14 あの子

 ぐるぐるまきになった加々見大生カガミタイセイさんが自由になるのは口だけで、彼は本当にひどい言葉を吐き出し続けていた。

 「ボケ」、「カス」、「シネ」は、最上級に上品なことば。

 「クソ」、「バイタ」、「アバズレ」もかなりましなほう。

 聞いた瞬間に血の気が引くようなことばや、逆に怒りのあまり頭に血が上りそうになることばのオンパレードであった。

 いっそのこと、口もガムテープで塞いでしまったほうが良かったのじゃないか。

 わたしの脳裏にそんな物騒なことが浮かびはじめたとき、ヨウコさんが立ち上がった。


 「ヨウコ、クソブタ、何見てんだよ。ほどけよ、ブタ」

 彼にしては、かなり上品なことば遣いであったけれど、その基準は他の人にはあてはまらないものだ。

 ヨウコさんが押し黙っていると、加々見さんのことば遣いは、彼の通常、常人では聞くに堪えないレベルのものへとなっていく。

 斎文さんに浮気した「バイタ」だの、あいつは良かったかだのが卑猥なことばとともに続く。

 わたしがガムテープを取ろうとたちあがったとき、ヨウコさんは加々見さんの顔を蹴り飛ばした。


 「タイセイ! お前のせいで! お前のせいでお前のせいで! お前のせいで!」

 ヨウコさんはイモムシみたいに転がった加々見大生タイセイさんを蹴り続ける。

 罵詈雑言が少しずつ弱まる。

 イモムシが動かなくなると、ヨウコさんは馬乗りになってさらに叩き続ける。

 止めないといけない。

 そう思っていたときに、ぎゃっという悲鳴とともにヨウコさんが飛び退いた。

 加々見さんががヨウコさんに噛みついたらしい。

 イモムシが口から粘液を吐くように、赤いツバを吐く。

 

 「おう、殺せるもんなら殺してみろや。ああん。クソブタ、おめぇが手ぇ出したら、そこのバカどもの人生も終わりだよ」

 加々見さんイモムシがわたしたちに向けて毒液を吐き散らす。

 毒液にあたったヨウコさんが、しくしくと泣き出す。


 ぼとりとそれが落ちてきた。

 雨粒の最初の一滴のように白い馬のぬいぐるみがイモムシの顔を叩いた。

 加々見さんが首をふって、顔の上に落ちたぬいぐるみを飛ばすと、白いぬいぐるみは血と泥で薄汚れた。

 その瞬間、ばらばらとぬいぐるみの豪雨がはじまった。

 無数の白い馬のぬいぐるみがわたしたちに降りかかる。

 わたしは顔を反射的にかばう。

 ふわふわしたぬいぐるみが身体にあたっても、別に痛くはない。けれども、ぬいぐるみは空からは降ってこない。そのような異常なものは、本能的に恐ろしい。

 ぬいぐるみは、すべて白い馬であるけれど、微妙に形状や大きさが違う。

 いくつかのぬいぐるみが、それぞれ、子守唄を奏ではじめた。

 はじまりが少しずつずれた子守唄が生み出すのは輪唱ではなく、不協和音めいたものである。

 斎文さんは、刀の柄に手をかけながらあたりを警戒しながらも静観している。ぬいぐるみにそこまでの害がないとみているのかもしれない。

 それとも、わたしに対処してほしいのだろうか。

 どちらかはわからない。身体が動くようになったら、私は静観していられなかった。

 呪符をばらまきながら、祭文を唱える。呪符がはりついたぬいぐるみは歌うのをやめる。

 不協和音が徐々におさまっていく。

 最後の一つのメロディに合わせて、ヨウコさんが小さな声で歌う。

 物悲しく響く歌声は、最後のぬいぐるみが沈黙したときに途切れた。

 

