【四月一日(わたぬき)の嘘】

夢咲咲子

第1話

「アタシ、弥生やよいくんと付き合う事になったんだ」

 桜色に染まる頬。濡れた瞳が春の日差しにきらきら揺れている。恋する乙女の顔はあまりに美しく、忌々しかった。




 春休み、二人で遊びに行った帰り。ずっと何か言いたげだった親友の突然の告白は、わたしにとって青天の霹靂へきれきという訳でもない。わたしはずっとわたし達の頭上に立ち込める暗雲に気付いていた。それでいて何もしなかっただけ。

 これは単に三角関係の一つの結末だ。登場人物はわたし、わたしの幼馴染の弥生、そして高校で出会い一番の女友達になった皐月さつき


 わたしは幼馴染と親友を同時に奪われ、淡い初恋まで断たれてしまった。


「それでね、あの」

 言い淀む皐月。彼女はわたしと弥生の関係がかけがえのないものだと知っていて、その上で彼との関係を認めて欲しがっている。ずるい女の子だ。


(これはエイプリルフールの嘘、じゃないよね……)

 その日は四月一日で、もしかしたら嘘かもしれない、嘘だったら良いのに、とわたしは願った。けれど馬鹿正直な皐月はエイプリルフールだからといって人を騙そうという発想さえないだろう。可哀想なわたしだけが、嘘つきになる。


「へえー。皐月ってあいつが好きだったんだ? あーあ残念。皐月はわたしが狙ってたのになあ」

 心を見透かされないよう笑って誤魔化す。何とか「おめでとう」を絞り出すと、皐月の強張っていた顔がほっと綻んだ。


 ――四月一日、わたしは失恋した。




 高校二年の一日目が始まる。連休明けはいつも憂鬱だが今日は間違いなくわたし至上最悪だ。学校が始まれば嫌でも弥生と皐月の二人と顔を合わせなくてはならない。


(クラス替え、別々になりたいな)

 わたしは重い足取りで学校へ向かう。桜はすっかり散りアスファルトの上の絨毯となっていた。踏まれて汚れた花弁が痛々しい。そんな切ない花見をしていると、前方から今一番聞きたくない声が聞こえてきて、わたしは顔を上げる。


 ひょろ長い弥生と小柄な皐月。わたしの少し先で対照的な二人が肩を並べて歩いていた。毎日遅刻ギリギリの弥生と早起き女王の皐月が偶然一緒になる筈が無い。早速待ち合わせでもしたのだろう。皐月は丸い頭を懸命に傾げ弥生を見上げている。大きな口を開けて笑う彼女に、弥生は照れくさそうに頭を掻いた。肩越しに見えた彼の優しい眼差しは知らない男の様で、わたしは勝手に裏切られた気持ちになる。

 二人の指先が触れ合い、びくりと揺れ、ぎこちなく繋ぎ合った。


 心が軋む音。

 わたしはそれを見た瞬間、走り出していた。一瞬たりともその場に居たくなくて、消えてしまいたくて、通学路を逸れ適当に走る。追いかけてくる人なんて居ないのに必死に逃げていた。


 ローファーの靴裏が柔らかい土の感触に変わる。ハッとして辺りを見回すとそこは知らない小路だった。未塗装の地面。両側に聳える木の壁。板に石が置いてある変な屋根。なんだか、タイムスリップしたみたいな雰囲気。


(こんな道、学校近くにあったかな?)

 不安になり、元の道へ戻ろうと踵を返した時――


「うわっ」

 小石につまづき盛大に転んだ。咄嗟に近くのロープの様な物を掴むが、ブチッと切れてしまう。顔を庇って突き出した手と膝がザリリと地面に削られた。ジンジンする痛みと湿った感覚のあるそこに恐る恐る目をやると……傷口がザクロみたいになっている。おまけに青痣まで出来ている。


「うそぉ」

 最悪だ! こういうのなんて言うんだっけ。泣きっ面に蜂か。

 ポタリと冷たいものがわたしの頬を打つ。涙じゃない。雨だ!


