第7話

 放課後、夕日の差し込む玄関は静かで、どこか切ない雰囲気が漂っている。

 大人になっていつか、この切ないオレンジ色の玄関を思い出す日は、私にくるだろうか。

 私はそのとき、どんな大人になっているだろうか。


「お待たせしました。先輩」


 私が今のフレーズをメモしようかなと考えていると、戸部さんが下駄箱の影からひょこっと顔を出した。夕日を浮かべる戸部さんの瞳孔が、ゆっくりと動いている。


 のがわかるぐらい近いんだけど!?


「と、戸部さん近すぎっ」


 私が戸部さんの肩を押すと、戸部さんは「そんなに近かったですか?」と言って、首を傾げた。戸部さんの距離感はどうかしていると思う。

 そういえば何か聞くときに首を傾げるのは戸部さんの癖、なのかな。可愛い。


 私の癖だったらきっと、イタく見えるんだろうな……。


「先輩、何か悪いことでもありました?」

「ううん。ないよ。帰ろ」

「はい」


 戸部さんは一年生の下駄箱の方へ、とたとたと歩いていった。


「ねえ、戸部さん。どう? この高校は」


 帰路を歩きながら、隣を歩く戸部さんに聞く。戸部さんは「まだわからないです」とこぼした。


「友達できた?」

「あ、できません。この学校でまともに話したの、入末先輩と畑山遥先輩だけです」

「えっ。戸部さんってすっごく頭良いんでしょ!? それでみんなからけっこうチヤホヤされてるのかと思った」


 戸部さんは小さな石をピカピカのローファーで蹴飛ばした。石は不規則に転がって、止まったところで影を伸ばしている。


「勉強ができるならば頭が良い、という命題は十分条件じゃないと思います。私は多分、頭は悪いです。なので人間との関わりかたはよくわからないです」

「十分条件……? よくわかんないけど、戸部さんが頭悪かったら私サボテンくらいしかIQないよ。それに、人との付き合いかただって、わかるようになるよ」

「そうですかね。あれ、先輩って、勉強できないんですか?」


 戸部さんはまた、首をこてんと傾けた。戸部さんは小動物みたいな可愛さがあって、なんというか撫でたくなる。


「ぜーんぜん。クラスで最下位争いしてる。私が得意なのはあやとりだけ」

「あやとり。私全くできないですよ」

「あんまりやる機会ないもんねー」


 私も最後にいつやったか全く覚えていない。家の引き出しの奥底でぐっすり眠っているに違いなかった。


 それにしても戸部さんはいつも無表情だ。表情筋があんまり発達していないのかな、と思いたくなるほど表情が変わらない。だから、今私と話していて楽しいか、楽しくないか判断できない。


「戸部さん、今私と話してて楽しい?」

「楽しいですよ?」


 戸部さんは真顔でそう言った。うーん、本当なのかな。


「先輩。本題に入ってもいいですか?」

「あー、そのことなんだけどね」


 私は一呼吸おく。戸部さんは頷いた。


「私の小説、まだ完成してないんだ」


 私は戸部さんに嘘をついた。本当は完成していて、ネットにもアップ済みだ。

 私は戸部さんと帰るとき、「完成してない」と嘘をつこうと思っていた。あんな作品を戸部さんに見せるのはやっぱり気が引ける。


 あんな、誰にも評価されなくて、どこの誰かもわからない人に二次創作されて、クオリティをさっさり超えられてしまったような、あんな作品を。


 そう考えると、なんだかみじめだな。私。


 私はそれでも嘘を悟られないように、戸部さんから目を離さなかった。戸部さんは私の目をじーっと見てから、夕日に手をかざした。


「嘘、ですよね」

「え……?」

「見せたくないなら見せたくないでいいですよ」

「ちょ、ちょっと待って。なんで嘘ってわかるの?」

「だって」


 戸部さんは私の頬をそっと撫でた。


「先輩、悲しそうな顔してる」

「うっ……」


 戸部さんは無表情だ。けれど、その声はどこか優しくて、やわらかかった。


「と、戸部さ〜〜ん」

「わっ」


 私は戸部さんに抱きついた。抱きついてから思ったけれど、どっちが先輩か後輩かわからないな。情けない。


 でも、私は私なりに辛かったのだ。


 いくら素人、しかも初心者だからって私の今出せる全ての力を尽くしたし、残り少ない青春をかけてあの小説を書いたし、何回も悩んでようやく完成させた。それなのに、それなのにファボ1で、しかも私の小説本家をゆうに超える二次創作を作られて。