 幸いなことに、ぬいぐるみの豪雨はすぐにおさまった。

 ただ、わたしがぬいぐるみに気を取られている間に、別のものが現れていた。

 花壇の土の上に座る青白く光るカエルのような顔をした赤ん坊。


 斎文さんはヨウコさんと加々見さんの横にしゃがみこむと、花壇の方を指差す。

 「僕は、あなたたち三人に家族の問題を解決してほしいだけです。ヨウコさんもあの子も同じ気持ちじゃないでしょうか」


 「ユキちゃん」

 ヨウコさんは赤子の名前を呼びながら、膝から崩れ落ちた。

 加々見さんは、人ならぬものを前にしても動じていない。

 暴力にあけくれていただけあって、肝は座っているみたいだ。

 単純に何もわかっていないだけなのかもしれない。

 あの子がどのような存在であるか、どうしてここにいるのかを含めて、推測すらできていないとしたら、それは肝が太いのではなく、人として大事なものをもっていないだけなのかもしれない。

 そうだとしたら、悲しい。

 

 「あなたは知らないといけないし、謝らなくてはいけない」

 痛かったらごめんなさいと言いながら、斎文さんは、加々見さんの腕を拘束しているガムテープをはがしていく。

 「おい、足はどうしたんだよ?」

 「逃げられると面倒なんですよ。それに足を使わなくても、子どもを抱くことはできるでしょう?」


 立ち上がった斎文さんは、懐から呪符を取り出した。

 「祓うんですか? 赤ん坊なのに?」

 「祓いたくないですよ、赤ん坊は。それに、遺体を供養してなおあらわれるのです。ここでいくら斬っても、顕現し続けるでしょう。祓うためには……」

 斎文さんは動かず、視線だけをヨウコさんに向ける。

 彼女が日記を綴るかぎり、祈りを捧げ続けるかぎり、カミは顕現を繰り返す。

 

 「おそらくね、彼女は、僕たちと同類、近しい存在でしょう」

 怪異カミに仕える祭司。我が子を悼んでいるだけなのに、祈りとなり、カミを顕現させてしまう自身が怪異と化した者。怪異を斬り祓いながら、いつしか怪異に同一化していってしまう祓い屋と似たような存在。

 彼女を斬ってしまえば、カミは消えるのだろう。彼女は斬ってしまうことができるところまでカミに近くなっているのだろう。

 それでも、悪意もなく、亡き子を思う気持ちを抱えた女性を斬ることはできるのだろうか。

 斎文さんは、斬る決断をするかもしれない。彼が以前、ナルカミと呼ばれる者――怪異をおのがために用いる者を斬るのを見たことがある。そうでなくとも、火の粉を振り払うためなら、斬るだろう。でも、ヨウコさんは、直接的に人々に危害をくわえているわけではない。だからこそ、ギリギリまで先延ばしにしたいのだ。

 今のわたしには、それがよくわかる。

 わたしたちは、自分の師匠が怪異カミと化したときには斬らなくてはならないとされている。もちろん、嫌だ。人であったもの、まだ人であるものを斬るのは、よほどのことがないかぎり嫌なのだ。


