第5話

 座貫はもとより海からの敵襲に備え、海岸に巨大な基地を構えていた。それは基地というより、都市と呼ぶ方がしっくりくるような、建造物の集合だった。軍人の家族のための住居や、独身のための遊郭まであるのだ。

 兵舎があるのだから、出撃の前日くらいは大人しく兵舎で寝ろと思うのだが、自由を奪えば士気が下がると思い、都室とむろがそれを注意したことは一度もなかった。

伊千佳いちか、その痣はなんだ。見苦しいぞ」

 しかし直属の部下の胸元に鬱血の痕を見つけ、つい怒りのまま口にしてしまった。

 だいたい、この栗毛の部下は将校のくせに軍服を左衽さじんにして着用する。座貫軍の軍服は紺色の袍服で、体全体をたっぷりと包み込むようにできている。都室とむろは規定通りに首元まできっちり前を合わせているが、伊千佳いちかは「暑いから」と前をはだけ、あろうことか右の襟を上にして合わせるのだ。これは、座貫では死装束の意味を持ち、縁起が悪いのである。

「誰も気にしません。昨夜は第二分隊で遊郭に行ったんです。みんな同じことですよ」

 都室とむろはため息が出そうだった。なんて緊張感のない部隊か。海に上がった遺体を検証すれば、たいてい酒を飲んでいた。座貫の兵士は、二日酔いで戦場に出るのだ。

都室とむろ殿も誘った方が良かったですか?」

 伊千佳いちかが真面目な顔で言うので、都室とむろは怒りを通り越して呆れてしまった。

「くだらんことを言うな。出撃前に遊郭などに行く指揮官がどこにいる」

 都室とむろは二十八歳の中佐で、二千人の麾下きかを持つ。現在、座貫軍は黄亜帝国からの攻撃を水際で食い止めている最中で、この戦いは四十年続いている。

 軍事力で言えば、座貫が圧倒的に優勢だ。けれどごく稀に、カミカゼと呼ばれる特攻攻撃を受けることがあり、これが厄介だった。

 それに海上での戦いに勝ったとしても、広大な砂漠に侵攻するのは躊躇われた。だからこのまま、海上での戦闘を続け、黄亜軍の兵力が尽き、撤退するのを待つ。それが座貫の戦略だった。

(だが、もう四十年だ。いつまでこんなことを続けるつもりだ?)

 都室とむろは歯痒さを感じていた。毎日毎日、敵は飽きることなくやってくる。十代の若者から、父親ほどの老兵まで、あの小さな戦闘機に乗って、命懸けで攻めてくるのだ。

「ハハ、都室とむろ殿でも冗談をおっしゃるんですね。出撃前に遊ばない指揮官などおりません。都室とむろ殿は生真面目すぎる」

 伊千佳いちかの言葉に、都室とむろは気分を害した。無視して、基地と母艦とを繋ぐ桟橋を進む。

 桟橋は数箇所から伸びており、下方では、任務を終えた兵士らが楽しげに基地へと降りていく。

「いいなあ、天気のいい日に休めて。花見でもするのかな」

 伊千佳いちかが呑気に言う。座貫軍は三交代制を採用しており、一度出撃すれば、二日の休みがもらえる。

 ふとその時、視界の隅で何かがカサッと動いた。手すりに蜘蛛がいた。まるで都室とむろの視線から逃れるように、手すりの裏側へいく。都室とむろが手を伸ばすと、蜘蛛は死んだように丸まった。

(こんなところに食い物はないぞ)

 なんとか蜘蛛を掬い取り、都室とむろは来た道を引き返した。背後から、「都室とむろ殿?」と伊千佳いちかの声がした。

 基地に降り立ち、目についた子供に声をかけた。子供は長髪の都室とむろの姿に目を丸くし、頬を赤らめた。軍人で長髪が許されるのは、士官学校を卒業した将校のみで、珍しいのだ。

