第9話

「先輩」

「ぎくっ」


 学校へ向かう春の朝。私が感情のない声に振り返ると、そこには戸部さんがいた。


 気まずい。


 ――恋は、嘘で編むんだから!


 戸部さんの言葉を思い出して、胸が熱くなる。

 私は戸部さんの言葉に救われて、本当に救われて、またぼちぼち小説を書く準備を進めていたところだった。けれど、戸部さんに酷すぎるやつあたりをした私は、同時に自己嫌悪に陥り、戸部さんと会うのがひじょ〜うに躊躇われた。


 現実は非情だ。

 私の心の準備もなしに、また通学路で戸部さんとばったり会ってしまった。


 家、やっぱり戸部さんと近いのかな。


「ああ……。おはよ、戸部さん」

「? おはようございます」


 私はたぶん変な表情をしていたのだろう。戸部さんはこてんと首を傾げた。相変わらず真顔で。

 昨日みたいに笑顔じゃないのに、私の心臓の奥がそわそわとする。


 戸部さんのあの言葉と、あの可愛すぎる笑顔。もし私じゃなかったらみんな恋に落ちていたのだと思う。


 恋をしたことのない、私じゃなかったら。


「……ねえ、戸部さん」

「なんですか?」

「昨日は、ほんとうにごめんなさい。私、自分が下手くそなのが悪いのに、戸部さんに酷い酷いやつあたりをしちゃった。ほんと、最低だよ」


 私は頭をめいっぱい戸部さんに下げる。視界の端に、戸部さんのピカピカのローファーが映った。


「誰だって初めはうまく書けません。だから仕方ないです。私は全然気にしてないですよ」


 戸部さんは「顔あげてください」と、私の両肩にぽんっと手を置いた。私は顔を上げる。


「戸部さん、戸部さんはどうしてそんなの優しいのさ〜〜」


 本当に、戸部さんは天使だ。可愛いし、優しい。本当は制服の裏側に真っ白な羽を隠しているのではないだろうか。


「優しいですかね? けっこう普通のことを言ったような気がします」

「ほんとに優しいから、自信持ちなよ」


 今度は私が戸部さんの肩を叩いた。


「あ、そうだ! 戸部さんに聞きたいことがあったんだった!」

「え、なんですか?」

「戸部さんはどうして小説を書き始めたの? なにきっかけ?」


 私が戸部さんに聞くと、戸部さんはうーんと唸って、くるりと一回転した。スカートがふわっと膨らんで、花みたいだ。


「私も創作してみたいなーって思ったときがあって、小学二年生のときだったんですけど」

「はや!?」

「識字率100%って言われてるこの国で、いちばん簡単に始められる創作が小説だなって思ったので、小説書いてみようかな、みたいな感じで書き始めました」

「へえ〜〜。けっこう消極的な理由なんだね」

「それに私、絵描くの苦手なので」

「え!? 絵描けないの!?」


 私はびっくりして聞き返してしまった。


「はい。苦手です」


 戸部さんはもう一度同じことを言った。

 天才戸部さんにもできないことがあるんだ!


 天才が苦手としているところを見つけると、なんだか嬉しくなってしまうのは、私の性格が悪いからでしょうか。


「はい。苦手です」

「じゃあ美術の成績あんまりよくなかったんだ」

「いえ、最高評価です」

「んえ?」

「あと、絵が市で表彰されたことがあります」

「はえ!?」


 苦手とは……。


 戸部さんは「あくまでもそれが普通です」と言わんばかりに言ってみせた。戸部さんの表情からも声の色からも、自慢は感じられない。私なら三年間は自慢する。


「なーんだ。天才は天才なんだ。どんな絵描いたか見てみたいかも」

「私は天才じゃないですよ。なんか、色をいっぱい使ったって感じの絵です」

「全くわかんない」

「実際に見てもらうのが早いですかね? 市のホームページにたぶん載ってると思います」


 戸部さんは歩きながら手早く検索し始める。中身は偏光で見えないけれど、歩きスマホは危ないのは身をもって経験したから私は戸部さんの代わりにしっかりと前を向いて歩いた。


「これです」

「え、おお〜〜……」


 戸部さんが見せてくれた絵は、常人の私には全く理解できない感じの絵だった。なんて説明したらいいんだろう。なんか、まあ確かに色はいっぱい使われている。

 私は仕方ないけれど、せめて作者の戸部さんはこの絵の意味を説明できないといけない気がするのは気のせいだろうか。


 額縁の下には、〈口虚 三年二組 戸部澄火〉と紙が貼られていた。タイトルどうやって読むんだろう。


「……んえ?」


 私は腑抜けた声が出る。そういえば、戸部さんの下の名前を初めて見た。


 そっか。

 sumika._.って戸部さんの名前から取ってたんだ。


 戸部さんの名前、かわいくてかっこいいな〜〜……。


 私は戸部さんを見る。名前は澄んだ火と書いて澄火。可愛いとかっこいいが合わさっていて、素敵な名前だ。


「戸部さんの下の名前ってすみかなんだ?」

「え、そこですか? はい。言ってませんでした?」


 私は戸部さんとの記憶を辿る。まだどれも鮮明に思い出せるけれど、戸部さんは自己紹介は全て「戸部です」で済ませていた。


 うん。言ってない。いつもの言葉足らずだ。


「絶対言ってない」

「そうでしたか。では改めて。戸部澄火です」

「ああ、どうも。入末のぞみです。あ、のぞみは平仮名です」

「あ、そうだったんですね」


 私達はわけもわからず、どちらからともなく、なぜか握手を交わした。


「ところで先輩。今日の放課後は」

「空いてるよ?」

「やった」


 戸部さんは小さくそう言って、握りこぶしを作った。それはちょっとかわいすぎると思う。


「先輩。放課後屋上に来てください。伝えたいことがあります」

「あー屋上で伝えたいことがあるんだね。わかったー……。って」

「屋上で伝えたいコト!?」


 それって、と言おうとしたところで、私は言葉を飲んだ。

 戸部さんの表情が真剣に見えたからだ。

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