 ポツポツ小ぶりだった雨は瞬く間にザーザー降りになる。泣きっ面に蜂っ面に……更に何? どこまで追い打ちをかけてくるんだろう。弥生は常に折り畳み傘を持っているから、二人は今頃小さな傘で相合傘だろうか? わたしは一人、路地裏で膝を擦りむいて雨にびしょ濡れ。こんな惨めな事ってある?


「はは、信じらんない」

 エイプリルフールのあの日からずっと悪夢が続いているみたいだ。ただの夢で嘘だったらどれだけいいか。


「じゃあ嘘にしちゃおう」

「えっ?」

 突然話しかけられ、心臓が止まりそうになる。


 わたしのすぐ後ろ、着物姿の少年が気配も無く立っていた。同い年にも年下にも見える年齢不詳の顔立ち。肩まで伸びた小麦色の髪は少女の様だが、細長い手足と薄い体は少年特有のもの。黒い瞳はどこまでも、深い。


(なんで着物なんだろう? コスプレ?)


 少年は気持ち良さそうにぐーっと伸びをする。


「はーっ。まずはお礼を言わないとね。君が封印を解いてくれたお陰で、僕は自由になれたんだから」

「ふういん?」

 不思議な少年が、不思議なことを言う。少年がわたしの手元を指差した。そこには先程掴んで千切ってしまったロープ。何やら紙札が括り付けられている。まるで悪霊を封印していたお札みたいな。


「本当に有難う。そしておめでとう!」

「な、何が?」

「僕は泣く子も黙る大妖怪、四月一日わたぬきだよ。助けてくれたお礼に君の願いを叶えてあげる」


「なんだ夢か」

 と現実逃避するわたしの頬をワタヌキが勝手につねった。痛い!


「ほら、夢じゃないでしょ? でも嘘にはできるよ。怪我も雨もね」

 少年がパチンと指を鳴らした。その瞬間、わたしの視界は真っ白になる。


「君を幸せな世界へ連れて行ってあげる。さあ、優しく甘い嘘をたんと召し上がれ」







 気付くとそこは朝のざわめきに満ちた校門だった。不思議な小路も少年の姿も無い。立ち尽くすわたしに、煩い位元気いっぱいの声がかけられた。


「オハヨ!」

 皐月。そしてその隣には弥生。わたしはびしょ濡れで怪我している姿を見られたくなく、振り返れなかった。けれど。


「あれっ!?」

 制服は少しも濡れていないし怪我一つない。なんで?

「どうかした?」と覗き込んでくる皐月。甘い空気が漂う。弥生はといえば、何故か傘を逆さに持っていた。先端の短い部分を器用に掴んで。


「……何で逆さにしてるの?」

「ん? アメなんだから当たり前だろ」

 妙なイントネーション。わたしは自分の頭や肩を打つソレを。……確かに飴だ。ご丁寧にキャンディ包みになっている。周りの生徒達も弥生と同様に傘を逆さにして、誰が一番多くゲットできるか競っていた。甘い空気の正体はこれだったのか。


「何で飴が?」

「春先って突然降ったりするから大変だよね!」

 皐月がポカンと開いたわたしの口に飴を放り込んでくる。甘酸っぱいレモン味だ。


「さっ! クラス替え発表見に行こ! 今年も三人一緒だったらいいね!」

「そうだね」とわたしの口が利口ぶる。結局皐月の望み通り、わたし達は同じクラスになった。



 休み明けの教室は清掃用ワックスのにおいがする。身の回りに起きた不思議な事について考えていたら、いつの間にか始業式は終わり一限目が始まっていた。


「春休みの宿題、後ろから集めるぞー」

(あー……すっかり忘れてた)