「蜘蛛は平気か」

 都室とむろが問う。十歳ほどの少年は首を傾げた。

 都室とむろはしゃがみ、少年と同じ目線になると、手を開き、捕まえた蜘蛛を見せた。

 え? という顔で、少年が都室とむろと蜘蛛を見比べる。

「こいつをどこか、土のある場所に連れてやってくれないか」

 少年はますます不思議そうな顔で都室とむろを見つめた。今から人を殺しに戦地へ行くはずの軍人が、蜘蛛を救ってくれと言うのだから、無理もない。

 それでも少年はこっくりと頷き、都室とむろの手から蜘蛛を受け取った。

「ありがとう」

 笑いかけると、少年は釣られるようにはにかんだ。

都室とむろ殿っ!」

 そこへ兵士がやってきた。

「息子が何かご無礼をしましたか」

 少年は父親の帰りを待っていたらしい。駆けつけた兵士を見るなり、「父上っ!」と弾けるように笑った。けれど父親は、青い顔で都室とむろを見上げている。「どうかお許しを」と頭を下げる。

「謝るな。頼み事をしただけだ」

「蜘蛛を土のとこに連れてってって」

 少年が言った。父親が怪訝な顔をする前に、「そういうことだ」と言って、都室とむろは母艦へ歩を進めた。

(俺は何をしているのか……これから、人を殺しに行くというのに)

 強烈な自己嫌悪を感じながら、母艦に乗り込む。

 鉄板が外され、基地から母艦が離れた。都室とむろは振り返り、基地にいる親子を見た。少年は自慢げに、父親に蜘蛛を見せている。その光景は微笑ましくも、切なくもあった。都室とむろに父親はいない。父親は、都室とむろが五歳の時に、忽然と姿を消してしまった。

「蜘蛛なんか助けてどうするんです」

 いつの間にか伊千佳いちかが隣にいた。母艦は戦線へと出発し、親子の姿は遠のいていく。

「触れようとすれば逃げ、殺されまいと死んだふりをする。生命の意思を目にすると、どうしても放っておけなくてな」

 伊千佳いちかはじっとこちらを見ると、「人間はよろしいのですか。黄亜の兵士は」と、当然の疑問をぶつけてきた。

「彼らは生きていても辛いだけだろう。いっそ死なせてやった方が親切だ」

 黄亜の兵士を見ていると、生き地獄、という言葉が過ぎる。こちらが充分な休息をとっている間も、彼らは戦い続けなければならないのだ。交代の母艦が見えた時の、彼らの絶望は想像に難しくない。

「……ですね」

「一息に死なせてやれ。半端に痛めつけるなよ」

 都室とむろは甲板を横断し、前方へ行く。遠くの方に味方母艦が見えた。今も戦線では激しい戦闘が繰り広げられているのだ。

 母艦が戦線に近づく。海には戦闘機の残骸があちこちに浮いていた。座貫の戦闘機は少数だ。

 その中を一機、猛スピードで進む敵戦闘機があった。肉迫にくはく連絡れんらく爆艇ばくてい……通称迂迫うはくだ。都室とむろは思わず目を見張り、手すりを掴んで前のめりになった。

「カミカゼでしょうか」

 伊千佳いちかが呟く。都室とむろの目にもそう見えた。その迂迫うはくは、母艦を目指して突き進んでいるのだ。奇妙なことに、ハッチがなかった。激しい戦闘によって、失ったのだろうか。迂迫うはくは一人乗りのはずだが、それには二人が乗っていた。

「第二連隊は何をしているっ!」

 都室とむろは海に向かって叫んでいた。あの迂迫うはくを撃つ者はいないのか?

 まさか、交代が来たからと、全機、母艦に引き返したのだろうか。

「第二連隊は阿火あび将軍でしょう……あの人なら平気で持ち場を離れます。今までもそうだった」

 伊千佳いちかの言葉を最後まで聞かず、都室とむろは待機場へと駆けていた。

「総員っ! 発艦準備っ! 急げっ! 母艦飛鳥あすかを狙うカミカゼ発見っ! カミカゼだっ!」

 声を張り上げ、待機中の戦闘機、伏匐天下ふくふくてんげに乗り込んだ。その名の通り、乗馬のように、前傾姿勢で乗る。頑丈な素材でできており、銃弾が貫通することはほとんどない。急所は前面の格子窓だけだ。

(カミカゼ……まったく、ろくでもないものを持ち込みやがって)

 しかし、本物のカミカゼは飛行機だという。空を飛ぶ戦闘機……そう聞いても、都室とむろはピンとこない。この世界に、空を飛ぶ機体は存在しない。大気中に含まれる成分が、それを拒むからだ。

