変幻自在◇異世界ボートレーサー

斜奪

俺はボートレーサーだっ!

第1話

 大会二日目。雨は降っていないが、ボートレース江戸川の水面は荒れている。ファンファーレとともに、六艇のボートが一斉にピットを離れ、コースを回ってスタート位置につく。一般戦だが観客は多い。青山健斗は六号艇、一番不利な六コース。それでもファンの期待は大きく、あちらこちらから自分を呼ぶ声がする。

「頼むぞーっ! 青山ぁーっ!」

「青山軸にして買ったぞーっ」

 波が激しく、ボートはその場に留まるのも難しい。大時計の12秒針長い針が動き出し、12秒前となった。健斗は左手でスロットルレバーを、右手でハンドルを握っている。

 六艇のボートのうち、四、五、六号艇は離れた位置からスタートする。そうしてスピードを乗せることで、有利な内側の艇をまくる抜かすのだ。

 ただ今日は水面が悪い。荒れた水面を全速力で駆けるには、いつも以上に恐怖が伴う。

 健斗はレバーを握り込めた。瞬間、世界はレースに用意された水面だけとなり、人々の歓声が意識から消えた。健斗の耳には、エンジン音しか聞こえない。スロットルを上げていく。スタートラインを六艇が一斉に通過する。健斗の六号艇が前に出た。他の艇は波を気にして、第一ターンマークが近づくと減速した。レバーを緩めずターンしたのは、健斗ただ一人だった。



 「通算500勝まであと12勝かあ。この調子なら今期中に達成できそうだな」

 レース終了後、整備場でエンジンを整備していると、同期の安田祐樹に声をかけられた。

 さっきのレースで、健斗は一着を獲った。デビュー五年目。この業界では若手の部類に入るが、健斗はすでに三つのタイトルを獲得し、去年は賞金王決定戦グランプリにも出場した。

 二十三歳の健斗は今、最も注目されているボートレーサーだ。

「すげえよ。同期はもちろん、十年に一人の逸材だって。さっきのレースもやばかった。全盛期の室町さん以上だぜ」

 室町綾都は、健斗が師事する元ボートレーサーだ。競艇ファンで彼を知らない者はいない。彼はボートの上に前傾姿勢で立ち上がり、外側に荷重をかけて高速旋回する「モンキーターン」を生み出し、それまでの「コーナーではスピードを落とす」という常識を覆した。

「……まだだ。まだあの人には追いついてない」

 健斗は沈んだ声で言った。勝っても満たされない。きっと今日のレースを師匠が見ても、「あれではダメだ」と一蹴するだろう。師匠は勝つことよりも走りを見る。今日の走りはダメだ。何がどうダメなのか、説明することはできないけれど。

「そりゃ選手期間が違うからな。でも通算勝率8点以上は室町さんを超えてるよ。今日だって六号艇で三番人気。あのメンツで大したもんだよ」

 師匠の勝率は全盛期でも6点台。それは一着と同じくらい、転覆して失格になる回数が多かったからだ。……それだけ、全速力でコーナーに突っ込んでいたということ。

「……何がそんなに気に入らないんだよ? 三分で十万獲得したんだぜ? ちなみに俺は第一レース六着。完走手当の八千円だ」

 安田はわざとらしく肩をすくめた。

「ま、お前は金じゃねえんだよな。俺もだけど……ってなあっ? お前、スリーブも交換すんのかよっ? そこは手え加える必要ねえだろっ! 十分だって!」

 健斗は気にせず、部品を交換する。安田は「やめろやめろ、せっかく調子いいんだから」とうるさい。

「よくない。もっと速く走りたいんだ」

 以前は、健斗も自分の実力を過信し、満足していた。不満は、師匠に認めてもらえないことだけだった。

 師匠はその走りをこう言った。

『まるで自分が時空を支配しているような感覚。この世の全てを掌握したような全能感』

 健斗は師匠に認められたい一心で、わかりもしないのにわかったような口を聞いた。その日はSGレースで優勝し、インタビュアーに「全国のボートレースファンが青山選手に注目しています」とおだてられ、調子に乗っていた。

『師匠、わかりましたよ! 全能感っ! 第一ターンで他の艇を突き放した時、俺っ、確かに感じましたっ!』

 あの時の師匠の冷たい目は、きっと一生忘れないだろうと思う。

『健斗、俺を失望させるな。あの境界を超えた者は、そんな腑抜けた目をしちゃいない』

 腑抜けた目だって?

 健斗はズンズンと距離を詰めた。

 確かに師匠はすごいレーサーだ。尊敬している。けれど半年前に無理な旋回で転覆し、大怪我を負って引退した。師匠が健斗に冷たく当たるようになったのはそれからだ。……健斗は密かに八つ当たりか、嫉妬ではないかと疑っている。

『二艇身差をつけて勝ったんですよっ! これの何が問題なんですっ! 師匠は転覆ばかりだったじゃないですかっ! 自分が勝てなくなったからって、俺の評価にケチつけないでくださいよっ!』

 師匠は顔色ひとつ変えなかった。ボートの並んだ装着場には他にも選手がいて、全員がこちらを見ていた。師匠は伝説のレーサーだ。生意気な若手の反論を、誰かが叱ってもおかしくはなかった。けれど「まあまあ」と間に入ったベテランレーサーは、健斗ではなく、師匠を咎めた。

