08 気配、夢、べたっとした視線

 赤子の姿をとるカミは消えていない。布津はほどなくして気づかされた。

 何も感じなかったのは、供養のあと、数日に過ぎない。

 最近は視線を感じる。それも自宅でだ。

 視線を浴びせてくるものが何であるかは、眠りにつくとわかった。


 夜、布津の身体は動かなくなる。

 どういうわけか、これが夢であることは布津にはわかっている。

 ただし、夢から覚めることは許されていない。

 それに身体が動かないのは不便だ。

 どうにかしてくれと念じると、ようやくまぶたが開く。

 目の端にちらついたものを追って、眼球だけをゆっくりと動かす。

 部屋の隅の暗がりからカエルの顔をした青白いそれが這ってくる。

 眼球とまぶた以外を動かすことができない。

 赤子が視界から消える。

 あいかわらず身体が動かない。

 腹の上に何かが乗ったのを感じる。

 ずるりずるりと掛け布団の上を這いのぼってくるそれの重さが急に軽くなる。

 次の瞬間、布津の鼻先に青白く濡れそぼった顔がこちらを見つめている。

 いや、見つめているという言い方は不正確だろう。

 赤子の崩れかけた顔の中央にある目は固く閉じられている。

 かたく握りしめた小さな手が布津の頬を叩く。

 冷たくぬめっとした小さな拳が布津の顔をとんとんとんとんと叩く。

 ここでようやく布津は夢から覚めることを許される。


 はっと目を開ける。

 自分の上には何も乗っていない。

 先程まで布津の顔を叩き続けていたそれの姿はない。

 それでも、気配を感じる。

 べたっと湿った視線がまとわりついてくるのだ。


 恋人は大丈夫だろうか。

 布津はスマートフォンを手に迷う。

 時計は午前三時一三分を示していた。

 何もなかったら、起こしてしまう。

 迷っている矢先に、メッセージアプリの通知が届いた。

 

 〈ポムに起こされました〉


 彼女は普段はこんな時間にメッセージを送ってきたりはしない。

 布津はすぐに通話ボタンを押す。

 すぐに恋人の声がした。

 

 「大丈夫ですか?」

 開口一番、挨拶もせずに切り出した布津の様子に恋人は驚いていなかった。

 「大丈夫です。なにかがいるけれど、ポムが横にいてくれるから」

 布津にやきもちをやいてくる大型犬は、自分の主人を騎士のように守っているようである。

 「ちょっとまってくださいね」

 恋人はそう言うと、ビデオ通話に切り替えた。

 パジャマ姿の恋人の横には案の定、大きな白い犬がぴったりと寄り添っていた。

 その背後、壁面には布津の夢の中に現れた青白いカエルのような顔をした赤子がいた。

 ポムは気がついているのだろう。

 大型犬はたまに後ろをふりむくが、その尻尾はたまにゆらりと揺れる程度であった、。


 (向こうには悪意はないということか)


 「それにしても、あなたはパジャマ姿も可愛らしいですね」

 布津は冗談めかしながらも、恋人への愛情を少しでも伝えようとする。

 聡明で美しい彼女が自分のことを見ていてくれるのは、とても嬉しいのだ。

 愛おしいと見つめる視線に彼女の騎士たる大きな毛玉が反応する。

 ぐっとカメラ前に割り込んでくる。


 (カミよりも僕のほうが悪質ということか)

 布津は苦笑いする。

 ただ、この毛玉の騎士のことを布津は信用している。

 (君が大丈夫だというのならば、あの赤子も何もしてこないんだろう)

 頼んだよと布津が念じると、答えるようにポムの尻尾がゆらりと揺れた。

 秋田犬の顔の脇からきれいな瞳を宿した顔がひょっこりと出てくる。

 「ポムはトキフミさんにすごい対抗心を燃やすんです」

 「僕の最大のライバルですからね」

 恋人がふざけたように舌をぺろっとだす。

 「夜分にごめんなさいね。ポムくんがいれば、安心です。ゆっくりと休んでください」

 おやすみの挨拶とささやかな愛情表現のことばを添えてから、布津はビデオ通話を切る。

 恋人の無事は確認できた。次にやることは、身体にまとわりつくべたりとした汗をなんとかすることだ。

 熱いシャワーはべたつく汗を洗い流してくれるが、べたつく視線を流してはくれない。

 (はやいところなんとかしたほうが良いな)

