宿屋で休憩 7話

「自分の身を大切にすること。これを守ってほしいのよ」


 あまりにも真摯しんしな表情に、朱亞シュアは言葉をむ。彼女の栗皮色の瞳には、切実さが浮かんでいる。


 ――どうやら自分は、相当彼女に心配をかけたのだと、ようやく理解した。


「はい、もうあんな無茶はしません」


 あのとき視線が合ったのが自分だから、と山小屋を飛びだした。自身の死と引き換えに、桜綾ヨウリンを生かそうと……それしか考えていなかった。残される桜綾の気持ちを、考えていなかったことを反省する。


 朱亞がもしもあのまま狍鴞ほうきょうに襲われていたら、桜綾はどうなっていたんだろうかと想像して、ぶるりと身体が震えた。


「自己犠牲は自己満足よ」

「肝に銘じます」


 朱亞の言葉と真剣な瞳を見て、桜綾はほっとしたように表情を緩ませる。


 彼女が朱亞の手を離すと、「軽食を用意しました」と従業員の声が扉の外から聞こえてきた。


「私が受け取りますね」

「……ええ、お願いするわ」


 椅子から立ち上がって、朱亞はぱたぱたと足音を立てながら扉に近付き軽食を受け取り、桜綾とともに食べてお腹を満たしてから、その日は眠りにつく。


 あまりにもいろいろなことがありすぎて、目を閉じたらあっという間に意識が薄れていった。


◆◆◆


 翌朝。鳥のさえずりで目が覚めた朱亞は、同じ寝台で寝ている桜綾を起こさないようにそっと抜けだした。窓に近付いて窓かけに手をやり、外を見てみる。


 遮光性が抜群の窓かけだったようで、室内は暗かったがすでに外は冴え渡る青空が広がっていた。


 目に染みるような青空を眺めていると、「しゅあ……?」と桜綾が寝ぼけた声で彼女の名を呼ぶ。


「おはようございます、桜綾さん」

「おはよう……はやいのよね……」


 まだうつらうつらとしているようで、昨日の様子からは想像もできないくらいに愛らしく見えた。


 どうやら彼女は朝に弱いらしい。


 逆に朱亞は朝に強かった。村で暮らしていた頃は、祖父のほうが早起きではあったが、日の出とともに起き、日が暮れると休むという生活だったからだ。


 昨日の今日で疲れていたのか、日の出からは数時間経っているようで、朱亞は一度ぐっと身体を伸ばして桜綾に近付く。


「桜綾さん、朝に弱いんですね」

「……ええ、ちょっと、ね……」


 まだ目覚めていないのだろう。どこか幼さを感じる桜綾に朱亞は微笑みを浮かべてから辺りを見渡す。


 自分の鞄を見つけると、そこから着替えを取り出して袖を通す。


 昨日着ていた服は、頼めば持ってきてくれるのだろうかと考えながら、身支度を整える。


「……うぅん……」


 桜綾がぼんやりとした思考をはっきりさせるかのように、ぺちぺちと軽く両頬を叩くのが見えた。


 そして、ようやく目が覚めたのか先程よりもしゃっきりとした顔で朱亞に、「朱亞、早いのね」と微笑む姿を見て、朱亞は数回目を瞬かせてもう一度「おはようございます」と笑顔で挨拶をする。


「もう着替えたのね。あ、昨日頼んだものも乾いていると思うの。持ってきてもらいましょう」


 緩やかな動作で寝台から起きだす桜綾。ぽやぽやとしていた寝起きとは違い、昨日のしっかりとした姿を見て、彼女に声をかけた。


「桜綾さん、侍女ってなにをすれば良いですか?」


「とりあえず、着替えの準備や手伝い、お茶を淹れてもらう……かしらね? このまま後宮に向かうなら、その前に手紙を書きたいわ」


 朱亞は再び窓に近付き、重い窓かけを開けて陽の光を室内に招いた。さんさんと輝く太陽を見て、まぶしそうに目を細めてから桜綾を見る。


「手紙ですか?」

「ええ。後宮に入ることを連絡しないと。いきなり貴妃になったことも添えてね。調度品は胡商会でも取り扱っているから、うちの商品で揃えましょう」


 すらすらとそんなことを口にするから、朱亞は首をかしげる。あれだけ嫌がっていた後宮入りを、今では受け入れている。どういう心情の変化があったのだろうと彼女を見つめていると、桜綾は呼び鈴を鳴らして従業員を呼び、昨日頼んだ服を持ってくるように頼んだ。


「そういえば、銀波ぎんぱって言っていましたよね。私の目的地、そこでした」

「あら、そうなの?」

「はい。『絶世の美女を皇帝陛下が迎えに行く』と聞いて、絶世の美女ってどんな方なのかなぁ、と」


 いったいどんなところなのだろうと考えていると、桜綾が頬に手を添えて目を伏せる。


「後宮に行かなければ案内したかったくらいよ。わたくしが生まれ育った街はね、海が近いの。月の光が海に映り、銀色に光るから『銀波』という名になったと聞いたことがあるわ」

「へぇ……! 海ってとっても広いんですよね。見てみたかったなぁ」


 話だけは聞いたことがある海。桜綾の言葉を聞いて、ますます見てみたくなったけれど、これから後宮に行くのだからおそらく見ることは叶わないのだろうと考え、ゆっくりと息を吐いた。


「朱亞の住んでいた村はどこにあったの?」

「ものすっごく山の奥にあったみたいです。旅をするまであんなに山奥で暮らしていたの知らなくて、びっくりしました」


 村から出て、徒歩で旅をしていた。それがもうずいぶんと前のように感じる。


「村に名前はなかったの?」

「雲隠れの村って呼んでました」

「え」


 雲隠れ? と目を丸くする桜綾に、朱亞はなにか変なことを口にしたのだろうかと不安になり、眉を下げた。


 その話題を断ち切るかのように、扉を軽く叩く音が耳に届き、朱亞が扉を開けるために駆けだす。


 扉を開けて服を受け取る。お礼を口にして扉を閉め、すっかりと乾いた祖父が縫った花嫁衣裳を見て興奮したように声を弾ませた。


「すごいですよ、桜綾さん! すっごく綺麗です!」

「ふふ、洗濯してくれた人の腕前が、とても良かったのね」


 花嫁衣裳を大切そうに抱きしめてから、丁寧に畳んで鞄に入れる。


「あ、私の服はともかく、桜綾さんの服は……」

「大丈夫よ、きっと」


 どこか確信めいた表情で、視線を扉へ移す桜綾。


「皇帝陛下がなんとかしてくださるわ」

悪鬼あっきも倒しちゃうし、宝剣を持っているし、皇帝陛下って強くないとできないのでしょうか」

「……その視点は新鮮ね」


 ゆっくりと朱亞に視線を移してから、桜綾は感心したようにつぶやく。自分では考えつかないようなことを口にする朱亞に、桜綾は彼女について詳しく知りたいと思い始めた。


 雨宿りの出会いがなければ、こうして出会うことはなかったのだから、不思議な気持ちになる。


 自分の胸元に手を当てて首をかしげる桜綾に、朱亞が「どうしました?」と彼女の顔を覗き込む。

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