を隠すよう勧めてくれた。糞尿の中での生活は、臭いさえ我慢できれば快適だった。曽品そぴんという馬の世話人が食事を運んでくれるのだ。老年の彼は、息子を戦争によって亡くし、この国に憎悪を抱いていた。

 彼だけではない。比較的優雅な生活を送れる娼妓の中にも、佐了の行為を支持する者が少なからずいると言う。

 だが佐了が馬小屋に身を潜めていると知るのは、曽品そぴん怜蘭れいらんの二人だけだ。

 門の方から怜蘭れいらんがやってきた。彼女は接待が終わると、こうして馬小屋まで足を運び、戦況や、捜索状況を伝えてくれる。

 今日は何やら荷物を持っていた。

「佐了、外へ出られる目処が立ちましたよ。騎射に使われた馬が負傷したでしょう。明日、あの馬を都に出すそうなのです。だからあなたは馬と一緒に逃げて」

 騎射は貴族らの遊戯だ。

 怜蘭れいらんが手にしていたのは麻の作務衣だった。これなら街に溶け込める。しかし、

「ありがとう、怜蘭れいらん。しかし俺は、ここを出るつもりはない」

 怜蘭れいらんは丸い目を見開いた。佐了の意思を察してか、「いけません、そんな」と首を振る。

「罪人を標的に使うような人たちですよ。……捕まったらどんな酷い目に遭うか」

「そうなれば自決するまで。俺は一人でも多く殺したいんだ。ここで逃げたら一生後悔する」

「だるまにされた娼妓を知っています。あなたは残虐の限りを尽くされ、死ぬことも許されない」

 本気で佐了を心配する怜蘭れいらんに、お前はどうなんだと怒りを含んだもどかしさが湧いた。

怜蘭れいらん、俺を匿っていると知られたら、お前だって……」

「私のことは良いから、あなたは自分のことを考えて」

 そっくりそのまま返したくなる言葉だった。けれど佐了の口は、全く別のことを言っていた。

「酷いことを言って、すまなかった」

 あの日、子供がいると訴えた彼女に、佐了は「なぜ産んだ」と言った。「娼妓の子供が幸せになどなるものか」と。

「俺の母は娼妓だった。父は客だ。よほど俺が憎かったんだろう。早く戦場へ行って死んで来いと、お前の頭を見ると吐き気がするとよく言われた」

 母はいろんな男と寝たが、よりによって、一番嫌いな客の子供を産んでしまったと嘆いていた。カラスのような色の濃い黒髪で、種が特定できたのだ。

「俺の父は、娼妓の間で評判の悪い客だった。……だから、娼妓を憎んでいたのだろうな、俺は。お前たちが俺に悪感情を抱いていると勝手に思い込んでいた」

 天戯師てんぎしと娼妓は恋に落ちやすい。目の色を変えて賭博にのめり込む貴族らの中で、淡々と戦況を読み上げる天戯師てんぎしは、娼妓の目に気高く映るのだ。

 だが佐了は娼妓との接触を徹底して拒絶し、誘惑にも靡かなかった。

「……後悔している。怜蘭れいらん、もっと早く、お前と話していれば良かった」

 怜蘭れいらんの存在は知っていた。客のあしらいが下手な女。それ以上の印象はなかったが。

 娼妓のくせに、佐了が何気なく視線をやった時、彼女は恥じらうように俯いた。客が乳房を鷲掴み、着物から取り出していたのだ。だがそれが仕事。頬を染める彼女に、佐了は苛立ちを覚えた。それに豊満な胸は栄養が足りている証拠。黄亜の兵士が見れば、情欲よりもまず食欲が湧くだろう。(お前に欲情などするか)そんな暴言を腹の中で吐いた気がする。 

「私もです、佐了」

 佐了の強張った頬を、怜蘭れいらんは溶かすように撫でた。

 佐了は驚いて後退った。自分は糞尿まみれなのだ。そういう気後れも全て見抜いているような優しげな笑みを浮かべ、怜蘭れいらんはもう一度手を伸ばした。頬を撫でる彼女の手を、今度は拒まなかった。

「気づけばあなたを目で追っていた。天天を読むあなたの表情が、とても辛そうに見えたから」

 そんなふうに思われていたのか。上手く感情を殺せていると思っていたから、驚いた。

「この人に天戯師てんぎしは向いていない。いつかこの人は、心を壊してしまう。勝手に、心配していました」

 向いていない。自分が怜蘭れいらんに抱いていた印象と、全く同じことを思われていたのだ。

 言い当てられた。たったそれだけのことなのに、心臓がドキドキと激しく波打つ。

「佐了、あなたはよく頑張りました。これに着替えて、ここから逃げてください」

 怜蘭れいらんの指が頬を擦り、自分が涙を流しているのだと気づいた。女に涙を拭ってもらうなど情けない。わかっていても、拒めなかった。こういう献身的な優しさを、自分は喉から手が出るほど欲していたのだ。



