3  麻衣と芽衣と蒼



 たぶん呼吸をあまりしていなかったからだけど、あたしの脈拍は上がり続けていた。

 赤子がこの世に生まれ落ちた瞬間のような――

 泣き声を上げる瞬間のような――

 どれも違う気がする。

 赤ちゃんが初めて呼吸を開始したときのように大きく息を吸った。これが一番、今のあたしの状況を説明する言葉に近い。ずっとマウスを握っていたから、あたしの右の掌は汗で湿っていた。これは小説でもなんでもない、雑記というのだろうか。ともかく、時系列がバラバラで、思いついたところから手当たり次第に書いているという印象だった。

 それはたぶん、蒼さんの中で芽衣姉さんに対する気持ちが整理されていないからだ。

 蒼さんはあたしが思っているより、とても深い場所にいる人のようだ。もちろん、姉はもっともっと深遠な人だったけど……。どちらが考えていることも、あたしにはよく分からない。想像することはできるけど、結局あたしという人間はあたし以外の何者でもない。

 そんな考えだから、あたしには深いところにある想いを理解できないのだろうか。

 蒼さんの書いた日記をこれ以上読み続けるのは、危険だと、私の中の何かが警鐘を鳴らしている。あたしが蒼さんに対して隠し事をしているように、蒼さんも自分の胸の内にだけ秘めているモノがあるような気がする。読み進んでいけば、嫌でもそれに気づかされるだろう。蒼さんが抱えている、あたしが知らないモノを、あたしは受け入れられるのだろうか。知っているような振りをしていて、付き合い続けてきた罰なのだろうか。

 自嘲気味にクスリと笑みを漏らして髪を掻き上げる。

 あ、この仕草がお姉ちゃんに似てるんだ。

 また小さく笑ってしまう。誰もいない部屋で笑っているのはなんだか滑稽だ。

 あたしは何をしているんだろう。何をしたいのだろう。

 あたしや姉さんに対する気持ちの違いを、直接蒼さんに訊ねるのは怖い。だけど、知りたい。読んでいる内に、僅かながらではあるけど、好奇心や興味が沸いてしまったのは事実。人の過去の気持ちを、それも蒼さんの過去を盗み見ている。

「最低っ……」

 つい舌打ちをしてしまう。そういうところは、ホント、姉に似ていない。

 あたしはお姉ちゃんと違って穏やかじゃない。それに賢くもないし身長だって小さい。そんなあたしとは真逆な姉。優しくて綺麗で気立てがよくて頭の回転早くて長身で大きい胸。……これだけ姉の特徴を言えるのはあたしくらいだと自負できる。

 二つ違いの姉とは、小学校はほとんどだし、中高で一年間は被る。そんなわけで、親も友達も学校の先生も、わたしと姉を比べてくるのだ。頭のてっぺんからつま先まで、舐めるように向けられる視線にいつも耐えてきた。

 運動神経も抜群だった姉は中学校に入るとテニス部に入った。すぐに上達してレギュラーを勝ち取った。そして初めて行った他校との試合で姉は相手を圧倒した。それからというもの、一度も補欠にならずに、最終学年になる頃には誰もが認めるキャプテン兼エースだった。そんな姉に引き替え、『あの芽衣の妹』……そんな風に期待されて入ったテニス部。ラケットに触れて、自分は上手くないことが分かったから、みんなより努力した。学校でも家でも練習していた。だけど一年生から選ばれるレギュラー選抜の試合に落ちた。

 みんな同情と哀れみの目であたしを見ていた。

 あたしの中ではすべて予想の範囲内で、分かっていたことだったけど、それでも悔しさが私の中で渦を巻いていた。練習量を増やしたけど、結局ずっと補欠とレギュラーの間を行ったり来たりしていた。

 高校生になると更に姉とあたしの違いは顕著になった。女らしいプロポーションと部活を行っているときのかっこよさ。あたしから見ても凄く素敵だった。そんな姉は当然モテるから、取っ替え引っ替えに色んな人と付き合っていた。

 あたしも高校時代に、一回だけ男性と付き合ったことがある。確かアレは、入学したばかりの、一年生のときだったはずだ。二歳上の先輩――つまり姉と同学年で、年上の人だった。かなりプレイボーイだと聞いていたけど、さしてあたしは気にしていなかった。だって、本当にプレイボーイなら、あたしになんて構わないと思うからだ。あたしに向かって囁いてくれた言葉は本物だと思った。照れながら、『好きだよ』なんて、初めて言われたんだ。あたしは舞い上がって、彼の望むことをなんでもしてあげた。そのとき、彼があたしのすべてだった。手に入れた幸せを落とさないように、あたしはそうっと、優しく掴んでいたのだ。やっとあたしにも……コンプレックスの塊だった自分が、醜い部分のあたしが消えていく気がした。でも、そんな彼とはすぐに別れることになる。相手に合わせすぎたのが悪いのか、彼の中では元々そういうシナリオができていたのかは知らないが、とにかく別れることになった。

