4 公園の少女 後編
芽衣と付き合い始めてから四ヶ月ほど経って、秋が始まろうとしていた頃の話。
地域で販売されるくらいの小さな出版社ではあるが、僕はそこから仕事をもらっていて、週一で発刊される音楽系雑誌のコラムを執筆したり、新しく発売されたCDを聴いて、それを批評したりしていた。
朝から晩まで一緒にいるわけではないので分からないが、芽衣は全くと言っていいほど勉強をしていなかった。少なくとも、大学受験特有の焦燥感や危機感を感じなかったから、僕は就職するんだと思っていた。まあ、本人の口からそれについてはっきりと言われたわけじゃないし、僕から聞くのも、なんだか性に合わないというか……急かすのが好きじゃないのだ。だから、芽衣が自分から言ってくるまで、そのことについて触れないようにしていた。
「ねえ、蒼さん。夜の紅葉が見に行きたい」
と突然に芽衣が言ってきた。そういう要望をしてきたのは初めてだった。とは言っても、今までは僕の仕事が全く軌道に乗っていなかった(要は金が無かった)から、我慢していたのかもしれない。いや、していたんだろうと思う。僕は当然、駄目! なんて言うつもりはなかった。
「うん。行こうか」
頷いて、僕は芽衣に笑いかけた。
付き合い始めた直後――三ヶ月前に起こったあの事件以来、芽衣は僕に対して素顔を出すようになった。抑えていた優等生の仮面が取れたのか、素直に物を言うようになった彼女は、僕を振り回す。
例えば、僕が彼女の気持ちに気づかなかったりすると、芽衣は拗ねて泣いて、まるで子供のようになる。街のど真ん中でそれをされるとちょっと困るけれど、僕が黙って抱きしめてあげれば芽衣の癇癪は収まることをそれまでの経験で知った。不安定な心を、そんな顔を、そうやって僕に見せてくれるのも、彼女に信頼されている証拠だろうと思う。
「いつ行くの?」
無邪気な表情で僕に尋ねる芽衣。「今度の休みにしよう」と僕は言う。僕の言葉を受けたあと、芽衣は穏やかに微笑んだ。それは最初に出逢ったときに見せてくれた表情に似ていたけど、そのとき以上に素敵だった。自然に微笑んだ一人の女の子の顔。忘れられない、忘れたくないと思える動作の一つ一つ。
髪が少し揺れて、目を細くさせて、口角をあげて、笑ったんだ。
「じゃあ再来週にしよう?」
これからこの子は僕に色んな顔を見せるだろう。そしてそのすべてが僕にとって忘れられないモノになるだろう。そんな予感でいっぱいで、ささやかではあるだろうけど、明るい未来が待っていると思うと、僕は早く時間が進んでほしいと思った。ああ、でももっとゆっくり時間が流れていってほしい。要は、こんな気持ちがずっと続けばいいと思うだけだ。
僕の提案に芽衣が頷く。
だから僕は、意味もなく微笑むんだ。
文章を書けなくてもいい。言葉を紡げなくてもいい。芽衣が側にいるだけで僕は生きていける。彼女の抱えていた痛みを半分だけ僕が受け取って、その代わりに僕の弱さを彼女にさらけ出す。そんな風に生きていけばいい。二人で、一緒に。
そう思えるから、僕は書けるようになった。
「この辺に名所ってあるのかなあ?」
そういえば、いったふうに僕に訊ねる芽衣。彼女はしばし悩んで、ああ、と一人で納得してから、
「ここから一時間くらい走ったところにある場所って、蒼さん知ってる?」
と言ってきた。
「葉々山(ようようざん)でしょ?」答える僕。
僕は、このくだらない会話の応酬を書きたい。月並みな言葉で彩られた、でも特別なお話。格好つけた言葉なんて必要ないんだ。こんな二人の生活を書けばいい。ごくごく有り触れた、普通のお話でいいんだと思う。
「そうそこっ!」
それ来たというように合いの手を打つ芽衣。
……ああもう全部だよ。芽衣が僕の全部だって言い切れる。
「ど、どうしたの?」
突然の衝動に突き動かされるようにして、僕は芽衣の身体に抱き付いた。そんな僕の行動に困惑している芽衣。
「こうしたくなったから」
僕はそう言うや否や更に力を込めて、ギュッと抱き締める。大切なモノを離さぬように。