『ムロちゃん、SGに出られるレーサーが一体何人いると思ってる。出たくても出られねえ奴のことを考えろ。こいつは今、そいつらの夢を独り占めしてんだ。みんなが羨ましがってる。俺だってな』

 認めてやれよ、そのベテランレーサーが師匠にかけた言葉に、健斗は思わず涙が込み上げてしまった。念願のSG優勝。どこがダメだと言うんだろう。何が足りないと言うんだろう。恨みがましく師匠を見れば、彼はやっぱり冷たい目で、こちらを見返した。

『レースの結果はよくやった。お前の実力は評価している。選手としてなら、俺よりも上だ』

 周りで聞いていた選手がみな、ハッとしたように息をのんだ。『室町さんが認めた』そんな言葉が聞こえてきたが、健斗は喜べなかった。

『選手として、ですか』

 ならこの人は、俺に何を期待しているんだろう。

『ああ』

『……あなたは、俺に、何を期待しているんです』

 師匠が歩んだ。胸がくっつきそうなほど、迫る。

 師匠は四十八歳。苦味のある美男で、危険な香りを好む女性に人気がある。結婚はしていない。あまりにも浮いた話がないので、一時はゲイという噂も流れたが、どうも心に思う女性がいるらしいと判明した。彼は一枚の絵を、肌身離さず持っている、と。

 その絵には妻子らしき二人が描かれていて、子供は五歳くらい。妻は息を呑むほどの美人で、子供は師匠に似て陰のある美男だという。けれど二人の姿を見たものはいない。『亡くなったのか』酒の席で誰かが聞けば、師匠は『生きてる』と答えたらしい。『遠い国で、俺の帰りを待っている。早く帰ってやらなければ』と。

 師匠にジッと見つめられ、身体がこわばる。師匠が剣呑な気を放てば、誰もがこうして萎縮する。修羅場に慣れたヤクザでさえも、師匠の眼光には敵わない。一体師匠はその隙のない面構えを、どうやって手に入れたのだろうか。

『俺と同じ走りをしてみろ。俺が優勝した、十五年前のグランプリだ。あの速さを体感した者だけが超えられる境地に、お前なら行ける』

 お前なら、という言葉に胸が弾んだ。やはり自分は期待されている。喜びと、歯痒さ。師匠の言葉は曖昧でわかりづらい。

『あの速さの先へ行けば、世界を見渡す力が手に入る。それまでの価値観も、死生観も覆る』

 周りにいた選手らの顔つきは、『こいつおかしい』という冷ややかなものに変わっていた。健斗は気の毒に思われているかもしれない。

 けれど師匠の真剣な眼差しに、健斗はすっかり魅了されてしまった。師匠の期待に応えたいと思った。彼の言葉のほとんどは理解できなかったが、自分がやるべきことははっきりしていた。

(速く走る。誰もついてこれないほど。師匠の体感した速さを手にいれる。俺がやるべきことは、それだけ)

 エンジンの整備が終わり、健斗はプロペラの調整に移った。

「お前には勝てる気がしないよ」

 安田がため息まじりに言って去っていく。

 健斗は木槌でペラを叩いた。魂を削るように、ひたすら。



  ボートレース丸亀。快晴、凪いだ水面は陽光をキラキラと反射している。スタンドに客はいない。まだ営業前というのもあるが、この日のメインは夜間に行われるSGレースだ。多くの客は、それに合わせて来場する。

 水面を見渡せる外スタンドに、師匠の姿はあった。健斗は近づく。来てくださったんですね、そう声をかけようとして、ためらった。

 師匠は写真サイズの絵を見ていた。

「奥さんとお子さんですか」

 背後から声をかけると、師匠はハッと振り返った。不意打ちだからか、師匠の眼差しに剣はなく、こちらが戸惑ってしまうほど優しげだった。

「ああ」

 寂しげに笑い、師匠は絵に視線を戻した。許されたような気になり、健斗は隣へ行き、絵を覗き見た。綺麗な女と、可愛らしくも意思の強そうな少年が描かれている。……変わった服装だ。少年は筒袖の、丈の長い浴衣のような上衣に、裾を絞ったズボンを履いている。女はくすんだ赤色の着物だ。日本の時代劇で見るような服とは違う。どちらかといえば中華系だ。観光地で描かれたものだろうか。

「モーターは何を引いた」

 健斗がかける言葉に迷っていると、師匠が言った。レースに使うモーターは大会前日に抽選で決まる。モーターには性能差があるため、抽選結果はレースにも影響を及ぼす。

「一番良いものを引きました」

 師匠は頷いた。

「今日の水面はいいな」

 師匠は絵を財布の中に丁寧にしまい、水面を見た。

「テクニックも相棒ボートも一流なら、あとは気持ちだ。健斗、フルスロットルで旋回しろ」

 師匠には別の景色が見えているのだろうか。遠くを見つめながら、彼は言った。穏やかな表情には諦めと、どこか吹っ切れたような清々しさがあった。

 全能感というには大袈裟だが、それに近いものを健斗は感じていた。全身が活力に満ち、血液が昂っている。速く走りたい。今日こそは。健斗は水面を眺めながら、「はい」と答えた。

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