 布津は鏡越しに青白いそれを見つめた。


 ◆◆◆


 インフォーマントを紹介してほしいというのは、一種の縄張りの侵害みたいなものだが、田村という旧知の社会人類学者は気さくに応じてくれた。

 ある年、布津は学会の懇親会で、この年長の研究者と話し、どういうわけか意気投合して飲み明かしたことがあった。

 「宗教とか伝承とか抹香臭いことが専門の君が、俺の専門に興味持ってくれるなんて嬉しい限りだよ」

 学問領域も違い、専門としてやっていることがまったく異なったことも縄張り荒らしのように警戒されない理由かもしれない。

 「まぁ、暴走族に伝わる怪談みたいなものを調べているので、僕はけっきょく僕のままなんですけれど」

 そうつぶやく布津に対して、モニタの向こう側で研究者にはとうてい見えない研究者は笑う。

 「それはそれでおもしろいな。そういえば、それこそ走り屋の伝承みたいなことやりたいって学生がいるんだわ。今度、お前に紹介してもいいか」

 布津はほほえみを浮かべながらうなずく。

 考えてみれば、面白いテーマだ。自分でもやってみたいくらいである。布津はそのようなことを考えている。

 「いいですね、勉強させてもらいたいです」

 別のことに気を取られず話を聞けるように、はやく解決しなくては。

 「じゃあ、再来月の学会にでも連れて行くわ。お前も出席だろ?」

 (はやく解決しないと、発表準備も終わらないな)

 布津は再び、しかし、今度は少しだけひきつった笑顔でうなずく。


 ◆◆◆


 ナビに導かれて着いたのは、駐輪場のような場所に数台のバイクが並ぶ建物だった。

 田村が紹介してくれた相手は、ライダーハウス――ツーリング客用の簡易宿泊施設――を経営していた。

 布津自身はツーリング経験がなかった。ただ、ツーリングにはまった悪友たちから経験談を聞かせてもらって心躍らせたことがあった。

 簡易宿泊施設を渡り歩くようにして日本中を回ったという彼らの話には、実のところ、今でも心惹かれるだろう。

 (バイクを買おうか)

 布津はそんなことを考えながら、ライダーハウスの前に立つ。

 「楽しそうですね」

 恋人のことばは、彼女自身の興味か、布津の心を見透かしたものか。

 宿泊施設の横にはアメリカのバイカーたちが集うようなバーが併設されている。そちらに約束相手はいるはずである。

 中で待ってくれていた相手、神田に挨拶をする。

 布津が大学のロゴの入った日本酒を渡すと、神田の強面な顔が人懐こい笑みをうかべた。

 

 「田村センセイ、最近も結構会いますよ。ていうか、もう、お互い、おっさんだから、引退してからの付き合いのほうが長いかもな。今も同じバイククラブで一緒にツーリングやってんの」

 田村と同じように黒い革のライダーベストからのぞく腕は太く、威圧感がある。

 「田村先生は、昔から、あんなに強面だったんですか?」

 布津は雑談ながらも、実は聞きたいこと――仕事には一切関係ないこと――を聞いてみる。

 自分自身も姿格好について、話のネタにされることはよくある。

 ただ、姿格好では圧倒的に田村のほうが異色だろう。少なくとも自分は初めていったキャンパスであっても警備員に止められることはない。

 「いやいや、最初は七三分けでメガネでね、ただ、どういうわけか、これが滅法腕っぷしが強くてね」

 論文や本では削られている調査者のエピソードを集めていくと、一種の実験民族誌になるだろう。

 布津は強面の研究者の顔を思い浮かべ、笑顔で相槌をうってから、恋人のほうに話をまわす。

 「僕の指導学生の志佐といいます。今日は一緒にお話をきかせていただくことになります」

 横にいる恋人はまったく臆すことなく、挨拶をする。

 神田のライダーベストに興味津々らしく、あれこれと質問をしている。

 フィールドワーカーとして、上出来だ。

 布津の視点は恋人から教師へとかわっている。

 いきなり本題に入るのではなく、相手の話を聞いたり、相手が話しやすそうなところから入っていくという技術は、なかなか座学では教えられない。

 神田が今主催しているバイククラブの話がひとしきり終わったところで、神田は「ああ、そうそう」とつぶやく。

 丸太のように太い腕がぴくりと動いた。

 「そうそう、廃病院の話だったよなぁ。俺も知らなかったから、若いやつらに声かけてみたんだわ」

 そのとき、外から声がした。

 「話をすればってやつだな。おう、ケイタ、ひさしぶりだな」

 二十代前半とおぼしき青年が身をかがめるようにして入ってきた。金に染めたボリュームのあるオールバックの下のサングラスが値踏みするように布津たちに向けられる。

 「こいつ、まぁ、あのあたりが縄張りでちょっと前まで頭はってたやつね。矢田啓太。啓太、こちらは俺のダチの後輩の布津さんと学生さんの志佐さんな。挨拶しろ」

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