「蒼さんは、いっつも唐突なんだよ」
不機嫌そうな口調を装っているが頬は緩みきっている。ほら、また芽衣は笑うんだ。
彼女の温もりを感じながら考える。
僕らはこんな風にじゃれ合うけど、一線を越えたことはない。それはたぶん、それこそ三ヶ月前の事件に起因するんだろうけど。いや、それ以前に、単に僕が臆病だからだ。手を伸ばして振り払われるのが怖いから、動けないだけだ。どうせこいつも同じなんだ、って芽衣に思われたくない。失望させたくない。
考える前に動くことも大切だ。そんなことはとっくに理解しているのに、思考回路はそうそう変えられるモノじゃないらしい。二十数年間だけど、そんな短い人生だけど、僕は生きていたわけで。その凝り固まった、臆病な性格が僕の悪いところだって分かっていても、考えはどんどん悪い方にいってしまう。
「また来週来るから。ね?」
僕の背中をぽんぽんと叩いて、赤子をあやすように語りかける芽衣。彼女は僕の悪いところを知っている。たぶん、伝わっている。それでも一緒にいてくれるのは、お互いが好きだからだ。好きなところ、嫌なところ、それを計算して、それでも側にいたいと思うから、寄り添っていくのだ。そもそも、そんなのは理屈で、僕はそんな計算をするまでもなく、恋に落ちていた。
「寂しくないか?」
一応社会人である僕と学生である芽衣とは活動する時間帯が違う。毎日は逢えないので、週末だけ逢うことにしていた。お互いどんなに忙しくても、余程のことがない限り、その約束だけは守っていた。
怖いから、聞いている。何事においても、僕は自信がないのだ。僕と一緒にいるより、他の奴の方がいいんじゃないか。いつも側にいられない奴より、いつでも側にいられる奴の方がいいんじゃないか。
「寂しくないって言えば嘘になるよ。ホントはずっとこうやってさ、くっついていたいもん。だけどわたしが高校卒業したら、少しは自由になるから。それまでは我慢しようって決めてるんだ」
「我慢させてごめん」
ああ、なんで僕は謝るんだろう。そこはさ、
「そこは、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』じゃん」
そうなんだ。そう言えばいいのに、本当に僕は自分に自信がない。
「それにね、逢えないからって消えちゃうような愛なら、それは愛じゃないよ。恋でもないよ。……ってわたしは思う。蒼さんは、何を気にしているの?」
彼女の言葉はいつも的確だ。常に正しいことを言う。
「何があっても、それでも一緒にいたいから、愛だよな」
自分に言い聞かせるように、ポツリと呟く。
僕は、何を気にしているんだろう。好きって気持ちは、好き以外に言いようがないのに。表しようがないのに。
芽衣が手を伸ばして、僕の前髪に触れる。そのあと、芽衣が近づいてきて、唇が触れ合った。
「大丈夫だよ」
そう言って、彼女は立ち上がり、僕に手を振った。
手が幾重に振れるのを見ながら、僕は思った。
やっぱりこんな時間がずっと続けばいいと。
☆☆☆☆☆
葉々山へと車を走らせた僕らは山頂に着くと車から降りた。
優しい月光が辺りを照らしていた。前を見ると木が数本だけ離れて立っており、下にはライトがあった。そのライトが照らしている木の側まで歩く。風が吹いて木が揺れる。そして黄や赤に色づいた葉っぱが音もなく散っていく。僕らはただただ、その風景を見ていた。十分は経って、身体が冷えてきた頃、芽衣は僕の左手を握ってきた。
寒いね、戻ろう。
僕らは車内へと戻った。ヒーターを付けるとすぐに身体は暖まった。モゾモゾとした気配を感じて横を見ると芽衣が何かを弄っていた。
「何してるのさ?」
狭い車内でコソコソと。
「夜食です。どうぞ」
やけに大きいバッグから小さな箱を出してきた。外に出たからか、風に吹かれていたからか、とにかく、お腹が空いていたのでありがたかった。中身は唐揚げとウインナーと卵焼き。
「おかずだけ?」
「そんなわけないでしょ」
芽衣は小さく笑みをこぼして、アルミホイルに包まれたおにぎりを僕の手に握らせた。
