06 小さなからだ
「どうして過疎地域の廃病院に赤ん坊が出てくるのでしょうか」
わたしは助手席でつぶやく。そもそも産院でない小さな診療所だったのだ。
「今のところ、どうにも……」
運転席の
山あいの曲がりくねった道を車は進んでいく。
伝手をたどっても話を聞けるようになるまで時間がかかる。
だから、今のうちにもう一度現場を見ようということになったのだ。
曇り空のせいだろうか、前回訪れたときよりも薄暗い。
暑いわけではないのに、背中にじとっとした汗が流れている。
「すこし、いや、とても嫌な雰囲気がします」
わたしのつぶやきに前をいく斎文さんが振り返る。
「同感です。どうも、先日よりも視線を感じる」
ここにいる何かがわたしたちを警戒対象として認識でもしているのだろうか。
どこから見ているのだろう。わたしたちを見ているものたちの数はどれほどだろう。
斎文さんが、わたしの手を握る。
わたしの心の中の恐れをふりはらってくれるひんやりとした長い指。
「大丈夫、僕がいますよ。何があっても、僕はいます」
さぁ、行きましょうと斎文さんがわたしの手をもう一度とる。
進みたくないと訴える足を屋内に向けて突き出していく。
診療室に入るなり、わたしは診療用ベッドであったものに目をやってしまう。
前回、来たときに気がつくとぬいぐるみが置かれていた場所だ。
そこに、ぬいぐるみはない。
また、目を離したすきに妙なものが置かれているのではないかと思うと、ベッドから目が離せない。
常にベッドを視界にいれながら、あたりを調べていると、斎文さんがわたしの手を握りしめていう。
「また、ぬいぐるみですね」
今度は廊下、来るときに通ってきたところにぬいぐるみが鎮座していた。
ぬいぐるみの目がわたしたちを見つめる。
わたしはカバンの中の呪符を掴む。わたしも祓い屋が使う刀――カミしか切れない刀をもっているが、斎文さんや彼の師匠の佐田さんのように、すばやく美しく抜くことができない。今のところ、呪符のほうが頼りになる。
ぬいぐるみではなく、その横が青くぼうっと光る。
そこに座っているのは青白い赤ん坊。
ただし、その頭は半分崩れていて……、そう、カエル、先日の解体業の親方さんの話に出てきたカエルのような青白い赤子であった。
部屋の四方八方から赤子の泣き声が聞こえてくる。
わたしは思わず呪符をまく。
呪符は赤い光となって部屋を舞おうとした。でも、うまくいかない。赤い光は一瞬で消え、ただの紙切れと化した呪符はそのまま力なく地面に落ちた。
集中できていないのだ。恐怖に呑み込まれてしまっている。
「バサラダイショ、バサラダイショ、コトワリの前で……」
斎文さんが祭文を唱えはじめたとき、赤子の泣き声は消えた。
廊下のぬいぐるみも、横に寝そべる青い赤子も見えなくなっていた。
「敵意は……ない。ただ、僕らをどこかに誘導したいようですね」
斎文さんがこちらを見る。
「ごめんなさい。わたし、焦ってしまって……」
わたしは焦って無駄に呪符をばらまいただけの失態をわびる。
「何をいっているんですか? 僕が入門したての頃は、もっとひどかったですよ。あなたは僕なんかより、よっぽど優秀です」
斎文さんはなぐさめのことばをかけてくれたあとに、真顔をつくって続ける。
「あ、でもね、あのセクハラオヤジに僕の若い頃の失敗を聞いちゃ駄目ですよ。あの人は適当なこと言いますからね」
真顔があっという間に笑顔になる。
釣られてわたしも笑顔になる。
彼のいう「セクハラオヤジ」、斎文さんのお師匠様はなかなか素敵な人だ。彼らはお互いのことを思いやっていて、お互いのことが大好きだけど、そんなことは絶対に認めようとしないし、口に出すこともない。お互いへの思いやりと好意を隠すために、子どものような悪口でごまかし合っているところがとてもかわいらしい。年上の男性二人をかわいらしいって、なんだかおかしい。でも、そうとしか形容しようがないのだ。
「ほら、すてきな笑顔だ。さぁ、向こうも待ってるでしょうから、廊下に出ましょう」
漆喰の剥げた壁の先では再び、ぬいぐるみと赤ん坊が待っていた。
周囲から赤ん坊の泣き声も聞こえてくるが、焦って二度も失敗したりはしない。
呼吸を乱さないようにしながら、斎文さんの背中についていく。