「第六連隊っ、総員っ、発艦準備っ! 準備ができたものは直ちに応答せよっ!」

 都室とむろが言う。甲板が下降し、海が迫った。

 全員の発艦準備を待っていられず、「伊千佳いちか、後の指揮は任せたぞ」と言い捨て、都室とむろは発艦した。

 捨て身の兵士ほど、厄介なものはない。体当たり攻撃など、都室とむろは想像するだけで恐ろしかった。敵に殺されるのはいい。「お見事!」と言って死ねる。だが、自ら死にいくなど、そんなの、納得できるはずがない。

(生き延びようと死んだふりをする蜘蛛の方が、よほど人間らしいではないか)

 二人を乗せた迂迫うはくは、ぐんぐんと母艦へ向かっていく。あの速さの原動力が、命を捨てる覚悟だと思うと、都室とむろは胸が引き裂かれるような苦しさを感じ、やるせなくなった。

(考え直せ……貴様らの国は、兵士の命など、虫ケラとしか思っていない)

 都室とむろは目一杯操縦桿を引いた。戦闘機があちこちに浮いていて、視界が悪い。ぶつかりながら追いかけた。

(なんて速さだ)

 銃撃するが、まだ届かない。

「くそっ……このままだとっ!」

 都室とむろは通信機を操作した。

「母艦飛鳥、応答せよっ! 飛鳥っ! カミカゼが接近中っ! 応答せよっ! 飛鳥っ! カミカゼが接近中っ! ただちに迎撃せよっ! ……くそっ! 平和ボケしてんじゃないっ!」

 一仕事終えた気でいるのだ。気付いたとて、気の緩んだ座貫の兵士に、あのカミカゼを止めることなどできないだろう。

 都室とむろは操縦桿を緩めた。減速し、完全に停まると、上部のハッチを開け、身を出した。

 二人の命が潰える瞬間を、この目に焼き付けるのだ。座貫の兵士の命も、多く失われるだろう。だがそれより、自らの命を投げ打ってでも敵艦に打撃を与えようとする二人の存在を、自分だけは覚えていたいと思った。

「……っ!」

 都室とむろは息を呑んだ。迂迫うはくの搭乗員が、ふいに前傾姿勢に立ち上がったのだ。後ろに乗っているもう一人は、変わらず身を低くしている。

 母艦に体当たりするかと思われたそれは、その直前で急旋回した。一瞬の出来事だった。弧を描くことなく、超小回りで船首の向きを変えたのだ。

 ドオオン、と爆音が轟く。母艦が大破し、鉄片や兵士がガラガラと音を立てながら激しく海に降り注ぐ。……だが、急旋回した迂迫うはくはすでに母艦に背を向けていて、その被害を受けることなく、遠く離れていく。

 昂り、体が震えた。敵軍の兵士の操縦技術に、感銘を受けたからではない。

「父、上……」

 かつて父親が見せてくれた旋回と、そっくりだったのだ。

(父上、生きておられたのですねっ……)

 その迂迫うはくを、数機の伏匐天下ふくふくてんげが追いかける。都室とむろは急いで操縦席に戻ると、命じた。

「あの迂迫うはくを攻撃するなっ! 撃つなっ!」

都室とむろ殿っ、何をおっしゃるっ! 第六連隊に告ぐっ! あの迂迫うはくを追えっ! 必ず仕留めよっ』

 伊千佳いちかの声が言った。

 都室とむろは加速し、伊千佳いちか伏匐天下ふくふくてんげを追う。彼の操縦は乱暴なので、船尾波でわかるのだ。

伊千佳いちかっ! 俺の命令を聞けっ! あの迂迫うはくを撃つなっ! 逃せっ!」

『お忘れですかっ! 今、この部隊を指揮しているのは俺ですっ! 第六連隊に告ぐっ! 俺に従えっ!』

 都室とむろ伊千佳いちかに追いつくと、その進路を妨害するように、体当たりしながら前に出た。

都室とむろ殿っ! 一体どうされたのですっ!』

「命令だっ! あの迂迫うはくを撃ったら、俺がお前を撃つっ!」

 母艦が崩れ、それによって生じた荒波に、都室とむろの艇は大きく傾いだ。


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