宿屋で休憩 8話

「あ、いえ。なんだか不思議な縁よね、わたくしたち」


 桜綾ヨウリンが逃げださなければ、朱亞シュアが旅に出なければ……そう考えて、きっとこれが自分たちの運命なのだと思うと、朱亞は小さく口角を上げた。


「そうですね、確かに不思議な縁だと思います。こうして出会って、一緒に後宮に行くことになって……」


 自分たちを結ぶ不思議な縁。人と人の繋がりは些細なことで増える。それをどうするかは朱亞次第だと、――運命の糸は、朱亞の手にあるのだ、と。祖父に言われたことを思い出す。


「こういう出会いを、運命というのかもしれないわね」

「そうですね」


 自分が考えていたことを読み取ったかのような言葉に、朱亞は桜綾に近付いて満面の笑みを見せる。


 すると、扉を叩く音が聞こえた。梓豪ズーハオの声も。


「起きていますか?」


 朱亞は桜綾を見る。彼女がうなずいたのを確認してから、扉に向かう。


 がちゃりと音を立てて扉を開き、梓豪を見上げてから「おはようございます」と挨拶をした。


「おはようございます。よく眠れましたか?」

「ぐっすりでした!」

「それは良かったです。桜綾さんに陛下から贈り物があるのですが、渡してもらってもよろしいですか?」

「はい、もちろんです!」


 梓豪から荷物の入った袋を受け取り、桜綾のもとに行こうとすると声をかけられた。


「それと、陛下が朝食を一緒にどうか、と」

「ええと、桜綾さんだけですか?」

「いえ、朱亞さんも。……気が乗らないとは思いますが」


 眉を下げる梓豪に、朱亞は慌てて首を横に振る。


「そんな高貴な方と食事を一緒にする機会なんて、滅多にありませんよね」


 朗らかな表情を浮かべながら朱亞は言葉を紡ぐ。梓豪は安堵したように息を吐く。それを見て、断られることも考えていたのだろうなと感じる。


「梓豪さんもご一緒ですか?」

「はい。陛下がそうお望みなので」

「陛下はみんなで食べたい人なんですね」


 ぱちくり、と蒲公英たんぽぽ色の瞳をまたたかせて思わず、というように破顔した梓豪。その表情があまりにも幼く見えて、朱亞は目を丸くした。


「どうしました?」

「あ、いえ。……桜綾さんにお渡ししますね」

「はい。廊下で待っておりますので、着替え終わったら教えてください」

「わかりました」


 扉を閉めて、桜綾に駆け寄る。袋に視線を落とす彼女に差しだすと、袋を開けて中から出てきた衣装に一瞬眉根を寄せて重々しくため息を吐く。


「よ、桜綾さん?」

「――良いわ、やってやろうじゃない」


 右手の拳をぐっと握りしめ、決意を秘めた栗皮色の瞳に炎を宿して、「朱亞、手伝ってちょうだい」と声をかけて服を脱ぎ始める。朱亞は桜綾が取りだした衣装に視線を落とす。


 鮮やかな緋色が目を引く衣装だった。


「これも花嫁衣装ですか?」

「ええ。緋色の生地に金と銀の刺繍。陛下、持ち歩いていたのかしら?」

「――この生地の色、陛下の瞳と同じ色ですね」

「……そこは触れないほうが良いと思うわ……」


 桜綾の指示通りに動き、彼女の着替えを手伝う。化粧の仕方はわからないので、彼女が自ら鏡を見ながら器用に化粧をしていく。筆を使いまぶたに赤を差す。


 慣れた手つきで化粧をしている姿を見て、朱亞は「わぁ」と弾んだ声をだした。


「似合うかしら?」

「とっても綺麗です! 桜綾さん!」


 化粧をしなくても絶世の美女だったのに、化粧をした桜綾はさらに美しい。


「知っている? 朱亞。目元に赤色を差すのは、魔除けの意味もあるのよ」

「知りませんでした! すっごく似合っていますよ!」

「朱亞もやってみる?」

「いえ、私はやめておきます。だって今は、桜綾さんの顔を堪能したいので!」


 頬紅の色は淡く薄い桃色。深紅の口紅。そして、目尻にかけて差された赤色。そのすべてが桜綾のために作られていたかのように、彼女に似合っていた。


「……そう?」

「はい!」


 ぐっと拳を握り力強くうなずく朱亞に、桜綾はくすくすと鈴を転がすような笑い声を上げてから、一度目を閉じて深呼吸を繰り返す。


 そして意を決したように強い意志を宿した目を開け、朱亞を見つめた。


「行きましょう、朱亞」

「はい、桜綾さん」


 桜綾が扉へと歩きだす。それを追いかけるように朱亞も続く。


 朱亞が扉を開けると、梓豪が桜綾の姿を見てから、朱亞に視線を移し「こちらです」と背を向けて歩きだした。


 宿泊客たちの視線を集めながら、廊下を歩く。先頭に梓豪、真ん中に桜綾、最後に朱亞という並び順で歩いていると、宿屋がざわざわと賑やかになっていく。


 絶世の美女である桜綾が、昨日とは違う花嫁衣裳を着て歩いているのだから、当然といえば当然かもしれない。


(本当に私が侍女で良いのかな?)


 頭の中にそんな考えがよぎる。ちらりと桜綾が朱亞に視線に注ぐ。そして、花が綻ぶかのように微笑んだ。その笑みを見て、昨日ことを思い出す。


 涙を流した、桜綾のことを。


(――味方でいるって、決めたじゃない)


 朱亞は一瞬よぎった考えを振り払うかのように左右に頭を振り、それから桜綾に笑みを返した。彼女はその笑みを見て、真っ直ぐに前を向き直した。


(強いなぁ)


 いろいろな人から探るような視線、惚れ惚れと恍惚の表情を浮かべる宿泊客。反応は様々だ。


 こんなにたくさんの人たちから視線を集めることがなかった朱亞は、刺さるような視線に立ち向かうように深呼吸を繰り返す。


 そして、しっかりとした足取りで歩いた。背筋を伸ばし、顎を引き、前を見据える。


 それだけで、なんだか強い人になったような気がした。

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