12 「あの人」の拳

 扉が乱暴に開く。

 灰色のスウェット上下に身を包んだ大柄な男性が血走った目でこちらを見ていた。

 背の高さは斎文さんと同じくらいにみえるが、横幅は倍近くありそうだった。

 「あの人」、「タイセイくん」、ヨウコさんの同棲相手であろう彼はタバコの煙を吐き出してから、うなるようにことばを発する。


 「んだ、てめぇ、人んちで人のオンナになにしてんだよ」

 大きな指輪をはめた指をぱきぱきとならすと腕まくりをした。

 トライバル柄のタトゥーがスウェットの袖口からのぞく。


 立ち上がって半歩前に出た斎文さんの身体が、加々見大生かがみたいせいさんからわたしへの視線をさえぎろうとする。

 「ああ、いいの連れてんじゃん?」

 視線は、さえぎられたようでありながら、それでも通っていたようだ。


 「そこのオンナ、おいてけば許してやるよ」

 斎文さんの身体で隠しきれていないわたしに舐めるような視線が送られる。

 異性からの視線を感じることは、ないわけではない。それについて、気持ち悪いとかも思わない。

 わたしだって、たとえば斎文さんにはついつい見惚れてしまうのだから。

 目がいってしまうなんてことは誰だってあるのだろう。だから、気持ち悪いとは思わないし、逆に嬉しくも思わない。

 でも、この視線は嫌だ。

 値踏みするような、舐めるような視線がまとわりついてくる。視線がわたしをまさぐろうとするようで、嫌だ。とても嫌だ。


 ヨウコさんと私の前に立つ斎文さんは後ろにまわした手をもぞもぞと動かす。

 どうもハンドサインのつもりらしい。

 事前に打ち合わせなんてしていないけれど、この状況で彼が伝えたいことを察するのは簡単だった。

 

 【彼女を連れて逃げ出せ】


 「ああ、何だったら、そこのブタと交換でもいいぜ」

 一瞬だけヨウコさんに移動した視線は相変わらず、わたしを捉え続ける。

 突然、斎文さんがけらけらと笑う。

 いやらしく笑っていた相手が一瞬きょとんとなった。


 「僕ほどの美男子ですよ。両手に花ぐらいは許されるでしょう?」

 とてもわかりやすい挑発だけれど、ケチのつけようのない美男子が相手を小馬鹿にするような声音であんな発言をしたら、誰だって怒るだろう。

 あっけにとられたような顔は一瞬にして、憤怒の表情をうかべる。

 

 「てめぇ、ナメてんのか。ぶっ殺すぞ!」

 「舐めたりなんかしませんよ。だって、あなた、汚そうですから」

 今度は子どもレベルの挑発だ。子どもレベルであっても、いや、子どもレベルの挑発だからこそ余計に腹が立つのかもしれない。

 血走った目は、もう、わたしを見ていない。

 挑発する側はポケットに手をいれると、車のキーを後ろに軽く放った。放られたキーがわたしの手の中に静かにおさまる。

 チャンスだ。

 わたしは車のキーを握りしめると、反対の手でそっとヨウコさんの手を感じる。

 入口の方に目配せをする。


 「荒事は苦手なんですよ。僕は色男ですからね。あなた……得意そうですよね。いやぁ、羨ましい」

 灰色のスウェットが動く。

 斎文さんの合図を待たずにわたしは走り出す。

 ぼこっという音がしたけれど、振り返らない。

 

 「自分の顔が悪いからといって、人にあたるのはよくありませんよ。そんなことしたら、心まで不細工に……」

 斎文さんの挑発の声を聞きながら、わたしは外に出る。

 「ああ、もともと性根も曲がっていましたっけね」

 咆哮が聞こえる中、階段を駆け下りる。

 車はすぐそこだ。

 もつれる指でコインパーキングの支払いを済ませる。

 キーを握りしめる。

 ピッという音とともにロックが解除される。

 後部座席にヨウコさんと乗り込んで待つ。

 免許をとっておけばよかった。後悔はいつも先に立たない。


 カン、カン、カンという音とともに数段抜かしで斎文さんが駆け降りてくる。

 彼が長身を翻して走る。けっこう綺麗なフォームだなんていうどうでもいい感想が脳裏に浮かんだ。

 