 皐月と弥生の事で頭がいっぱいで、宿題どころではなかったのだ。どうしよう? この数学教師は嫌味で短気、一言で言えば最悪な奴。絶対これみよがしに怒鳴られる。案の定、目敏い教師はわたしの名を呼んだ。


「おい、まさか忘れたんじゃないだろうな?」

(最悪~! 怪我みたいに宿題も無かったことになればいいのに)


『じゃあ嘘にしちゃおうよ』

 耳元で甘く囁く、姿の無い誰か。その声には悪魔じみた響きがありわたしはゾクリとした。


 そしてわたしの口が操られるように、勝手にそれを紡ぐ。


「宿題なんて――初めからありませんでしたよ?」

「はあ? 何をふざけて……」

 教師の表情がスッと消える。次の瞬間、彼は受け取ったプリントをバッと両手で放り捨てていた。


「大・正・解! そうで~す! 宿題なんて本当はありませ~ん。真面目な人は馬鹿を見る~!」

(は……?)

 わたしは何が起きたか理解できず呆然とする。本当は理解しかけていた。


 生徒達は何故か不満一つ漏らさず「なんだあ」と笑っている。教師はヘラヘラ顔で「この時間は自習で~す」と出て行ってしまい、教室は一気に解放感に包まれた。席の近い弥生と皐月がわたしを巻き込んでお喋りを始める。


「自習なんてラッキーだね! コンビニ行っちゃおうよ!」

「あ、いいな。俺アイス食べたい」 

 飴も宿題もこの二人は全く気にならないらしい。恐ろしい程いつも通りだ。わたしは二重の孤独を感じ「ちょっとトイレ!」と教室から飛び出す。



 ――授業中の静かな廊下を、どこかに居る筈の誰かを探して彷徨った。


「ワタヌキ、居るんでしょ?」

 気恥ずかしさを耐えながら宙に声を掛けると、少年はどこからともなく姿を現す。


「呼んだ?」

「さっきの、あなたの仕業? 飴も先生も。おかしなことばかり」

「おかしいことなんてないよ。この世界はそういう世界なのさ」

「……この世界?」

 ここはわたしの知る世界ではないのだろうか? わたしは突然少年が恐ろしく思えてきて、彼の気分を損ねないよう慎重に語り掛ける。


「あの、元の世界に戻して欲しいんだけど」

「ふふ。戻せなんて嘘ばっかり。君は嘘つきだね」

「どういうこと?」


「ここは君の望みが叶う、君にとって理想の世界。君が口にした嘘が本当になるんだ。こんな都合の良い世界から帰りたい筈ないよね?」

(嘘が本当になる?)

 それはどういうことかと訊こうとしたが、もうワタヌキの姿はそこに無かった。

 ここまで来たら、彼が人智を超えた存在だというのは疑いようもない。ワタヌキは何の為にわたしをここに連れて来たのだろう? まさか本当にお礼のつもりで?


「おい、何してるんだ? トイレじゃなかったのか」

 慣れ親しんだ声の方を見ると、コンビニのビニール袋を提げた弥生が居た。「皐月は?」と訊くと、どうやら戻りの遅いわたしを探しに行ったらしい。

 わたしは力が抜けてその場にへたり込んでしまった。弥生がギョッとして駆け寄ってくる。


「どうした? 具合が悪いのか? 保健室に行こう」

 わたしの腕を引いて背におぶろうとする彼。いつも素っ気ないくせにいざという時は優しい。なんだ、こっちの世界の弥生も弥生のままじゃないか。


「駄目だよ、もう他の女の子にこういう事しちゃ。皐月と付き合ってるんでしょ?」

「それはそうだけど……」

「皐月のこと、好きだったんだね?」

「まあ、うん」

 触れている背中が熱く、その耳が真っ赤に染まる。わたしは心がすっと冷えていくのを感じた。『さあ』と耳元で少年が囁く。わたしの口が、願望を紡ぐ。


「それ、実は嘘だったりしてね。皐月のことなんて……なんとも思ってないんじゃない?」


 弥生の赤かった耳が、頬が、すっと色を潜めた。



 ――やってしまった。

 教室に戻った弥生の皐月に対する態度はあからさまに冷たいものに変わり、理由の分からない皐月は狼狽えるばかり。まさかとは思ったが、わたしの言葉が弥生の皐月に対する想いを嘘にしてしまったのだ。