 「それにね、僕たちが祓わなくても、家族の問題として解決し、子は安らかに眠り、母は悲しみを癒していくのが一番ですよ」


 加々見さんは声を荒げる。

 「大体、なんなんだよ、あれ。作り物でおどせるとか舐めてんじゃねぇぞ!」

 斎文さんは、殴られた痛みを初めて思い出したかのように、綺麗な顔をゆがめた。

 「作り物だったら……さぞかし、楽しいことでしょう。そうであれば、本当に良いだろうにと思いますよ」

 「加々見大生さん、ヨウコさんが妊娠していたとき、気がつきましたか」

 わたしの問いかけに加々見さんは口をゆがめて笑う。

 「はっ! 最初は食いすぎだと思ってたけどな。まぁ、誰の子かもわかんねぇし、面倒くせぇからな」

 彼は握りこぶしを作ってパンチを打つ素振りをする。

 この人はわかっていて、そんなひどいことをしたのか。

 斎文さんが加々見さんの前に転がっていた大きめの石を蹴り飛ばした。

 わざわざ加々見さんに当たらないよう注意して石を蹴り飛ばしたのだろう。そっぽをむいた彼は、今、どのような顔をしているのだろう。

 当ててやったらよかったのだ。すこしでも痛みをわからせてやればよかったのだ。

 奥歯がぎりぎりと痛む。

 気がつけば、わたしはわたしで歯を食いしばっていた。

 「どうして、そんなこと、できるの? なんでそんな無責任でひどいことできるの?」

 ひとりごとのようにつぶやいたことばだったが、加々見さんの耳には届いてしまったようだ。

 「ああ? やるのは、本能だろ? お前らだって同じだろ。お上品な顔してたって、どうせサルみたいにさかってんだろ、俺と何がちがうんだ?」

 歯を食いしばるわたしに加々見さんの視線が刺さる。べたついた視線が気持ち悪い。

 「それによ、こんなだらしねぇ、男をくわえ込むくらいしか能のないデブが母親とか、もう、生まれてこないほうが良いだろ? 俺は親切なんだよ」

 そんなこと、あなたなんかが決められることではない。

 わたしの思っていることを口に出したのはヨウコさんだった。

 「あんたが決めることじゃない! あの子は生まれたかった。だから、死んでも、ちゃんとアタシの中から出てきた!」

 掴みかかろうとするヨウコさんを加々見さんはしこたま打ちつけた。

 足は縛られたままで手を振り回しただけだったけど、体格に恵まれた彼は簡単にヨウコさんをとばした。

 

 殴られて鼻血を出したヨウコさんの足元にいつの間にか青い赤ん坊が座っていた。

 先程まで花壇にいたのに、気がついたら、加々見さんの手の届く距離にいたのだ。


 「あなたにできることは、謝罪だけです。もう、どうにもできない。それでも謝ることだけはできるはずです」

 斎文さんが静かな声で告げる。

 

 パパと呼ぶ声が聞こえた気がした。

 すすり泣きしか聞こえないはずなのに、たしかに聞こえた。

 それはわたしだけではなかったようだ。


 「気持ちわりぃんだよ。うせろよ、バケモノ!」

 祭司にして母を傷つけられたカミの最後の慈悲を加々見さんは罵声とともに拒絶した。

 赤ん坊は加々見さんの顔のあたりに移動した。

 凄まじい悲鳴があがる。

 先程までへらへらとしていた男の絶叫だった。

 斎文さんが呪符を投げようとした。

 とても素早い動きだったけれど、ヨウコさんは、それよりもなお速く斎文さんに覆いかぶさった。

 わたしは彼に変わって呪符をばらまく。

 ふわふわと浮いた呪符は、 「あの子に乱暴しないで」という声とともにすべて青い炎を上げて燃え尽きた。


 絶叫はすぐにおさまった。

 血の気を失った加々見さんはぴくりとも動かない。

 

 わたしはもう一度呪符を握りしめる。

 斎文さんもヨウコさんから逃れて、青い赤ん坊のほうを向く。

 わたしたちが祭文を唱えようとしたとき、それをヨウコさんの声が遮った。

 

 「お願い、この子に手を出さないで。お願いだから、この子をいじめないで」


 わたしたちは動けなかった。手にしていた呪符が塵となり、指の間からこぼれていく。


 「ユキちゃん」

 ヨウコさんが赤ん坊に手を差し伸べる。

 

 「大丈夫、今度は一人にしないから。パパも一緒ですよ。パパも反省しているはずよ」


 ヨウコさんの横にはぴくりともしない加々見さんの身体。彼女の腕の中には、ユキちゃんと呼ぶ青い赤ん坊。家族の周りに黒い霧が帳のようにおちていく。

 

 「次のお休みは、どこにいこうか。おんもでなにして遊ぶのかな。パパにお願いしないとね」


 加々見さんの身体が闇に飲まれていく。

 ヨウコさんの下半身が消えた。

 彼女と胸に抱いた赤ん坊がこちらを見る。

 楽しそうな子どもの声とともにヨウコさんが微笑み、会釈をする。

 先程まで頭部が崩れてカエルのようになっていた赤ん坊は、今では普通の赤ん坊だった。青くもない。

 それだけが、どこか救いのように感じられた。

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