朱亞の知識 3話

「宿屋に戻りましょうか」

「はい」


 梓豪ズーハオ朱亞シュアに荷物を渡し、きちんと受け取るのを見てからひょいと抱き上げ、馬に乗せる。自分も朱亞の後ろに乗り、宿屋まで駆けていく。


 行きよりもゆっくりと。なので、行きよりも町の様子を眺めることができた。


「……本当にたすかりました。腹痛で苦しんでいるのを見て、朱亞さんのことを思い出したんです」


 頭上から声が降ってきた。その声は本当に安堵したのか優しさがにじんでいる。


「お医者さまではなく、私を?」

「ええ。この町の医者は男性ですしね。同じ女性の朱亞さんのほうが良いかと思いまして」


 確かに異性よりは自分のほうが話しやすいのだろうと納得した。だからあんなに急いでいたのか、とも。


「服も買いましたし、着替えたら後宮に向かうことになるでしょう」


 朱亞は神妙な表情を浮かべてうなずいた。『後宮』がどんな場所なのかまだ理解できていないので、少し不安そうに辺りを見渡す。


「――この町は、活気がすごいですね」

「そう見えるかい?」


 後宮の話から町の話へ話題を変えると、梓豪は周囲を眺めて問いかけた。


「ええ、人通りだって多いし……なにより、暮らしている人たちが笑顔なのがすごいなって思います」

「すごい?」


「はい。満たされているんだろうなぁって。旅をしている最中、いろいろな村や町を回りましたけど、こんなに活気がある場所は初めてです!」


 世間話をしている人たちも、外で遊んでいる子どもたちも、客寄せしている人も、すべての人たちの瞳が生き生きとしていて、見ていて気持ちが良い。


 治安も良いのだろう。こういう場所は住みやすいと話していた祖父のことを思い出し、朱亞は懐かしむように目元を細めた。


「民が幸せそうに暮らしているのは、良いことだと思います」

「そうですね」


 しみじみとつぶやく彼女の言葉を噛み締めるように、梓豪は目元を細める。


 馬車に乗ってあの宿屋まで移動してきたときには気付かなかったが、この町の雰囲気はあの村に似ていた。村で暮らしていた人たちはみんな生き生きとしていて、朱亞のことを可愛がってくれた。


『子どもなんて何年ぶりかしらね』


 物心がついた頃に、近所に住む妙齢の女性に頬を両手でもちもちと揉まれたことを思い出し、小さく微笑みを浮かべる。


「なんだか懐かしい気がします。ここの人たちを見ると」

「懐かしい、ですか?」


 なぜ懐かしく感じるのかを説明すると、梓豪は「村が恋しいですか?」と聞いてきた。


 朱亞はうーん、と唸ってから、緩やかに首を左右に振る。


「少しも、とは言えませんけれど、新しいことに胸の鼓動が高まります。この感覚は……村で暮らしていたら知らなかったと思うので」

「では、これからもたくさんの『新しいこと』に出会いそうですね」

「そうですね、楽しみです」


 これから先の未来に、どんなことが起こるのだろう。そのことを想像すると、朱亞の胸はどきどきと早鐘を打ち期待と不安が半々……いや、期待七割、不安三割と期待のほうが大きい。


 ――これから先、後宮でどんなことがあっても、きっと大丈夫と自分自身に言い聞かせる。


 ゆっくりと町を見渡しながら帰り、宿屋についたのはお昼頃だった。


「陛下と桜綾さんは、まだ一緒にいるのでしょうか」

「どうでしょう。話がまとまっていれば、桜綾さんは部屋に戻っていると思いますが……」

「どんな会話をしているのか、私には想像ができません……」


 馬屋まで行き、梓豪が降りる。それから朱亞も降ろしてもらい、馬に対して「ありがとう」と言葉をかけるのを見て、彼は目をまたたかせる。


「朱亞さんは馬が好きなのですか?」

「特に好きも嫌いもありませんが、乗せてくれたので。疲れたかな、と」

「……馬のことも気遣ってくれるのですね」


 感心したようにつぶやかれ、朱亞は首をかしげる。馬は嬉しそうに目を細めて朱亞に擦り寄ってきた。


「朱亞さんのことを気に入ったようです」

「ふふ、嬉しいな」


 擦り寄ってきた馬の鼻筋を労わるように撫でると、馬は嬉しそうに尻尾を上げる。


 馬を繋いでから、宿屋に戻った。今朝ほどではないが、やはり視線を集めてしまうようで早足で部屋に移動する。念のため、と梓豪もついて来てくれた。


 泊まっていた部屋の扉を軽く叩いてみると、「はい」と桜綾の声が耳に届く。


「桜綾さん、朱亞です」

「朱亞?」


 こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえ、扉が勢いよく開いた。


 桜綾は朱亞の顔を見て、安堵したように息を吐く。


「戻って来たら朱亞がいなくて驚いたわ。どこに行って――あら、それは?」


 朱亞が持っている荷物を見て、小首をかしげる桜綾。彼女の青絲せいしの髪がさらりと流れた。


 とりあえず、朱亞と梓豪を部屋の中に入れて、椅子に座り説明を求める桜綾に、簡単に経緯を話す。


「――確かに異性のお医者さまより、朱亞のほうがその女性も伝えやすいでしょう」

「それで、こんなに買ってしまいました……」


 そういって風呂敷を解く。出てきた服を、桜綾は手に取って眺める。そして、「へぇ」と意外そうに目を丸くした。


「とても上質な生地だわ。大切に着ないとね」

「はい。大切に着ます」

「桜綾さん――いえ、貴妃きひ、陛下との話はまとまりましたか?」

「ええ、大体は。梓豪さん……あなた、あの陛下の護衛なのよね……、お疲れさま」

「……ありがとうございます」


 いったいどんな会話をしたのだろうと朱亞が疑念を抱く。桜綾の労わるような言葉に、梓豪は蒲公英たんぽぽ色の瞳を彼女から外して、小さく頭を下げる。


「陛下とどのように話がまとまったのか、お聞きしても?」

「そうね……まず、朱亞はわたくしの侍女として後宮に入ったあと、たまに男装させることにします」

「えっ?」

「後宮には皇帝陛下しか入れないのよ。宦官は別だけど」

「かんがん?」

「ええ。その説明はあとにしましょう」


 桜綾は一度言葉を区切り、こほんと咳払いをした。

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