ぬいぐるみがどういうわけか一人で歩き出し、そのあとを赤ん坊がきゃっきゃと声を立てながら這っていく。
建物の外に出ると、かつては花壇であっただろうところにぬいぐるみだけがちょこんと座っていた。
近づくとぬいぐるみが霞んでいく。
ここに連れてきたかったらしい。
「ここに何かがあるのでしょうね」
その何かは、見て楽しくなるものではないことは確かだろう。
「金銀財宝のようにありがたいものが埋まっていたりは……しないでしょうね。見ると辛くなるものが出てくるかも、いえ、十中八九見たくないものを見ることになるでしょう。よそをむいていてもいいですよ」
斎文さんの気遣いに大丈夫ですと答える。
こういう稼業である以上、なにかしら、恐ろしいもの、悲しいものに出会うことは、おそらく避けられない。
だから、目をそらさない。斎文さんは目をそらすことをしない、できないのだから、わたしだって目をそらさない。
「一つしかないので、僕がやりますね」
斎文さんは車のトランクから折りたたみのスコップを取り出すと、地面を少しずつ掘り始めた。
少し掘ったところで斎文さんの手がとまった。
見覚えのある、しかし、土と混じり合って汚れ、ほころびたぬいぐるみが姿をあらわす。
斎文さんはスコップを脇に置くと、手で土をかきわける。
ああと斎文さんが悲痛な声をあげた。こんな声を聞くのははじめてだった。
わたしの頬を涙が濡らす。
ぬいぐるみのすぐ下に眠っていたのは、小さな
もともと小さいのに肉を失ってさらに小さくなってしまった、タオルにくるまれた遺体。
わたしはトキフミさんの胸にすがりついた。
わたしの涙は彼の胸を濡らし、彼の涙がわたしの髪の毛を湿らせる。
◆◆◆
警察と牧田家に連絡をし、現場検証や事情聴取が終わった。
わたしたちは、牧田くんに頼まれたということ、あとは身元がしっかりしているということで、お咎めなしであった。
牧田くんのお父さんは、人当たりの良いおじさんで、「うちが頼んだことで恐ろしい目に合わせてしまって」と恐縮するばかりであった。
牧田診療所は外科と内科だけで産科を掲げていたりはしない。
だから、これは診療所とは関係のない遺体遺棄事件として捜査されることになった。
どうなるのかはわからない。
わたしたちにできるのは、供養の場に立ち会うことくらいであった。
数日が過ぎた。
「これにて一件落着となるんですかね」
斎文さんは、そういうと、愛おしそうに眺めていたフィナンシェを口に放り込んだ。
フィナンシェは研究室を訪ねてきた牧田くんと彼のお父さんがもってきてくれたものだ。
牧田くんのお父さんは、厚めの封筒を斎文さんに渡そうとしていたが、斎文さんは自分は何もしていないし、これで解決したかもわからないと答えて、応接机の上の封筒を押し戻した。牧田くんのお父さんはお父さんで、なんとかして受け取ってもらおうとしていたが、斎文さんは副業禁止ですからと断ったところで、ようやくあきらめて封筒をカバンに戻した。
それでもお菓子に関してはありがたくいただき、春休みで訪ねてくる人も少ないからと自宅にもって帰ってきているわけだ。
「美味しいけど、バターやアーモンドって食べすぎると肌荒れしちゃうんですよね」
わたしのことばに斎文さんはきょとんとしている。
ああ、この人は、その肌を何の努力もせずに維持しているのだった。
そういえば、佐田さんと一緒の時はタバコも吸ってたしな。
「これは……僕のだから、あげませんよ」
そういうことじゃない。
わたしはこの鈍感な年上の恋人の頬をひっぱってやることにした。
頬をひっぱる指は細いのに力強い指に絡め取られる。
そのまま彼の指はわたしの頬を撫でる。
フィナンシェには負けていないようだ。
彼の唇はアーモンドの味がする。
穏やかな時が流れる。
しばらくして、斎文さんがわたしの指を撫でながら言う。
「でも、なんか気になるんですよね。あれだけで終わりならば、僕らでなくともよかったでしょうに」
斎文さんの言う通りだった。
残念なことに一件落着にはならなかったのだ。
わたしたちは数日後、それを理解する。
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