「戸部さんっ。ちょっとだけ聞いてほしい」


 そうだ。誰にも言っていない私が悪いのだけれど、私はずっと一人だった。一人で小説を書いて、一人で添削して、一人で投稿した。


 誰にも、頼ることができなかった。


 けれど、戸部さんは私が小説を書いていることを知っている。戸部さんになら、話せる。


「なにかあったんですか?」


 戸部さんは私を優しく引き剥がした。


「あのね、私、小説を書き始めたのはほんの数ヶ月前、春休み入る前からだったんだ」

「そんなに最近だったんですね」

「うん。私なりに頑張って書いて初めて作品を完成させたんだけど、評価は全然来なかった」

「そしたら、たまたま私の作品の二次創作を書いてくれた人がいて、その人の二次創作を読んだの。その二次創作はすごかった。二次創作なのに私の作品なんかよりも、ずっと」

「それで、そんな上位互換がある原作小説を戸部さんに見せるなんて、恥ずかしくてできないなって」

「そういうことだったんですね」


 戸部さんは私の話をひと通り聞いたのに、表情一つ変えなかった。あまり興味のない話題だったかな。

 確かに戸部さんからしてみれば、昨日たまたま会った頼りがいのない先輩の、小説の話なんてどうでもいいかも。

 戸部さんが、不意に立ち止まる。春の夕暮れはまだ、少し肌寒い。


「だから、戸部さんには、見せられないよ」

「約束したのは先輩ですよ。それに、下手とか上手とかどうでもいい……わけでは正直ないですけど、気にならないですよ」

「でも……」

「私は先輩のありのままの小説が読みたいです。先輩、気づいてないと思いました?」

「え?」


 戸部さんはぐっと距離を縮めてきた。戸部さんのスカートが私のスカートに触れるくらい、近い。


「私は表情に出すことがそこまで得意ではありません。得意というか、出ません。だから、私と話してても楽しくないって言う人がほとんどです」

「あっ」


 だから、一人で――。


「先輩も私がなに考えてるかわからないって思ったと思います」

「……正直、思った」

「でも、今の私の言葉も憶測にすぎないです」

「つ、つまりどういうこと……?」

「誰も、誰がなに考えてるかなんてわからないんです」


 戸部さんは真顔で、私の目をじっと見る。


「でも、創作はその人の心のうちがわかるような気がします。だって、創作は、その人の心の中にしかない物語が、アニメや漫画……小説となって形を変えて表現されるものだから」

「それはっ」

「まだ終わってません」


 私が言い訳に近いような言葉を言おうとしたところで戸部さんはそれを止めた。私は一歩後ずさる。


「二次創作は借り物でしかありません。小説という形ではどれだけ先輩より秀でていたって、それは文章が上手なだけで、先輩の心のうちにある物語まで完璧になぞれるはずありません」

「私は、そんな先輩にしか描けない物語が読みたいんです」

「戸部、さん……」


 私はどこかで勘違いをしていた。

 戸部さんは、たまにYとかで創作を軽く見たり読んだりするだけの人だと思っていた。でも違った。


 戸部さんは私と同じ、創作に魅せられた人なんだ。


 戸部さんの表情は相変わらず無表情だ。けれど、瞳が、声が、私の手を強く掴む手が、戸部さんの心の中を表現しているように感じた。


「……先輩? いいんですか?」

「うん。戸部さんに、読んでほしい」


 気づくと、私はアプリを立ち上げて、自分の小説を戸部さんに見せていた。戸部さんはゆっくりと手を離して、私のスマホを手に取る。


「っ――」


 戸部さんが画面に視線を落とすと、瞳が大きく揺れた。

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