11 ヨウコさんと日記
「ああ、それまたいで入って」
広いとは言えない玄関の半分を閉めるゴミ袋をヨウコさんは指差す。
タバコを落としたときの凍りついたような表情は、落ちたタバコをくわえなおすと同時に消え、再びどんよりとした膜が彼女の顔を覆うようになった。
様々なものが入り混じった臭気が鼻をつく。
臭いの原因はすぐにわかる。
でも、原因が多すぎて、どうしてこのような臭いになっているのかはわからない。
弁当の空き箱とインスタントラーメンのカップがちゃぶ台と床の上に散乱している。コバエがあたりをせわしなく飛び回っていた。
シンクにはフライパンや食器が乱雑に積まれている。シンクには赤錆がういているし、フライパンにはホコリが積もっている。長く使われていないのは明らかだった。
口をしばっていないゴミ袋からあふれんばかりにのぞくゴミを見る限り分別には忠実ではないようだ。
ゴミ袋がかさかさという音とともに動いた気がするが、それは気のせいだと思いたい。
鼻をおさえたり、顔をしかめたりしたら、失礼だ。
だから、わたしは意識して口角をあげる。
微笑みが顔にうかびますように。
ヨウコさんは、敷きっぱなしの布団の上に座ると、吸っていたタバコをチューハイの空き缶の中にねじ込んだ。
中身が少し残っていたのかもしれない。
じゅっと音がした。
彼女はちゃぶ台の上に置かれたタバコの箱をくしゃっと潰す。あれが最後の一本だったらしい。
「ねぇ、あんた、タバコある?」
ソフトケースを軽くふると、一本の吸口が飛び出た。
ヨウコさんがそれを口にくわえると、斎文さんは黙って火をつけた。
「あんたも吸っていいよ」
斎文さんは礼を述べると、タバコをくわえて火をつけた。
ヨウコさんはわたしのほうも見る。
「わたしは吸わないので……」
ヨウコさんは、鼻で笑ってから、立ち上がる。そのまま小さめの冷蔵庫からチューハイを一本取り出した。開いた冷蔵の中は缶がいくつか並ぶだけだった。
「ごめんね、お客さんの分は切らしてるんだ」
斎文さんは笑みを浮かべながら、「お気になさらずに」と答えて、こちらを見る。
「つまらないものですが」
わたしは事前に用意していたお菓子の詰め合わせを差し出す。
「ああ、ありがとう」
ヨウコさんは、受け取ると、そのまま後ろに置いた。
彼女がうしろを向いた時、横に乱雑に置かれていた数冊のノートが青く光ったように見えた。
「病院で、あの子は見つかったのね」
彼女は泣きながら笑っていた。先程までのどんよりとした膜は涙で溶け落ちていた。
「生まれることすらできなかったあの子がみんなに見てもらえたのね」
赤ん坊がカエルのような顔をしていた理由を知る。
ただ、その後に続いたことばは理解できないものだった。
「でもね、あの子は……元気に遊んでいるわ。昨日だってね」
彼女は子どもと一緒にピクニックしたことを楽しそうに語る。
「ユキちゃんはね、どんどん大きくなるの。やっぱり母乳で育てるのが大事よね。あとね、やっぱり日光浴って大切なのよね」
彼女は人が変わったかのように話し続ける。
先ほどのどんよりとした瞳はきらきらと輝いているように見えるし、わたしたちのほうを向いて話している。
でも、そのきらきらした目はわたしたちをまなざしていない。そのことばはわたしたちに向けられていない。
ただ一人で話し続ける。虚空に向かって。目の前にいるわたしたちが見えていないかのように。
「ちょっと、トイレ」
彼女の目が再びどんよりとくもった。
足を引きずるようにして、のろのろとトイレに向かう。
彼女の座っていた場所に置かれたノート、先ほど青く光ったかのように見えたそれのタイトルが偶然目に入った。
〈幸康くん 育児日記vol. 34〉
「ごめんなさい」
いけないと思いながらも、開いてしまう。
そこにあったのは、他愛もない育児日記……のように見えて、すべてにおいてどこかおかしいもの。
「他にお子さんがいるようには見えませんね」
斎文さんが悲しそうな顔をして続ける。彼女が話している
「多分、それが……」
「カミが顕現した一因ですね。だったら、これを……」
「処分しなければならないものですが、彼女自身が書き続ける限り無限に生産されていくわけで、難しいところです」
わたしたちが顔を見合わせていると、水道を流す音がした。
「そろそろ、あの人も帰ってくるわ。
どうしたら、良いのだろう。
わたしが迷っていると、斎文さんが単刀直入に切り出した。
「シェルターに行きましょう」
「どうして?」
「この痕が」
「これは私が勝手にやったのよ」
タバコを押し付けた痕のある手の甲、手を握りしめながら、諭す斎文さんに向けて、ヨウコさんは突然、艶のあるまなざしを向ける。
しなだれかかるように身体を押し付けた彼女が続ける。
「ねぇ、あなた、私とやりたいの?」
彼女は斎文さんの指をにぎりしめると、自分の胸元に持っていこうとする。
「ほら、そこ。そんなところに自分でひどい痣は作れませんよ」
彼女の指とともに鎖骨から肌を撫でていた斎文さんの指がとまる。
「そんなこと、どうでもいいわ。ねぇ、あなた、やりたくないの?」
彼女の指が斎文さんの指を胸元に誘い込もうとする。
彼はヨウコさんと指をからめたまま、その手を自分の顔の前にもってくる。
女性にかしずく騎士のような姿勢で、斎文さんは語りかける。
「僕は案外ロマンチストで、好きでもない相手と肌を重ねたいとは思いません。今、僕がやりたいのは、あなたをここから救い出すことです」
「あなただけではない、あなたの子どもだって」
ヨウコさんはキャーッという奇妙な叫びをあげると、斎文さんの顔をひっかいた。
避けることはできただろうに、斎文さんはそれをしなかった。
彼の頬にできた赤い筋から血がにじみ出ていくのと同時にわたしの口から息がふぅっと漏れた。
手を伸ばすわたしの膝を軽く押さえると、彼は静かに言った。
「さぁ、ここから出ましょう」
身体をこわばらせて爪を噛んでいたヨウコさんの肩がかくっと落ちた。
斎文さんは彼女を包み込むように抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫ですよ。落ち着けるところに逃げましょう」
斎文さんは振り向くと、わたしを手招いた。
わたしが二人の上から抱きつくと、すぅっと彼女からモヤのようなものが離れた。
モヤが離れた彼女は疲れた顔でつぶやく。
「でも、あの人が帰ってきたわ」
ヨウコさんは、ドアをみやる。
ハイハイする赤ん坊はここには存在しない。
でも、少なくとも「あの人」が帰ってくることは本当らしい。
バイクのマフラーの音、それも何かしら手をくわえたようなそれの音が階下で響いたかと思うと、カンカンとサビた階段を上る音がした。
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