 「シートベルトは締めましたか、山あいを少しドライブしましょうか!」


 車が出てくる。

 がこんという音がして、フロントガラスに吸い殻と灰が舞う。

 「タイセイくん」が灰皿を投げたらしい。

 ワイパーが動き、吸い殻と灰は少しずつ流れていくが、亀裂は消えない。


 「これから、廃病院に行きます。向こうで何が待っているのかは、ご存知ですね」

 斎文さんは、アクセルをぐっと踏んだ。

 「行き先に気がつかれないといいんですがね。ついてこられると……面倒かもしれない」

 続くことばは、ひとりごとのようだった。

 ミラーにうつる彼の顔は、腫れてきていた。

 わたしの視線に気がついたのかもしれない。

 「僕は祓い屋ですからね。怪異カミ専門です。腕っぷしの強い人間には、からっきしですよ」

 斎文さんは前を向いたまま、腫れた頬を動かして笑みを作る。

 そして、とりとめのない話をはじめる。

 佐田さん――わたしも会ったことのある斎文さんのお師匠さん――は、ましらのごとく動く上に、人だろうがカミだろうが構わず張り倒す見境のない暴走老人だとか、せっかく就職したのに、職場に院生時代の先輩がたくさんいて、先日は会議前にコンビニにアイスを買いに走らされたとか。

 まったく関係のない話をし続けるのは、わたしを心配してのことなのだろう。

 わたしがここで号泣でもしたら、彼はとてもとても気を遣ってしまうに違いない。

 だから、わたしも関係のない話をする。

 今年は、夏のボーナス満額もらえるんですよねとか、それでわたしに何を買ってくれるんですかとか、性悪な女の子っぽく振る舞う。

 斎文さんの変色してきた頬が少しひきつりながら笑みをつくる。

 わたしたちはじゃれあいながら、平穏を少しだけ取り戻し、ヨウコさんにもそれを分け与えられるように努力する。

 でも、それはとても難しい。

 「わたし、犬飼ってるんです。その子が大きくなっても甘えん坊で家で抱きついてくるんです」

 ヨウコさんは黙っている。

 「布津先生と散歩に出かけることもあるんですけど、ポム、あ、犬の名前なんですけど、ポムはやきもち焼くみたいで、わたしたちの間にお尻をぐっといれて割り込んでくるんです」

 「仲、いいのね?」

 わたしはうなずく。

 「でも、今だけかもよ。あたしたちもとても仲が良かった」

 わたしはヨウコさんの手の上に自分の手を重ねた。

 車が峠の道をのぼっていく。

 「わたしたちもケンカして仲直りできなくなるときがくるかもしれません。でも、そうしたら、わたし、別の人と幸せになります。一人でも幸せになります。彼が手をあげてきたら、蹴飛ばして逃げ出してやります」

 足、速いんです。わたしはつけたす。

 ヨウコさんが少し微笑んで、強いねとつぶやいた。

 「あたし、とろくさいし、足遅かったからね……でも……」

 「でも?」

 「あの人は、そんなあたしを選んでくれた……」

 車はカーブを結構なスピードで曲がった。

 シートベルトをしていても、身体が傾く。

 隣のヨウコさんがわたしにもたれかかるように倒れかかってきた。

 流れるような切れ長の目をしていた。薄暗くなってきた車内の中でも、それがはっきりとわかる。もともと綺麗な人なのだ。

 不摂生な生活をやめるだけで、元の美しさを取り戻せるだろう。

 なんて、もったいない。今度、エリちゃんを講師に呼んで、ナチュラルメイクを一緒に習おう。

 「他の人だって、いますよ。わたしたちなら、選び放題ですよ」

 もたれかかってきた彼女の手をしっかりと握る。

 それにしても……。

 「先生、運転、荒くありませんか?」

 ミラーに映る斎文さんの顔は少し険しい。

 「ごめんなさい。大変面倒なことに熱烈なファンがついてきているみたいなんですよ」

 振り返る。

 まだかなり遠くにみえるが、バイクが追っかけてきていた。

 遠目でもはっきりとわかるのは、そのあまりにも個性的な姿ゆえだ。大きな風防、これまた大きなシートがついた紫色のバイク。

 明らかに暴走族仕様に仕上げられたバイクにまたがり、ハンドルを握っているのは、間違いなく「タイセイくん」だろう。

 わたしたちがどこに向かっているのか、わかっているのではないだろうか。

 こちらを視認したら、少しスピードを緩めて、大きな音でホーンを鳴らしている。

 余裕たっぷりである。いつでも捕まえてやる、人気ひとけのないところで捕まえてやる。捕まえていたぶってやる。ホーンの音はそのようなことを大声で叫んでいるかのようだ。


 わたしはヨウコさんの手を握りしめて、前を見る。

 ミラーの中の斎文さんと目が合う。

 「大丈夫。僕のかっこいいとこ見せますからね」

 だから、少しだけ荒い運転に耐えてください。

 斎文さんは、そう言うと、人差し指を唇の前で立てた。そして、細長い指を唇の前で右から左へと動かす。

 車はぐっと加速し、ヘアピンカーブを滑るように曲がっていく。

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