始まりの日 4話

 厨房から出る前に、朱亞シュアは振り返って言葉をかける。作った清熱止咳膏セイネツシガイコウはまだ熱いので硝子ガラス瓶に入れることができないので、そのまま置いといてほしいと早口で伝えると、女性たちがこころよくうなずいたのを見て、ほっと安堵の息を吐く。


 あとできちんと硝子瓶に入れようと心に刻み、蘭玲ランレイの案内で後宮のいろいろなところを歩いた。


「月桂樹のほうまで行ったのですよね。でしたら、今日はこちらを歩きましょう」


 蘭玲は月桂樹とは逆方向に足を進める。


「……後宮って広いのですね」

「ええ。多いときには数百名の妃たちと、その妃に仕える侍女や、後宮を維持するための宮女が暮らしていましたから」

「いったい何人の女性が後宮で暮らしていたのかしらね。想像もつかないわ」


 桜綾ヨウリンが左手を頬に添えてつぶやく。確かにこれだけの広さなら、かりの人数が後宮で暮らせることだろう。


(――そして、それだけの女性が陛下の寵愛ちょうあいを求めていた)


 桜綾は思考を巡らせる。飛龍はこの『後宮』という場所を中から改造したいと彼女に話していた。そして、そのためには桜綾の手が必要だと真剣な表情で伝えられたのだ。


「ねえ、蘭玲。ここにはわたくしの他に、妃がいるのよね?」

「はい。貴妃きひがいらっしゃる前からいますよ」

「そう。その方々にはいつお会いできるかしら?」


 桜綾が自らそう口にするとは思わなかったのか、蘭玲は目を丸くして彼女を見つめた。足を止めた蘭玲と桜綾。朱亞もふたりの会話が聞こえて思わず交互に顔を見る。


「すぐにでも。……実は、皇太后陛下に頼まれていました。ですが、その……大丈夫ですか?」

「ええ、もちろん」

「では、ご案内いたします」


 蘭玲は再び歩きだした。桜綾は一度深呼吸をしてから前をしっかりと見据えて一歩を踏みだす。緊張しているのか彼女の手が冷たい。朱亞はそれに気付き、彼女を見上げてぎゅっと力強く手を握った。


「朱亞?」

「大丈夫ですよ、胡貴妃」


 励ますような明るい声だった。彼女に気遣わせてしまったことに気付き、桜綾は朱亞の手を握り返す。


「そうね、大丈夫よ」


 安心させるように微笑む桜綾の表情に、迷いは一切感じられない。朱亞はほっとしたように息を吐き、桜綾と一緒に蘭玲のあとを追いかけるように歩いた。


 たどりついた場所は、庭園のようだ。数人の女性たちと燗流カンルー、そして飛龍フェイロンの姿が見えて朱亞は目を丸くする。


「皇太后陛下、お待たせいたしました」


 蘭玲がうやうやしく頭を下げる。桜綾は朱亞と繋いでいた手を解く。すると、飛龍が近付いて彼女の手を取った。


 そのままふたりは歩き、豪華絢爛な服を身にまとっている女性のもとへ向かう。


「――そなたが『胡桜綾』か?」

「はい、皇太后陛下。お会いできて光栄です」


 桜綾は頭を下げる。「顔を見せよ」という声に、ゆっくりと顔を上げて真っ直ぐに皇太后陛下を見つめた。


「ほう、確かに美しい」


 ――蛇のような目だ、と朱亞は思い、きゅっと唇を結ぶ。


「そなたのように美しい女性が後宮に入るとは。飛龍もなかなかやるではないか」


 目を細めて、じっくりと桜綾を観察する。その視線に敵意を感じつつも、桜綾はそれを気にすることなく微笑みを浮かべて「まぁ」と口元に手を添えた。


「嬉しいお言葉、ありがとう存じます」

「しかし、あまりにも美しすぎてまぶしいな。顔を伏せよ」


 すっと桜綾が再び頭を下げる。


「――して、そこの娘はなんじゃ?」


 朱亞のことをちらりと見て、眉根を寄せる皇太后陛下。


 少し悩んだあとに、朱亞は真っ直ぐに彼女を見つめた。


「そのような髪色と瞳を持った者など、見たことがない。そなた、本当に人間か?」


 ぱちくり、と目を瞬かせて朱亞は首をかしげた。人間ではないように見えると言われたのは初めてで、思考が一瞬固まる。


「お初にお目にかかります。私は朱亞と申します」


 左手で拳を作り、右手をかぶせる。挨拶をしてからちらりと彼女を見ると、まるで値踏みでもしているような目をしていた。


 彼女にとって朱亞は有益になる者か否か。そう考えているのだろう。扇子を取りだし口元を隠す姿を見て、どうやら後者のようだと朱亞は感じ取った。


 ――それでいい。


「小娘に興味はないが、なぜこの場に?」

「私は、ここにおられる胡貴妃の侍女でございます」


 すぅっと目元を細める。蛇に睨まれた蛙とは、このような気持ちになるのだろうかと、心臓が早鐘を打っていることに気付き、落ち着くように呼吸を繰り返した。


「――顔を上げよ、朱亞」


 朱亞は一度目を閉じてから、ゆっくりと顔を上げて彼女に真っ直ぐな視線を送る。


『しゃんとなさい、朱亞』


 後ろから、祖父の声が聞こえた気がした。


 朱亞は背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐに前を見据える。


 皇太后陛下の威圧感に押しつぶされそうになったが、相手は朱亞と同じ人間。目を見て話せば、きっとわかることがある――と。


『気難しい人もいる。じゃがなぁ、そういう人に心を開いてもらえば、きっと強い味方になるよ』


 ――そう、祖父がいっていた。だからこそ、ひるんだ姿を見せるわけにはいかない。


 澄んだ瞳を向けられて、皇太后陛下は息をむ。後宮に入れられ、皇后になるまでの間、出会った誰よりも清純な気配を感じた。


 後宮に入る前、同じような気配を持つ者と会ったことがある。


「そなた、両親の名は?」

「私は捨て子でしたので、両親の名を知りません。育ててくれた祖父の名でもよろしいでしょうか?」


 朱亞の言葉に、その場にいた全員が彼女に視線を集中させる。憐みのまなざしや、疑惑の視線。そのすべてを受け止め、皇太后陛下に問いかける彼女の姿を見て、桜綾は小さく両肩を上げた。


(誰が相手でも、朱亞は朱亞のままね)


 どこか感心するように心の中でつぶやく桜綾に、飛龍が朱亞から視線を外して皇太后陛下に言葉をかける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る