伊千佳

 座貫の兵士として出征するにあたって、名を変えた。その前は、伊千佳いちかと呼ばれていた。


 遥昔、座貫の政治は謀反によって傾きかけた。謀反に関わった者の半数が、黒髪だった。当時の国王、永帝えいていは側近の裏切りに心を病み、宮廷にいる黒髪の男を一人残らず斬にした。女を殺さなかったのは、黒髪の女は美人が多かったからだ。


 しかしその判断が皇后の逆鱗に触れた。皇后の髪は亜麻色だった。嫉妬深い皇后は実の子を毒殺し、その罪を黒髪の待女になすりつけた。


 永帝は霊媒師を呼んだ。


「黒髪の男が国王の首を斬るでしょう」


 実の子を亡くし、すっかり心を病んでしまった永帝は、その言葉を真に受けた。


「黒髪は一人残らず斬首せよ」


 永帝の一声によって、国中が血で赤く染まった。黒髪の者は砂漠に逃れるしかなかった。過酷な砂漠で生きられるはずがないと、座貫軍は砂漠に逃げた者を追いかけはしなかった。


 過酷な砂漠で多くの死者を出しながら、しかし全滅だけは避けようと、黒髪の彼らは仲間の肉を喰らいながら、生き抜いた。それがタンチョウ族だ。国家を恨みながらも、領土の砂漠から出ることなく、時に人里に現れて殺戮を行う。以来、座貫は三百年にわたって、タンチョウ族の襲来に苦しんでいる。


 伊千佳は、物心ついた時には檻の中にいた。


「さあさあっ! よってらっしゃい、見てらっしゃい。世にも恐ろしいタンチョウ族の子供だよっ! 真っ黒な髪が不気味だろう。こいつを見たら災いが起こるよ。嫌ならそこの石を投げてごらん。ちゃんと当てられたら厄払い成功だっ! ただし一回銀餅ぎんぺい一枚!」


 与えられる食事は、七歳の子供には少なすぎた。常に飢えに苦しんでいた伊千佳には、頭を守ったり、うずくまる体力もなかった。


「禍罪の黒髪っ! 死ねっ!」


「なんておぞましいっ!」


 四方から硬い石が投げ込まれる。毎日その繰り返しだ。体に痛みがない瞬間はなかった。常に腹が空いていて、体が痛くて、寂しかった。


 タンチョウ族に襲われたのは、別の街への移動中だった。主人は首を斬られて即死し、荷馬車の中にいた伊千佳は若い男に見つかった。


「黒髪?」


 タンチョウ族の男は伊千佳を見て驚いた。


「なぜ黒髪が?」


「この子供は一体なんだ?」


 わらわらとタンチョウ族が集まってきた。


 伊千佳は胸がいっぱいになった。今まで檻の外から自分を見る目は、冷たいものしかなかった。こんなふうに、嫌悪感のない視線は初めてだ。


「かわいそうに。晒し者にされていたのだ」


「でもどうしてこんな所に、タンチョウ族の子供が?」


「逃げ出した妊婦が産み捨てたんだろう。育てる力もないくせに、我々から逃げるからこんなことになる」


 長い黒髪を高い位置でひとつに結った、若い男が言った。黒髪は災いをもたらすとして忌み嫌われているが、艶やかな黒髪は幼い伊千佳の目に美しく映った。男は顔も端正だった。鼻筋が高く、まっすぐ通っていて、切長の目は涼しげなのに鋭く力強い。檻の中から見てきた何よりも美しいと思った。


「黒髪の子供、我々と来い。ここはお前の住む場所ではない」


 黒髪の美しい男は、南京錠を片手でもぎり取った。檻の扉があっけなく開かれる。


 男は甲斐連がいれんといった。タンチョウ族は三百年の歴史の中でじわじわと人口を増やしていき、数十の班に分かれて生活していた。少ないもので数百人、多いものだと数千人。甲斐連は、父親の班から独立したばかりの、二百人の小部隊の長だった。


 砂漠で生活する彼らは暑さに強く、足腰が発達していた。


 伊千佳は檻の中で過ごしていたため、貧弱で、暑さに弱かった。


 そんな伊千佳を一人前の男にしようと、甲斐連は、本来なら十五歳で教える技術を七歳の伊千佳に教えた。


「いいか、この砂漠で生き抜くために、神が与えてくださった神秘の恵みだ。我々の第一子は、三十歳まで雌牛のように乳を出すことができる。忌々しい座貫の民は我々を滅ぼそうと躍起になったが、神は我々を哀れみ、我々に報復の活力を与えてくださったのだ」


 タンチョウ族の第一子は、男も女も乳を出す。あの噂は本当だったのかと、伊千佳は感動した。見世物小屋に来る客は、必ず「この子供に乳を出させろ」と主人に言った。その度に主人は、「乳は十五歳にならないと出ない」と答えた。


「女は取り合いになるから、お前はこいつの乳を飲め。この通り意識は遠方だが、感度はかろうじて残っている」


 すり鉢状の砂漠の底だった。虚ろな目の男が、全裸で横たわっていた。歳は二十代後半に見えた。


 甲斐連が男の肛門に指を入れ、動かすと、虚ろな目の男は悶え出した。


「よく見ておけ。お前には強くなって貰わねばならん。乳を飲めば、その貧弱な体も少しはマシになるだろう」


 お前もやってみろ、と言われ、それがどういう行為かもわからないまま、伊千佳は見様見真似で虚ろな目の男の肛門に指を入れた。


 男は「ううっ」と苦しげに声を上げたり、唇を噛んだりして、伊千佳を不安にさせた。


「甲斐連さま……痛がっています……」


「なら指の動きを変えてみろ」


 指の動きを変えると、虚ろな目の男はビクン、と跳ねた。


「わっ……」


 驚いて指を引っこ抜く。すがるように甲斐連を見れば、冷たい声で「続けろ」と言った。


「でも……」


「伊千佳、強靭な肉体がほしくはないのか」


「ほしいです」


「ならばやれ。こいつがどんな声を出しても手を止めるな」


「……はい」


 おっかなびっくり、伊千佳は男の肛門に指を入れ、動かした。男がビクビクと震えるのが怖くて、何度も甲斐連を見る。甲斐連は「続けろ」と言うだけで、やめさせてはくれなかった。


 一体、どれほどの時間、男を責めていただろう。男はひときわ大きくのけ反り、女のように悲鳴を上げた。


「よくやった。乳を飲んでいいぞ」


「え?」


 甲斐連を見れば、顎をクイっとしゃくって男の乳首を指し示す。


 伊千佳は半信半疑で男の乳首に吸い付いた。


「うんっ……」


 男がうめいたが、その時にはもう、伊千佳は濃厚な乳の味に夢中で、男がどれだけ苦悶の声を上げようと、全く耳に入らなかった。


 けれど甲斐連の「うまいか?」という問いはスッと耳に入って、伊千佳は弾かれたように顔を上げた。


「う、うまいですっ」


 口元を乳で汚しながらそう答えると、甲斐連は美しい顔でにこりと笑い、頷いた。


「好きなだけ飲むといい。三日経てば、そいつはまた乳を出す」


「は、はいっ」


 この人についてきて良かったと、心から思った。早く一人前になりたい。伊千佳は生まれて初めて味わう甘美な乳の味に陶然としながら、幼い指で男の乳首をこね回した。


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