 わたしは休み時間の度に少しずつこの嘘の力を検証してみた。「5キロ痩せた」と言えば気になっている太腿がキュッとなったし「お小遣いが増えた」と言えばお財布が重くなった。きっとテストもオール満点で、ゲームは負け知らずになれるだろう。なのに全然楽しくない。


「アタシ、何かしちゃったかなあ」

 お昼休み。皐月は弁当も広げず机に項垂れる。彼女を慰める資格などないわたしがその頭を撫でると、皐月は大きな目に涙をいっぱい溜めてわたしを見上げた。心が、重い。自分の都合で皐月を悲しませていることへの罪悪感がわたしを苛む。


『なんで? 別にこれでいいじゃない』とワタヌキじみたわたしが囁いた。どうせわたしの嘘に負ける程度の想いだったってことでしょ? あとは皐月の恋心を書き換えるだけ。そうすれば彼女もわたしも苦しまずに済む。


 なのにわたしはどうしてもそれが出来なかった。


 昼休みが終わりすごすご席に戻る皐月。それを複雑な気持ちで眺めていると……


「ハイハイ皆さーん! 五時限目は道徳の時間としますっ」

 教室に飛び込んできた少年。それは紛れもなくワタヌキなのだが、着物ではなく灰色のスーツをお堅く着込んでいた。何故か眼鏡までかけている。唖然とするわたしの横で佐藤さんが「せんせー、道徳なんて時間割に無いけど?」と言った。せ、先生?


「無くてもやっちゃうんです。先生、自由だから」

 ワタヌキ先生はニコニコだ。わたしはドキドキする。妖怪の授業って何だろう?『皆さんには殺し合いをしてもらいます!』とか言い始めたらどうしよう。


「さあ。これから皆さんには――ディベートをしてもらいます」

(はい?)

 ディベートとは、特定の論題に対して肯定と否定の立場に別れ、議論すること。ワタヌキは黒板に大きく議題を書いた。



 “嘘をついてはいけないのか?”



「なにそれ小学生みたい」と誰かが馬鹿にする。

「人間の根本なんてそう変わりはしませんよ。それに、君達の中にはこれに悩んでいる子も居るみたいですからね」とワタヌキ。その目は私を見ていた。


 ワタヌキの独断によりわたしと弥生は『嘘をついていい』側に、皐月は『嘘をついてはいけない』側に分けられた。まずは相手側の立論から始まる。


「僕達は嘘をついてはいけないと考えます。嘘は信頼を失わせ、人々の関係を壊す可能性があるからです。正直さや誠実さといった美徳も損ないます」


「しかし、嘘は時に必要な場合もありますよね? 例えば、対人関係を守る為に嘘をつくこともあると思いますが、それもいけないのでしょうか?」

 弥生による否定側質疑。すると、彼に対してモヤモヤを抱えていた皐月が勢いよく立ち上がった。


「どんな嘘でも嘘は駄目だと思います! だって人を傷付けるから!」

 彼女の幼稚ともいえる真っ直ぐな言葉はわたしを追い立てる槍の様で、わたしは思わず言い返す。


「じゃあ皐月は可愛くない子供を自慢されたら『可愛くない』、綺麗じゃない花嫁には『ブス』って言うのね?」

「そ、そんなコト言ってないでしょ」

 わたしの反論が意外だったのか皐月が鼻白む。「じゃあサプライズは? 嬉しくね?」と便乗するこちら側。荒れる議論にワタヌキは「コラコラ君たち」と心底楽しそうにしている。


「せんせー! 時と場合によって嘘をついていいってのはナシなの?」

「ナシですね。ディベートになりませんから」


 この少年、意外と真面目なのだろうか?

