始まりの日 4話
厨房から出る前に、
あとできちんと硝子瓶に入れようと心に刻み、
「月桂樹のほうまで行ったのですよね。でしたら、今日はこちらを歩きましょう」
蘭玲は月桂樹とは逆方向に足を進める。
「……後宮って広いのですね」
「ええ。多いときには数百名の妃たちと、その妃に仕える侍女や、後宮を維持するための宮女が暮らしていましたから」
「いったい何人の女性が後宮で暮らしていたのかしらね。想像もつかないわ」
(――そして、それだけの女性が陛下の
桜綾は思考を巡らせる。飛龍はこの『後宮』という場所を中から改造したいと彼女に話していた。そして、そのためには桜綾の手が必要だと真剣な表情で伝えられたのだ。
「ねえ、蘭玲。ここにはわたくしの他に、妃がいるのよね?」
「はい。
「そう。その方々にはいつお会いできるかしら?」
桜綾が自らそう口にするとは思わなかったのか、蘭玲は目を丸くして彼女を見つめた。足を止めた蘭玲と桜綾。朱亞もふたりの会話が聞こえて思わず交互に顔を見る。
「すぐにでも。……実は、皇太后陛下に頼まれていました。ですが、その……大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん」
「では、ご案内いたします」
蘭玲は再び歩きだした。桜綾は一度深呼吸をしてから前をしっかりと見据えて一歩を踏みだす。緊張しているのか彼女の手が冷たい。朱亞はそれに気付き、彼女を見上げてぎゅっと力強く手を握った。
「朱亞?」
「大丈夫ですよ、胡貴妃」
励ますような明るい声だった。彼女に気遣わせてしまったことに気付き、桜綾は朱亞の手を握り返す。
「そうね、大丈夫よ」
安心させるように微笑む桜綾の表情に、迷いは一切感じられない。朱亞はほっとしたように息を吐き、桜綾と一緒に蘭玲のあとを追いかけるように歩いた。
たどりついた場所は、庭園のようだ。数人の女性たちと
「皇太后陛下、お待たせいたしました」
蘭玲が
そのままふたりは歩き、豪華絢爛な服を身にまとっている女性のもとへ向かう。
「――そなたが『胡桜綾』か?」
「はい、皇太后陛下。お会いできて光栄です」
桜綾は頭を下げる。「顔を見せよ」という声に、ゆっくりと顔を上げて真っ直ぐに皇太后陛下を見つめた。
「ほう、確かに美しい」
――蛇のような目だ、と朱亞は思い、きゅっと唇を結ぶ。
「そなたのように美しい女性が後宮に入るとは。飛龍もなかなかやるではないか」
目を細めて、じっくりと桜綾を観察する。その視線に敵意を感じつつも、桜綾はそれを気にすることなく微笑みを浮かべて「まぁ」と口元に手を添えた。
「嬉しいお言葉、ありがとう存じます」
「しかし、あまりにも美しすぎてまぶしいな。顔を伏せよ」
すっと桜綾が再び頭を下げる。
「――して、そこの娘はなんじゃ?」
朱亞のことをちらりと見て、眉根を寄せる皇太后陛下。
少し悩んだあとに、朱亞は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「そのような髪色と瞳を持った者など、見たことがない。そなた、本当に人間か?」
ぱちくり、と目を瞬かせて朱亞は首をかしげた。人間ではないように見えると言われたのは初めてで、思考が一瞬固まる。
「お初にお目にかかります。私は朱亞と申します」
左手で拳を作り、右手をかぶせる。挨拶をしてからちらりと彼女を見ると、まるで値踏みでもしているような目をしていた。
彼女にとって朱亞は有益になる者か否か。そう考えているのだろう。扇子を取りだし口元を隠す姿を見て、どうやら後者のようだと朱亞は感じ取った。
――それでいい。
「小娘に興味はないが、なぜこの場に?」
「私は、ここにおられる胡貴妃の侍女でございます」
すぅっと目元を細める。蛇に睨まれた蛙とは、このような気持ちになるのだろうかと、心臓が早鐘を打っていることに気付き、落ち着くように呼吸を繰り返した。
「――顔を上げよ、朱亞」
朱亞は一度目を閉じてから、ゆっくりと顔を上げて彼女に真っ直ぐな視線を送る。
『しゃんとなさい、朱亞』
後ろから、祖父の声が聞こえた気がした。
朱亞は背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐに前を見据える。
皇太后陛下の威圧感に押しつぶされそうになったが、相手は朱亞と同じ人間。目を見て話せば、きっとわかることがある――と。
『気難しい人もいる。じゃがなぁ、そういう人に心を開いてもらえば、きっと強い味方になるよ』
――そう、祖父がいっていた。だからこそ、
澄んだ瞳を向けられて、皇太后陛下は息を
後宮に入る前、同じような気配を持つ者と会ったことがある。
「そなた、両親の名は?」
「私は捨て子でしたので、両親の名を知りません。育ててくれた祖父の名でもよろしいでしょうか?」
朱亞の言葉に、その場にいた全員が彼女に視線を集中させる。憐みのまなざしや、疑惑の視線。そのすべてを受け止め、皇太后陛下に問いかける彼女の姿を見て、桜綾は小さく両肩を上げた。
(誰が相手でも、朱亞は朱亞のままね)
どこか感心するように心の中でつぶやく桜綾に、飛龍が朱亞から視線を外して皇太后陛下に言葉をかける。
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