第2話
ボートレース丸亀には約二万人のファンが集まった。LEDの投光器がスタンドと水面を照らしている。ファンファーレが鳴ると、観客のボルテージが上がり、会場には選手の名前が飛び交う。
六艇がピットを離れると、解説者が選手を一人ずつ紹介した。「対戦メンバー一号艇田代直人、念願のSG初ブイなるか?」「二号艇長嶋光、去年の賞金王」「三号艇青山健斗、通算五百勝まであと二勝」
コース取りが済むと、大時計の12秒針が動き出すまで、ボートが前にいかないよう、後方に荷重を掛けて待つ。
健斗は暗い水面を見渡した。血がさわぐ、というのだろうか。身体の内側で熱いものが滾っている。
12秒針が動き出す。
ひとつ深呼吸し、ボートの中へ入った。ハンドルとスロットルレバーを握った瞬間、肉体が機体に取り込まれたような錯覚を覚えた。調子がいい証拠だ。健斗は適度な緊張と安らぎに薄く笑った。
顔はヘルメットで隠されている。観客はもちろん、健斗自身も、そうして自分が笑っているとは思っていない。
「優勝戦第12レース。進入インから一番二番三番、四番五番六番です。まもなくスタート。……一秒! 今スタートしていきましたっ! さあ好スタートはインから一号艇田代。三号艇青山も好スタートっ! 1マークへと向かっていきますっ! ……内から三号艇青山が差し込んだっ!」
スロットル全開。2マークで更に後続艇を突き放した。2周目1マークが迫る。減速しないまま、ボートは猛スピードでターンを決める。
観客は、レースは決着がついたとばかりに歓声を上げたり、落胆したりしている。
もうどんなに頑張ったって、誰も三号艇青山には追いつけない。二番手との差は四艇身もあった。
2周目2マーク。健斗はスロットルを全開に握ったまま、前傾姿勢で立ち上がる。恐怖心は皆無。全能感とやらを掴みかけている予感に、気持ちが高揚している。
飛沫を上げながら、旋回する。われ知らず、健斗は笑った。
これか。これが全能感。時空を支配している感覚か。
握る力が強くなる。減速するなど頭になかった。やっと手に入れたこの感覚を、手放すものかと思った。
3周目1マーク。全速ターンした瞬間、世界がぐるんと回転した。背中が冷たい水面にザブンと浸かる。勝負服の中に水が入り込み、健斗は頭が真っ白になった。
思考は停止しても、ハンドルは握ったまま。養成所では、転覆しても絶対にハンドルを離すなと指導された。後続艇はボートを避けるため、ボートの下が最も安全なのだ。
やがて救助艇が近づいてきて、「大丈夫かっ!」と切迫した声が聞こえた。
健斗は我に返った。ボートの下を移動し、水面から顔を出す。
「な……」
また、頭が真っ白になった。
空が青く、太陽が眩しいのだ。それに自分に手を差し伸べているのは、なんのコスプレですかと問いたくなるような、赤髪の男だった。褐色の肌には血のような……赤黒いものが付着している。
「何してる早くしろっ!」
わけがわからない。周囲を見回そうとした健斗を、そうはさせまいと男が腕を掴み、引き上げる。
けれど健斗の格好を見て、男は首を傾げた。男は筒袖の上衣にズボンを履いている。はだけた袷からチラリと見えるのは、鍛え上げられた分厚い胸板だ。
ビュンッ、と男の顔の横を素早いものが通過し、切長の男の目が、カッ開いた。男は慌ててハッチを閉める。そうして密室になると、これがボートではなく、戦闘機に近いものだと分かった。……なら、さっきのは銃弾か?
ゾワっと鳥肌が立った。一体何が起こってる?
カンカン、と銃弾が戦闘機に当たった。
カプセル型の戦闘機に窓ガラスはなく、正面が鉄格子となっていて、外が見える。一人掛けのシートがひとつ。けれどその後ろに空間があり、健斗はそこに膝をついて座った。
赤髪の男はシートに座り、左手でスロットルレバーを、右手でハンドルを握った。
(ボートと同じだ)
健斗は恐怖を忘れ、この機体に興味を持った。機銃桿らしきものもあるが、機体の操作はスロットルレバーとハンドルだけで行うらしい。ブレーキがないのも、ボートと同じだ。
「貴様何者だっ! 黄亜軍人ではないだろうっ!