 しかしろくにルールも知らず説明もされていないわたし達では、ディベートはすぐにフリートークと化す。


「そもそもなんで嘘は駄目なの?」と茅野さん。

「嘘がまかり通るようになれば約束事や保証が無意味になる。自分勝手な人の所為で社会が成り立たなくなるよ」と山本くん。

 わたしの後ろめたさが刃に変わる。


「じゃあ、この中で嘘をついたことがない人は?」

 教室がシーンと静まり返った。ほらみろ。


「おかしいよね。嘘はいけないと言いながら皆、嘘をついてる。それって社会は嘘無しに成り立たないってことじゃない? わたし達に嘘は必要なんだよ」

 誰もが口を噤む。しかし馬鹿正直で純真無垢な皐月は違った。


「でも嘘が良いってことにはならないよ! 嘘なんて意味ないもん」

 皐月の言葉がわたしを貫く。言い返す言葉なんていくらでも浮かびそうなのに何も出てこない。これは議論ではなく裁判だったのだろうか。正直者が嘘つきを糾弾する為の。


「無意味な嘘なんて、それこそ無いんじゃないか?」

 弥生が皐月に冷たく言い放ち、泣きそうなわたしを安心させるよう微笑みかけた。今朝皐月に見せたあの顔で。クラスの誰かが口笛で冷やかす。皐月はわたしと弥生を見比べ、表情を曇らせた。


「二人とも、アタシに何か隠してる?」

「皐月、それは誤解、」

のことはお前には関係ないだろ」

 わたしの言葉を遮る弥生。最初は捨てられた猫みたいだった皐月の目に、徐々に激しく炎が燃えるのを見て、わたしは焦った。キレた皐月はお風呂で暴れる猫みたいに手が付けられない。


「皐月、とりあえず落ち着いて。弥生もちょっと黙ってて」

「うるさい! 指図しないで! アタシ、あんたのそういう大人ぶったところ嫌い!」

 ――なんで皐月はいつもこうなんだろう。自分の感情に正直で周りなんて気にしない。わたしを、かき乱す。


「いつも本音を隠してばっかの、ずるいところも嫌い! やっぱりあんたも弥生くんが好きなんでしょ? それなのに『おめでとう』なんて……嘘つき!」

 突然の修羅場に教室は湧き上がった。一番楽しそうな笑い声をあげているのはワタヌキだ。わたしは羞恥と怒りと悲しみで何が何だか分からなくなる。楽になりたい、逃げたい、逃げ出したい!


「皐月なんて、」


 ああ、だめ。止まってわたし。


「皐月なんて知らない! 消えちゃえ!」


『チチンプイプイ』

 場違いなワタヌキの声。彼が教鞭を振るうと、次の瞬間そこに皐月の姿は無かった。


「あ、さ、皐月が……」

「さつき? 誰だそれ」

 首を傾げる弥生。わたしは耐えられなくなり教室を飛び出した。それを見てワタヌキは満足げな笑みを浮かべる。


「自分勝手で脆弱。人間は、やっぱりこうじゃないとね」




 ――遥か昔、四月一日は人々の心に春の安らぎを与える神であった。冬の間、寒さや飢餓に苦しむ人々に春の夢を見せ、不安や恐れから心を守る優しき神。

 四月一日に縋り生きていた人々はある時、旅の僧侶に諭され、現実と向き合わねば問題の解決に至らぬと気付く。そして人々は四月一日を村から追い出し、自ら辛く苦しい現実を選んだのだ。

 

 愛し守ってきた人々に裏切られた四月一日は、自分を嘘つき呼ばわりした人間を憎むようになった。そして心の弱い人間を甘い嘘でかどわかし、その魂を喰らう妖怪となった彼は、数百年前とある高僧により封じられた。