 その夜、出発のために水を浴びた。厩舎裏の井戸は見通しがよく、身を隠すようなものはない。真夜中でも警戒しながら、サッと済ませて身体を拭いていた時だった。

「佐了」

 名前を呼ばれ、ハッと振り返る。見慣れた老人にホッと頬を緩める。

「なんだ……曽品そぴんか」

 身体を拭く佐了を、曽品そぴんはジッと見つめてくる。元軍人だ。男に裸を見られるのには慣れているが、それにしたってこんなにジロジロ見られたら落ち着かない。視線から逃れるように背を向け、「世話になった。曽品そぴん怜蘭れいらんには感謝している」と佐了は言った。……返事はない。じっとりと粘つくような視線を、背中に感じる。

 身体を拭き終わり、怜蘭れいらんから貰った作務衣に着替えようと手を伸ばすが、なくなっていた。

 曽品そぴんが持っていた。さすがに気味が悪い。

「……返してもらえるか」

 静かに訴える。しかし曽品そぴんは作務衣を持ったまま厩舎に入ってしまう。

 佐了は裸のまま、曽品そぴんを追って厩舎へ入った。曽品そぴんはスタスタと奥の小部屋へ行く。佐了が入ると、すかさず扉を閉め、板を掛けて外から開けられないようにした。パチリ、と電気をつける。

曽品そぴん、一体……」

 言いかけた佐了に、曽品そぴんは着物を投げ寄越した。

「逃げるなど、許さん」

 掠れてはいるが、強い声音だった。

「華族九人殺したくらいで、満足するな。殺せるだけ、殺せ」

 佐了の気持ちが切り替わるのは早かった。逃げることを、本当は受け入れられずにいたのかもしれない。

 曽品そぴんを見つめ、頷く。

「ああ、わかった。より盛大な宴の日、暴れよう。曽品そぴん、今後も世話を頼む」

 しかし曽品そぴんはゆるゆると首を振った。

「お前は男好きのする顔だ。体の線も細い」

 何を言い出す。佐了は怪訝に眉根を寄せた。曽品そぴんは佐了の左腕、銀色の義手へと視線を移す。

「両目、両腕に包帯を巻け。お前の特徴は目と腕だ。生まれつき目が見えないということにして、両目を覆え。腕は皮膚病と。さすれば、お前が逃亡中の天戯師てんぎしとバレることはない」

 ハッとし、着物をよく見る。品のない派手な柄。

「俺に、娼妓になれと言うのか」

「官吏を殺すのに都合がいい。曲者として忍び込んだとて、殺せる人数は知れている」

「しかし……」

 確かに娼妓になれば、より多くの官吏を殺せるだろう。だが女のフリなどできるだろうか。それも女官ではなく、男と間近で接触する娼妓など。

 それに佐了の特徴は、目と腕の他にもう一つ。それが一番の課題だと、佐了は思っている。

「この髪だ。俺は、これ以上に濃い黒髪を見たことがない。何を着ても、この髪で俺だとわかるだろう」

 曽品そぴんは佐了に近づくと、おもむろに手を伸ばし、ピッと髪の毛を一本引き抜いた。

「何をするっ」

 驚く佐了に、曽品そぴんは引き抜いた髪の毛を差し出した。わけがわからないまま、受け取る。

「……っ!」

 黒いはずのそれが、なぜか褐色だった。前髪に垂れる髪の毛をつまみ上げ、目を凝らす。それも褐色だった。

「どういうことだ……っ」

 説明を求めるように曽品そぴんを見る。

「馬の尿だ。お前はひと月馬の尿を浴びていた。色素が抜けたのだ」

 息を呑んだ。なんという珍現象。佐了は濡れた髪を触った。パサついて、ギシギシだった。これも馬の尿の影響だろうか。

「誰よりも黒い髪がお前の特徴ならば、それを失えば、お前は別人ということだ」

 佐了は鏡を探した。どうしても自分の姿を見てみたかった。キョロキョロと周囲を見回す佐了に、曽品そぴんが棚から取った銀色の壺を差し出す。

 佐了は屈み、壺に映った自分を覗いた。

 ワッと胸が高鳴った。小首を捻ったり、髪をつまみあげたりする。しっかり中まで色が抜けている。われ知らず口角が上がった。曽品そぴんが怪訝な視線を向けるが、佐了は気づかない。変色した髪を夢中で眺めた。

「もっと早く知りたかったな」

 呟きも無意識だった。

(この方法を知っていれば、母が俺を見るたびに嫌な思いをすることもなかったのに)

 それに気づいた瞬間、笑顔はスッと引っ込んだ。






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