「小学生の弁当みたい」
「作ってもらっている身で文句は言わないんだよ? あげないよ?」
そうは言いながらも、せっせと箸やお茶を用意するのが可愛い。
おにぎりを口に放り込みながら、僕は木を眺めていた。木の遥か上空にたくさんの星があった。チカチカと輝く星と、様々な色をした木の葉。いい景色だな。
「星だよ」
「蒼さん、食べながら喋らない」
「細かいこと気にしないの。凄く綺麗だよ」
漆黒の空間に輝いている無数の星。一つ一つが燦然と、はっきりと輝いている。
「うわぁ……」
彼女も僕と同じように、星に目を奪われていた。
「そういえばさ、前から聞きたかったんだけど……」
ふと思い出した訊きたかったこと。
「……わたし大学に行くよ?」
僕の切り出し方から瞬時に思っていることを言い当てた彼女。
「俺まだ何も言ってないし。まあ当たってるんだけどさ」
なんだかなあ。もっと神妙な感じで訊くはずだったのに。
「ちょうどね、今日言おうと思ってたんだよ」
彼女はそう言って僕に謝る。
「ごめんね」
そんなに気にすることじゃないのに。
「わたしは、蒼さんに、嘘をつかないって決めたのに」
「……どういうこと?」
ジロッと僕を睨み付ける彼女。
「言わせたいの?」
何をだろうか。首を捻って数瞬だけ考えて、彼女に頭を下げた。
「ごめん。思い出した」
苦笑いしかでない。
「で、蒼さんに嘘をつかないって決めたんだけど、この前嘘ついちゃったんだ」
「『わたしが高校卒業したら、少しは自由になるから』とかってヤツのことかい」
「でもそのあとね、色々考えたんだ。このまま進んで、蒼さんと一緒に過ごしていいのかなって。なんか、本気で勉強したくなったし、もうちょっと、強くなりたいって思ったんだよ。わけ分からないよね。……それで、大学に行くことにしたんだ。わたしが行く大学、ここから少し離れてるから、一緒にはいられなくなっちゃった。ごめん!」
相談してくれればよかったのに、とか、もっと頼れよ、とか言いたかったけど。彼女が決めた道なのだ。一人で、自分で、結論を出したのだ。それについて、僕がどうこう言える問題じゃない。真剣に僕とのことを考えてくれている。嬉しいことこの上ない。
「気にしないよ。それよりも、ちゃんと言ってくれてありがとう。約束を守ってくれてありがとう」
『ありがとう』って言葉以外に、それ以上的確に、正しく、僕の気持ちをどう伝えられようか。
ほんの少し流れ出た涙を隠そうと、目元に手を押し当てながら芽衣は言った。
「これでも、気にしてたんだよ。嘘吐きって呼ばれて、離れていくんじゃないかって。怖かった」
「俺はそんなことしないよ」
僕は芽衣の頭に手を乗せ、髪をグシャグシャと撫でる。僕らは同じような人間だ。臆病で、弱くて、楽な方向に逃げてしまうような、そんな人間だ。だからこそ、芽衣は僕の感情を共有できるし、僕は芽衣の孤独を理解できる。
もっともっと、伝えるべき言葉はあるんだろう。でも、もっともっと上手に伝わる方法だってあるのだ。だから僕は、芽衣に触れるという行動を選択する。
百の言葉を語るより、一つの行動で伝わることもある。
芽衣と同じ歩幅で歩く日々は、僕を成長させてくれて、様々なことを教えてくれる。
生きていく中で、手に入るモノはちゃんとあって、そういう、温かで、柔らかで、そんなモノをすべて抱き抱えていたかっただけ。
僕は、手に入れられると思っていたし、一度掴んだモノは、離れないとも思っていた。 少なくとも、その頃の僕は。
不釣り合いな幸せを手に入れ、更なるモノを手に入れようとした僕に、神は罰を与える。
☆☆☆☆☆
紅葉を二人で見に行ってから、八ヶ月ほど経っていた。芽衣は大学生になってますます綺麗な女の子になりつつあった。僕は相変わらずコラムを書いたり批評をしたりと変わらない生活を送っていた。変化のないような生活に思えるが、半年ほど前に送った小説が、最終選考に残っているというのが、僕に毎日の活力を与えていた。だって、その小説は、僕と芽衣の――