 四月一日が封じられていた“狭間の小路”には、迷える魂が時折やってくる。少女もその一人だった。現実に傷付けられた弱く哀れな生き物。嘘を、自分を必要とする可哀想で可愛い人間。


 四月一日は少女を標的とした。







 カツン、カツン。廊下に足音が響く。それは悪魔か死神か。救いようのない愚かなわたしを、少年がわらう。


「教室を飛び出すのが好きだね。嬉し泣きかい?」

「……皐月を返して」

「何言ってるの? 君が望んで彼女を消したくせに」

 それは違う! と叫びたいのに声が萎んだ。心の奥に眠らせた真実ほんとうに触れようとすると、擦りむいたばかりの傷みたいにジクジク痛む。


「わたしは……皐月に居なくなって欲しいなんて、思ってない」

「ハイ、それは嘘だね。だって彼女は君の恋敵だったんでしょ」

 ワタヌキの姿が魔法みたいに光って弥生に変わった。優しい微笑みが、甘い吐息が、わたしの決意を揺るがそうとしている。


「泣くなよ」

 弥生がわたしの頬に手を添え、その顔を近付けてきた。


「わたしは……」

 声が掠れる。重い真実が喉に詰まる。でも言わなくちゃ。じゃないとわたしはもう二度と、あのやかましい笑顔に会えない。……残念ながら何か勘違いをしているこの大妖怪に、盛大な“真実ほんとう”をかましてやらなければ!


「わたしはっ!」


 頑張れ、わたし。頑張れ!


「私が好きなのは――皐月なの! 出会った時からずっと――あの子が大好きなの!」

「えっ、うそ!?」


 ようやくだ。ようやくそれを口に出来たわたしは、じんわり胸に広がる悲しみを受け止める。


「ほんと! だから、こんな嘘の世界は要らない!」

 

 ピシッと皹が入ったような音。真実が、嘘の結界を破る。

 白んでいく世界で、多分わたしは勝ったのだと思った。ワタヌキに。自分自身に。


「なあんだ。ただの人間かと思ったら天邪鬼だったとはね。あーあ、すっかり騙されちゃった。……君にも、ぼくは必要なかったんだね」

 ワタヌキはすっかり元の姿に戻り、つまらなそうに白い世界をプカプカ浮いている。


「……わたし、やっぱり時には嘘も必要だと思う。でも……自分に嘘をつくのだけは、いけないと思った」


 わたしが皐月についた『おめでとう』という嘘。そして――誤魔化し笑いで冗談にしてしまった“本当の気持ち”。一連の出来事は、自分の心を蔑ろにして傷付けたわたしへの天罰なのかもしれない。罰にしては優しかったけれど。


「ワタヌキ、有難う。お陰で現実に向き合う覚悟が出来たよ」

 その丸い瞳に見守られながら、わたしは光に包まれた。



「……なんで人間はそんなに真実ほんとうにこだわるんだろうね? 僕にはサッパリ理解できないよ」







 ――蘇る膝の痛み。水を吸った制服が重い。気付けばそこは朝の見知った通学路だった。雨の中遅刻ギリギリで学校に着くと、皐月に心配され、弥生には呆れられながら、保健室で手当てを受ける。皐月と弥生の仲睦まじい姿を見るのは勿論辛いが、気持ちを吐き出せた今はさっきまでより少しだけ楽だ。ジャージに着替えて席に着き、雨の降る外を眺める。何だか長く不思議な夢を見ていたみたいだ。


 ガラガラと扉が開き、担任が入ってくる。誰かを引き連れて。


「ゴホン。えー突然ですが、転入生を紹介します」

四月一日わたぬき まことです! 好きなことは人間観察! よろしくお願いしまーす!」

 思い切りわたしの方にウインクを飛ばす転入生、ワタヌキマコト。わたしは「うっそー!?」と立ち上がった。


「君が選んだ“本当”がどれ程のものか、僕に見せてよ」

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