ハンドルを操作しながら、赤髪の男が声を荒げた。視線は前を向いている。ガラス窓にゴツンと人間がぶち当たり、一瞬、視界が遮られた。赤髪の男が舌打ちし、ハンドルを大きく切った。
「何者かと聞いているっ! タンチョウ族かっ!」
気が立っているのは、怪しい健斗に対してというより、戦乱の中を進むのに気を張っているためだろう。赤髪の男はレバーを離すと、機銃桿を操作し、銃撃した。
ふと、師匠の見ていた絵を思い出した。あそこに描かれていた少年も、彼のような服を着てなかったか……
「日本人……です」
赤髪の男はチラリとこちらを見た。
「日本人?」
ガツン、と機体に衝撃があり、大きく揺れた。
「くっ……日本人、だって?」
赤髪の男はハンドルを大きく回した。狭い機内で、精一杯荷重を外側に掛けようと、上半身を傾けている。スロットルレバーは半分ほど余裕を持たせている。
健斗はゴクリと喉を鳴らした。あのスロットルレバーを全開にしたい。……危ない願望が胸に湧く。
「貴様、飛行機乗りかっ!」
鮮やかな赤髪が、彼が叫ぶのに合わせて揺れた。毛先が汗を散らす。
『それまでの価値観も、死生観も覆る』
師匠の言葉が脳裏を過ぎった。認めざるを得ない。ここは、あの速さを体感したものだけが超えられる境地、異世界だ。
「俺は……」
その時、ブシュッ、と不穏な音がした。あまり頑丈ではないらしい。貫通した銃弾が、機銃桿を破壊していた。
赤髪の男がそれを見て、息を呑んだ。どちらからともなく視線が絡み、二人は緊急事態を認識する。今は互いの素性など、気にしている場合ではないということも。
「日本人、残念だがここまでだ」
赤髪の男は唇を歪めるようにして笑った。髪にしか目がいかなかったが、よく見れば端正な顔立ちだ。意志の強そうな灰色の瞳は神秘的ですらある。二十代前半……ということはないだろうが、二十代であることは間違いない。若いが、彼の全身から放たれる妖気のような鋭いオーラは、実年齢以上の年功を感じさせた。
「まあ、あのまま海にいても同じことさ。恨むなよ」
健斗は怪訝に眉根を寄せた。彼の強気な表情に、諦めが滲んでいたからだ。
「いいや、違うな」
彼はそう言ってハンドルに向き直った。一気に加速する。
「貴様らの好きな万歳突撃だ。誇り高く潔く死ねることを喜べ」
健斗はそこでやっと、彼の考えを理解した。
「待てっ! 死ぬ気かっ!」
肩口を掴む。もう言葉遣いを気にしている場合ではない。それにさっき、目が合った時、彼とは分かり合えるような気がしたのだ。
彼は鼻で笑った。
「怖いのか? 貴様らが持ち込んだ文化だろうが」
キッと鋭く睨まれる。
「持ち込んだ?」
「特攻だ。貴様も零式艦上戦闘機に乗ってきたんだろう」
なんとなく、この世界に足を踏み入れる人間が、分かった気がした。
「俺はボートレー」
「ボート? ふん、なら本望じゃないか。これは、四式肉迫攻撃艇を参考に造ったものだからな」
「よん、しき? なんだって?」
「マルレと言わなきゃわからんか? 日本軍が使っていた特攻機だ」
「マルレ……」
わかった。四式肉迫攻撃艇。秘匿名「マルレ」か。
零戦ほど有名ではないが、人間兵器として実用化され、さまざまな戦線で使われた。自動車用のエンジンを搭載したモーターボートで、この機体のような
マルレと聞いて、健斗の胸は妖しく弾んだ。これはモーターボート。そして赤髪の男は知らないのかもしれないが、マルレは、特攻機として開発されたわけではない。当初の目的は爆雷を操縦者が海面に落とし、Uターンして帰ってくるというもの。
「機銃は壊れた。基地までは
彼はハンドルの側にある、銀色の装置を忌々しげに見つめた。
「……俺の動きは本部に把握されている。カミカゼをすれば、俺は二階級特進。親族の生活は向こう十年保障される」
銀色の装置はGPSというわけか。
「ぶつかる必要なんかない。敵に打撃を与えて戻ればいいんだ」
気に障ったらしい。彼はこめかみに青筋を立てた。
「確実に打撃を与えるには体当たりするしかないっ! そう決めつけたのは貴様ら日本人だろうっ! だから爆雷を積んでいるっ!」
「でも爆雷は切り離せるんだろ」
彼の灰色の瞳が、虚をつかれたように見開かれた。観察するように、じっと健斗を見つめ、静かに言った。
「切り離せば即座に破裂する。俺らも巻き込まれて終いだ」
「旋回時に切り離すんだ。遠心力でできるだけ遠くに飛ばす。そうして全速ターンで速やかにその場を離れる」
彼は舌打ちした。
「……簡単に言うな。誰が操縦すると思ってる」
「俺がやる」
健斗が言うと、彼の瞳に勇ましさと好奇心が宿った。それが失われないように、健斗は続けて言った。
「俺に操縦桿を握らせてくれ。敵艦に全速力で突っ込んで、減速しないで旋回する。失敗しても、敵艦に突っ込むだけだ。打撃を与えることはできる」
「できるもんならやってみろ」
それが嫌味でないことは、口元に浮かべられた狡猾な笑みでわかった。
「俺は
「青山健斗」
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