これ以上は恥ずかしいからやめておくけど、とりあえず僕の生活は充実していたんだ。
その日が来るまで、芽衣が亡くなるときまでは。
そう。その日は確か晴れだった。雲一つ無い空が広がっていた。その日はバイトも入れてなくて、執筆作業も一段落していたから、ずっと寝ていたんだった。知らず知らずのうちに溜っている疲れを睡眠で取る。怠惰だとは思うが、それが僕の生活サイクルだ。
夕方、だっただろうか。嬉しかったはずのことなのに、記憶が曖昧だ。
出版社の社員から、優秀賞、という言葉が出たとき、僕は興奮を抑えきれずに何度も確かめた。本当ですか? 嘘じゃないですよね? 相手が嘘を言うことに、一体なんの得があるのか。そんなことすら頭に浮かばないくらい、僕には余裕がなかったんだ。大きな声で、ありがとうございます、ありがとうございます、と幾度も繰り返した。相手は苦笑しながら、喜びすぎですよ、それじゃあ、なんて言って、電話を切った。
それほど大げさだっただろうか。電話を置いて、しばらく思慮した。……相手は知らないのだ。僕がどれだけこんな日を待ち望んでいたかを。どんな規模でもいいから、僕は自身の名前が記された本を、世に出したかったんだ。しかも、書いて送って選ばれた小説は、僕と芽衣の歩いてきた日々だ。登場人物だって、ストーリーだって、脚色はしているが、あのお話は、二人で創ったモノだ。喜びを分かち合いたかった。すぐに、今すぐに。もちろん、彼女に電話をするんだ。一番に、最初に、誰よりも先に伝えたい。
「……もしもし、蒼さん、どうしたの?」
電話の周りの景色が、僕の頭に浮かんできた。彼女は今、歩いている。そうして、携帯を見て、驚いたはずだ。どうしてこんな時間に電話? と。
「あのな――」
そこからも、詳しく覚えていない。どうして飛び飛びの記憶なのか、よく分からない。興奮していただけだとは思うけど。とにかく、僕は芽衣に喜びを伝えたんだ。送った小説、賞取ったよ、と。そう話すと芽衣は声にならない声を出して、そのあと僕をめちゃくちゃ褒めてくれた。電話越しに、彼女はたぶん笑っているだろう。そして自分のことのように喜びながら、僕を賞賛する。僕は危うく泣きそうになった。だって、これ以上の幸せはないだろう?
「わたし、今からそっち行くね」
「今からこっちに来たら、夜遅くなるよ? っていうか、明日の講義どうすんの?」
「そんなのいいの!」
芽衣はクスクスと笑っていた。
「夜中にお邪魔するよ! 鍵開けといてね!」
「分かった分かった。ちゃんと待ってるから、安全運転でな」
「うん。じゃ、あとでね!」
「ああ」
そんな変哲もない会話が、芽衣と喋る最期の言葉となった。
「どうしたんだろうな」
呟きながら、僕は携帯電話を取り、芽衣と連絡を取ろうとした。時計の針は十二時を超えて、もうすぐ一時になろうとしていた。さすがに心配だ。
――繋がらない?
別に、祝ってくれるのはいつだっていい。ただ、芽衣の声が聞きたかった。そうすれば僕は安心できるのに。呼び出し音だけが響く。なあ、芽衣、どうしたんだよ。
僕の身体から何かが奪われていく。光や熱が消えていく。
突如として、周りの世界が変わり始めていた。僕の前に広がっていたはずの明るい未来が暗転して、言いようのない不安だけが胸に募っていく。
結局、僕は一睡もできなかった。
そして、朝方、連絡が入る。芽衣の母親からだった。どうして、芽衣の母親から? と頭の中に浮かんだ疑問は、次の言葉で解決された。
「芽衣が、山道を走っている途中で事故に遭いました」
言葉にすると、こうだけど。実際は、もっともっと読点で区切られていた。それに、嗚咽交じりの声だった。なんでも、対向車線から走ってくる車と、正面衝突をしたらしい。しかも相手はトラックで、芽衣の車は大破していたそうだ。遺体も原形を留めていないらしい。
はい、はい。相づちを打ちながら、僕はどこかそれを他人事のように聞いていた。だって、何故芽衣なのだ。神様は、僕らを祝福してくれたのではないのか? 違うのか?
