第2話

「行ってきまあ〜〜っす……」


 私は重たい腰を上げる。ローファーのつま先でトントンと床を叩き、家の玄関を開けると、すぐに土のにおいが私の鼻腔をくすぐった。


 春のにおいだ。


「気づいたら冬、終わってたな」


 私がひとりごちると、桜の花びらが青い空にたくさん舞った。道路をピンク色に染め上げていく。


 高校生活最後の春が、私のスカートを揺らす。


「あ! 春が私のスカートを揺らす。これは使えそうだからメモしておこう」


 私はスマホを取り出して、メモアプリから「小説いい感じの表現メモ」を開き、「春が私のスカートを揺らす」と打ち残した。我ながらいい表現だ。センスあるかも。


 小説は、ファボ0だったけど。


「う、うう……」


 右肩に赤い点のついていないベルが脳裏によぎる。あの小説投稿アプリを開くのがトラウマになりそうだ。


「私の心は春の空と違って、新学期そうそうどんよりしてます……あっ」


 今の対比もそこそこ使えそうな表現だからメモしておこう。


 小説は、ファボ0だったけど。


「はあ〜〜……」


 これから小説のことを考えるたびに、無反応だったという痛い現実が私を襲うのだと思うと、かなり憂鬱な気持ちになる。私は画面を見つめて深く溜息をついた。


 とはいえ、まだまだ投稿したばかり。ウェブ小説は鮮度が大切だと言われているとはいえ、投稿してからまだ十時間も経っていない。落胆するには早すぎると思う。

 それに、仮にこの後も一切評価が来なくたって、私は決して諦めたりしない。私が一目惚れしたあの本――『星には手が届かない』の作者さんだって大器晩成型で、デビューに十年ほどかかったらしい。私は小説を書き始めて二ヶ月だから、何も問題ない。


 ……問題、ないのだ――。


「うわあっ!」


 バンッ!

 突然、目の前が真っ暗になって、全身に衝撃がはしる。私は何かにぶつかって、尻もちをついた。特におでこが痛い。


「いたあ〜〜……」

「いたた……」


 私が顔を上げると、目の前には私と同じ、碧嵐へきらん高校の制服の子が頭をおさえて尻もちをついていた。私もおでこが痛い。どうやら私とこの子はおでこ同士をぶつけたらしい。


「えっ」


 碧嵐高校は学年によってリボンの色が違う。私たち三年生の代は青色、二年生は赤、一年生は緑だ。上履きのラインもこの色に対応している。今ぶつかった子のリボンの色は緑色。一年生だ。私は大慌てで立ち上がる。


 私は新生活でウキウキしている一年生に、初日からなんてことをしてしまったんだ。怪我をさせていたりしていたら、もっともっと大変だ。


「大丈夫ですか!? ご、ごめんなさい! ああの私、周り見てなくて……」


 私は二つ下の子とわかっていながらも、咄嗟に敬語で謝罪をして、手を差し伸べた。彼女は私を一瞥して、私の手を取らないで自分で立ち上がった。


「大丈夫です」

「よかった〜……」

「私こそごめんなさい。曲がり角であなたのこと見えてませんでした。……先輩ですよね? 先輩こそ大丈夫ですか?」


 彼女はそれ、と私の青のリボンを指さした。


「だいじょぶ。私三年なんだ〜」

「あ。青色のリボンって三年生なんですね」

「そう! 二年生は、赤色」


 彼女は「へえ」と感心したような様子を見せた。今の私、ちょっと先輩っぽかったな。


「緑色のリボンだからあなたは一年生だよね。私入末のぞみっていいます。あなたは?」

「入末先輩。私戸部です」

「戸部さん! よろしく〜」


 私がお辞儀をすると、それを見て戸部さんもお辞儀を返してくれた。


 それにしても曲がり角でぶつかるなんて、なんだかラブコメみたい。私はスカートについた桜の花びらを払って、戸部さんを頭のてっぺんからつま先まで見る。


 戸部さんは綺麗な黒髪ボブで、身長は私よりと同じか少し低いくらい。まだ背は伸びるはずだから、私が卒業するころには抜かれているかもしれない。そしてパリッとした新品の制服に、ピカピカのローファーに、しっとりとしたタイツ。まさに新一年生って感じの身なりだ。あと、目が大きくて、ぱっちり二重で可愛い。


 なんだか、外見は確かにヒロイン適性がすごい高そうな子だ。


 ……今、戸部さんが恋に落ちたのなら、私が恋に落ちたのなら、今度は上手に恋愛小説を書けるのだろうか。


「いやいやないない!」


 こんなベタな展開で恋に発展するだなんて、現実世界ではありえない。


「え、なにがですか?」

「はっ」


 私としたことが、つい口に出てしまった。


 戸部さんが私の顔を覗く。戸部さんの瞳がお日さまの光に照らされて、深い茶色に透けて見える。


「あっ、えっと私も私であの、歩きスマホをしてて。それでスマホないな〜〜? どこやったっけな〜〜? なんて」


 私は戸部さんに無理に誤魔化したのと同時に、本当にスマホがないことを知った。私はぐるっと周りを見渡す。

 ぶつかったときはまだ手にスマホを持っていたから、どこかにスマホを落としたに違いない。

 私があたりをキョロキョロしていると、戸部さんが「あの」と、私を呼び止めた。


「そのスマホ、これですよね?」


 戸部さんは私に手を差し出した。

 戸部さんのその手にはまさしく、私のスマートフォンが収まっていた。


「それ! うわ〜ありがとね〜……」


 私は両手を合わせる。

 歩きスマホをしていてぶつかってきたどうしようもない先輩を責め立てることもせず、しかも私のスマホまで拾ってくれるなんて。なんて優しい子なんだ。戸部さんには高校生活しっかり満喫して、しっかり幸せになってほしいと切に願う。


「って、あ……」


 電源を落とす暇もなくスマホを落としたので、戸部さんの手にある私のスマホはしっかりと電源がついたままだった。画面には、私がさっきまで開いていた「小説いい感じの表現メモ」が表示されている。


 つまり、戸部さんはこのメモを――。


「う、うわあ〜〜!」


 私は急いでスマホを手に取って電源を切った。戸部さんは真顔のまま、首をこてんと傾けた。


「どうしました?」

「あの、み、見た……よね?」

「見た……。あ、スマホの中ですか? 見ちゃいました。ごめんなさい」


 彼女は表情一つ変えずに、あっさりと言いのけて見せた。そんな彼女とは対照的に、私の顔面は恥ずかしさと焦りでぶわりと熱くなった。 


 なんてことだ。


 こんな恥ずかしいものを見られた上に、小説を書いてることがバレてしまっただなんて。


「え、ええっと、これにはふかーい理由わけがあってですね」

「そうなんですね。その理由ってなんですか?」

「えーっと、そのぉ〜、あの、その……」


 深い理由なんて、私がやむなく小説を書いている理由なんて当然あるはずがなくて、私は無様にごにゃごにゃ言い淀んで、戸部さんから目を伏せた。目も当てられないほどダサいと思う。


 戸部さんは、はあ、と短く息を吐いた。


「――どんな理由でもいいですけど。私はそういうの、好きですよ」

「え?」


 私の酷い言い訳は、戸部さんに遮られた。


 戸部さんは相変わらず真顔のまま後ろ手を組んだ。冷たい春風が戸部さんの黒髪を乱していく。


「好きです。先輩」


 私は呆気に取られて、戸部さんの表情を見たまま動けなかった。

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