宿屋で休憩 9話

 昨日も訪れた場所に進んでいくにつれ、視線は少なくなる。


 皇帝陛下が待っているからだろう。この場所は人が少ない。従業員が数人いるだけだ。


 その人たちはこちらをちらりと見て、うやうやしく頭を下げてから仕事へ戻る。数人とすれ違い、彼の待っている部屋まで辿りつく。


「陛下」


 扉を軽くこんこんと叩く梓豪ズーハオ。すると、「入れ」と芯のある低い声が朱亞シュアたちの耳に届いた。


 梓豪が扉を開き、桜綾ヨウリンと朱亞に視線で入るようにうながうながす。


 ゆっくりと、桜綾が部屋の中に入った。


 椅子の上に座り、足を組んでいる皇帝陛下――ヨウ飛龍フェイロンがふたりに視線を移し、こちらへ来いとばかりに手を動かす。


 桜綾が近付いていくのを見て、朱亞も足を動かす。足音だけが部屋の中に響き、自分の心音がやけに大きく聞こえた。


「皇帝陛下にご挨拶申し上げます」

「よいよい、そんなにかしこまらなくとも。ここには余たちしかおらんのだからな」

「では、お言葉に甘えまして」


 あっさりとうなずく桜綾に、飛龍はにっと口角を上げる。


 朱亞たちに椅子を勧め、ふたりが座るのを見てから、飛龍が軽く手を上げる。待機していたのか、朝食が運ばれてきて、ふわりと美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。


「粥だ。昨日の今日だからな、胃に優しいものを用意させた」

「お心遣いに感謝します」

「ありがとうございます」


 小さく頭を下げる。ほわほわと白い湯気を立てるお粥に視線を落とし、ちらりと飛龍と桜綾を見ると、ふたりはただ見つめ合っている。


 梓豪が飛龍の近くに座ると、「さぁ、食べなさい」と声をかける。桜綾が小さく首を縦に動かすのを見て、朱亞もうなずいた。


 飛龍と梓豪が食べたのを確認してから、朱亞たちも食べる。鶏肉と葱入りだ。静かにお粥を食べると、その優しい味わいに心が満たされる。ほんのりと辛味を感じるのは生姜だろうか。


 塩で味を調えているようだ。お米の甘みを感じる。鶏肉のぷりっとした食感。葱のしゃきしゃき感が口の中で楽しい。そして美味しい。思わず頬を緩める朱亞に視線が集まる。


「うまいか?」


 素直に「美味しいです」と答える朱亞に、三人が優しく微笑む。その笑みを見て首をかしげていると、桜綾も食べ始めた。


「やっぱりここの料理は美味しいわ」

「桜綾さんは、食べたことがあるんですね」

「ええ。父と一緒に仕事の話をしたあとにね」


 いったい桜綾の家はどんな商売をしているのだろうと考えを巡らせながら、お粥をいただく。


 朱亞たちに気を遣ったのか、飛龍と梓豪もお粥のみだった。男性が食べる量を考えてなのか、量は朱亞たちの二倍以上はあった。


 お粥を食べ終えてから、飛龍はじぃっと桜綾を見つめてから、朱亞に視線を移す。


「後宮に行く前に、朱亞、そなたの服を用意せねばな」

「服、ですか?」

「うむ。桜綾の侍女になったのだから、身なりにも気遣わねばならん」

「そうなのですか?」


 朱亞は自分が着ている服を眺める。今着ている服は、祖父に教わり自身が縫ったものだ。


「そうだ。貴妃きひである桜綾に仕えるのだからな」


 にぃ、と口角を上げる飛龍に、朱亞は目を数回またたかせてから顔を桜綾に向けた。彼女は少し考え込んでいるようだったが、すぐに朱亞と視線を交えて口を開く。


「後宮では朱亞のような服を着ている人が珍しいと思うの。郷に入っては郷に従えという言葉もあるわ。もちろん、陛下がお金をだしてくださるのでしょう?」


 桜綾は朱亞から視線を外し、飛龍に微笑みを見せた。彼は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに額に手を置いて白い歯を見せた。


「よかろう。とびきりのものを選ぶが良い」

「うふふ、ありがとう存じます」

「そうと決まれば、さっそくこの町の呉服屋を呼ぶか。朱亞の服が出来次第、出発することにしよう。そして、後宮に入る前に梓豪、お前が案内してやれ」

「え? ……かしこまりました」

「案内?」


 飛龍は朱亞と梓豪を交互に見て、目を弓なりに細め、にんまりとした笑みを浮かべる。


「帝都の、な。余の民たちがどう暮らしているのかを、その目で確認してみるとよい」


 朱亞は息をむ。――そして、目を輝かせ「はい!」と声を弾ませた。


「では、梓豪。呉服屋の手配を。そして、服を選ぶときは朱亞の傍にいてやれ。余は桜綾と話がある」

「かしこまりました」

「朱亞、あとでね」

「はい。またあとで」


 椅子から立ち上った朱亞は、ふたりに頭を下げてから梓豪と一緒に部屋から出ていく。


 なぜ一緒に? と梓豪を見上げる朱亞だったが、すぐにその理由がわかった。


 飛龍が泊っている部屋から遠ざかるにつれて、宿泊客の人数が多くなり、その視線が一斉に朱亞に刺さる。


 梓豪は「大丈夫ですか?」と心配そうに問いかけた。


「……今まで生きてきた人生の中で、一番注目を浴びています」

「……そうでしょうね」


 探るような視線には慣れない。先程まで桜綾が浴びていた視線のほうが多いとは思うが、ちくちくと刺さる視線。気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。


 ちらり、と宿泊客たちを見れば、ばつが悪そうにそらされた。


「私に用事があるようには、見えませんよね」

「そんなものですよ。部屋までお送りしますので、待機していてください」

「梓豪さんは大丈夫ですか?」


 視線を集めているのは朱亞だけはない。梓豪も集めている。


「慣れていますから」


 彼はひょうひょうとした微笑みを浮かべる。その表情になぜか陰りがあったように見えた。


 朱亞が部屋の中に入るのを見てから、鍵をかけるように伝え、梓豪が扉を閉める。


 ぱたんと閉じられた扉の内鍵をかけ、いそいそと寝台まで歩いていき、ごろんと横になった。


 大きく息を吸い、細く長く息を吐く。


 呉服屋を呼んでくる、と言っていたが、どうやって呼ぶのだろうかと天井を見つめながら考えた。

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