現実逃避をしてみるが、駄目だ。『遺体』という言葉が妙に生々しく自分の頭に入ってくる。刻まれていく。死んだということを告げている。
なんで、どうして、芽衣が死んだんだ。山道って、どうしてそんなところを走って――
…………そうか。
芽衣は、急いでいたのだ。僕を祝うために、急いでいたのだ。大学から僕の家までの距離を少しでも縮めたくて、普段は使わない山道を走ったんだ。詳しいことまで知らないけど、確証などないけど、たぶん、絶対、そうだ。
僕が連絡をしたことで芽衣は死んだんだ。ただ、大切な人と幸せを分かち合いたかっただけなのに。芽衣のおかげだよ、ありがとう。って言いたかっただけなのに。
僕が、芽衣を殺した。
一生掛かっても消えないであろう罪悪感が、僕の胸の内を支配していた。
そんな話を、ゆっくりと時間を掛けて、芽衣の妹の麻衣に話した。麻衣は僕に対して怒っているだろう。憤りを感じているだろう。僕はもういいのだ。芽衣が亡くなったのは、僕のせいだから、どうしようもない。嘆いても悲しんでも、失ったモノは帰ってこない。自業自得だ。
だが、麻衣は違う。彼女は、たった一人の姉妹である人間を奪われたのだ。僕も彼女も、胸に開いてしまった穴は埋まらない、と、麻衣と会ったときに僕は思った。しかし、話している内に、僕の中に違う考えが生まれてきたのだ。
僕と麻衣では違う。
僕の胸に開いた穴は、いつか、誰かが、芽衣の代替品となって、僕の傷を癒していく。あれほどまでに僕のことを理解してくれる子は、そうそういないであろうけど、それでも生きていくということは、記憶や想い出を忘れていくことなのだ。だから、傷は癒えていき、血が止まり、カサブタになっていく。ときどき苦すぎる痛みを思い出しながら、生きていくのだ。
一方、麻衣はどうだろう。そう考えると、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。例えば僕のように、恋人という関係だったら、先ほど書いたように、いつかは埋まっていくが、麻衣にとって、芽衣は肉親だ。姉妹だ。誰かが取って代われるような関係じゃない。姉の代替品などいない。そんな唯一無二の存在である人間を、目の前にいる男、僕によって奪われたのだ。
僕は、その申し訳なさから、麻衣を近くで見守りたいと思った。それができるほど、今の僕は感情を整理しきれていないが、少しでも麻衣の役に立ちたかった。それは、二重の罪悪感が原因だ。芽衣を殺したことが、麻衣を苦しめている。どちらも、結果的には僕の行動のせいだ。
なんで僕が生きているんだ。死んだ方がいいんじゃないか。
そんなことを思うけど、芽衣が生きていたら、駄目だよ。と言うはずだ。だから、今は、悔やみながら、生きていく。そうして、僕は罪を償わなきゃいけない。
そんな風に思って、僕は麻衣に近づいた。最初は、罪を償うという目的だった。
でも、近づけば近づくほど、本当に、麻衣は芽衣によく似ていると思った。
芽衣ほど人の感情の機微に気づくことはできないが、それでも麻衣なりに、僕の胸を支配している、僕自身でさえ具体的には分からないモノを、理解しようとしてくれていた。
僕も麻衣と接していく内に、彼女の中にも芽衣と同じような孤独が住んでいるのを感じていた。そして、姉によく似た面影や眼差しを残しつつも彼女は成長していく。
役に立ちたい。償いたい。そんな気持ちだったはずなのに、いつしか僕は麻衣に惹かれていた。それはたぶん、やはり、おそらくだけど、芽衣に似ているからだろう。
芽衣はこの世にいないはずなのに、麻衣と喋っていると、僕はときどき錯覚してしまうのだ。ああ、まだ芽衣は生きているんじゃないか、と。亡くなってしまったことを受け入れつつも、心の奥では納得できていなかった。芽衣が死んだことを思うと、心がざわついて、どうしようもなくなる。それを落ち着かせるために、麻衣と会って話す。そんなことをしなければ、生きている心地がしなかった。分かっているけど、糞みたいな駄目人間だ。
いつしか、僕は麻衣と付き合っていた。麻衣が好きなのか、芽衣が好きなのか、それさえ理解しないまま、僕は付き合っていた。自分から付き合おうと言ったけど、それもまた、罪の一つになっていく。
麻衣がどう思っているのかは分からない。僕のことが好きで付き合っているのか。僕が安心しきったそのときに、どん底に突き落とすために側にいるのか。それとも、ただ孤独を癒したいがために僕を利用しているのか。
僕は卑屈だ。だからそう思うだけなのかも知れない。だけど、そう思うのは自分の性格だけじゃない、僕が麻衣に付き合い始めた理由を隠しているからだ。
訊ねることもできないまま、今も僕は麻衣と付き合っている。
なあ、麻衣はどう思っているんだ。
嘘から始まった関係でも、嘘を突き続ければ本当になるのか?
僕には、俺には、まだ分からない。
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