「芽衣の方がいい女だったし、色々気持ちよかったわ。やっぱお前、なーんにもねえな」

 ある日突然電話が掛かってきて、冗談を言うように彼は告げたのだ。電話の後ろで、彼の友達がケタケタと笑い声を上げていた。ああ、あたしはそういう存在なんだ。

 とても楽になった。やっぱり何をしてもお姉ちゃんには敵わないって分かったから。

 楽になった代わりに、消えたはずのコンプレックスが――姉に対する劣等感が、あたしの中に生まれた。以前より、より強固なモノとなって。

 様々な人が姉とあたしを比べていたけど、誰より、あたし自身が一番気にしていたんだ。

 いつも前を歩いている姉は、あたしにとって絶対的な壁なのだ。その壁をあたしは登ってみたかった。あるいは、破ってみたかった。姉より先に、何かを掴みたかった。

 どうしたらいい。どうやったらいい。

 姉が持ってなくて、あたしが持っていたら凄いもの。

 今だって決して頭がいいわけじゃないけど、その頃のあたしは馬鹿だった。とんでもない大馬鹿だった。気が付くと、携帯を使って出会い系にアクセスしていたのだ。待ち合わせをして、ご飯を食べて、何か買ってもらって、身体を捧げて、お金をもらう。

 何しろ高校生だ。掃いて捨てるほど相手はいた。もちろん、メールをした全員の相手をしたわけじゃない。メールに顔写真を付けて送ってもらって、選別していた。なけなしのプライドだ。何をしても満たされない心だったけど、性行為をしている一瞬だけ満たされていた。どうせ一回か、数回か、それで終わってしまう関係だ。終わってしまえば、跡形もなく消えて無くなってしまう安心感。でも、行為中だけでいいから、『あたし』を求めてくれる相手がほしかった。男の人が『あたし』に言ってくれる言葉は好きだった。吐かれた言葉は嘘って理解しているけど、それでも嬉しかった。すきだよ、あいしてる、そう囁かれて、腕で抱かれて、身体中を舐められて、触られて。どこか、何か、決定的に違うっていうのも理解していた。

 頭も身体も気持ちも心も思考も行動も、バラバラだ。

 求めては消えていく安心感に依存していってしまう。消えていくからこそ、かもしれない。ハムスターが滑車を回すように、グルグルグルグルと永遠に回し続ける。疲れても、身体をぶつけても、回す。それ以外の方法を知らないから。そうやって繰り返していく行為に、少しずつ感覚が麻痺してしまっていた。最初に持ち合わせていたはずの、なけなしのプライドさえ霧散していた。

 そこに『あたし』を求めてくれる相手がいれば、誰でもよかったんだ。

 なんだろう。たぶん、最初は自慢したかっただけだと思う。芽衣姉さんが持ってないモノ、お金、あたしは持ってるよって。でも、お金を手に入れるという目的のための手段だった援助交際は、気づけばその手段自体が目的になっていた。擬似的な愛情をもらって、満足する。安心する。そのくせ、眠りに落ちる頃に、はっとそのことに気づく。今のままじゃ、落ちていくだけなんだろうなあ、って。自分で敷いたレールの上で悩むあたしは一体なんだろう。自分で間違っていると分かっていても、引き返せないでズルズルと引っ張られていくのはどうしてだろう。いつかあたしは、たまにテレビで報道されているような事件に巻き込まれることもあるのだろうか。

 そんなことを夜な夜な考える。泣いて泣いて泣き腫らす。そうしてまた相手を探してしまう。

 下へ落ちていくことしかできない螺旋の階段を壊したのは、姉だった。


 その日、あたしは珍しく携帯を持ち忘れた。学校に行ってから忘れたことに気づいたのだけど、すぐに使うわけではないから放っておいたのだ。部活(相変わらずソフトテニス)が終わって帰宅して、自室に入った。

 そこには姉がいた。どうしてあたしの部屋に? そう口に出そうとしたところで、姉があたしの携帯を持っていることに気づいた。

「悪いけど、見たよ。最近の麻衣の行動、おかしかったからね」

 淡々と言葉を吐き出す姉。あたしが言葉を出せないでいると、小さく息を吐きだして、こう言った。

「気付いてないと思ったの?」

 やや吊り目気味にあたしを睨んでくる姉。呼吸をする度に動く鼻や揺れる肩。その一つ一つがあたしを苛々させた。あたしがする行動が、一体、あなたに――

「なんの関係があるの?」

「麻衣っ!」

 この人はこんな風に怒りを表現する人だっただろうか。あたしの知っている姉は、もっともっと淡泊だった。

 声を張り上げられ、あたしも自然と声量が大きくなっていた。

「何怒鳴ってんのよ!」

 姉を突き飛ばそうとするけど、蹴りを入れられて逆にあたしが倒れてしまった。身長差がそのまま結果に出てしまった。そして、姉はあたしに近づいてきて馬乗りになる。悔しくて、あたしは本音をこぼす。

「いつもいつもどうして邪魔するのよ!」

「わたしは邪魔なんかしてな――」

「それが邪魔なのよ! なんでアンタが先に生まれてるのよ! なんであたしは『あたし』じゃなくて『アンタの妹』でしかないのよ!」

 怒りに任せて姉を殴ろうとする。抵抗するかと思ったけれど、勢いを乗せた掌は易々と姉の頬に届いた。あたしが叩いた頬を触りながら、考え込むように、中空に視線を彷徨わせる姉。それから十秒ほど経って、姉の目からはつぅーっと涙が流れていた。

「……麻衣にわたしの気持ちが分かるの?」

 自分の気持ちを周りに合わせてきて、本音というのを漏らすことがなかった姉が、あたしに向かって静かに問いかけてきた。

 でも、そんな質問は無意味なんだ。あたしに、分かるわけがないから。

「分かるわけないっ! だってアンタは、親だって友達だって彼氏だって、全部全部あったじゃないっ!」

 そうだ。芽衣という人間には、なんでもあったんだ。同じ人達(両親)から生まれたのに、どうしてこうも違うのだろう。

「そんなくだらないモノ全部あげるわよ」

 頬には涙の跡がくっきりと残っている。だけど、涙を流したはずの目は、そこに居座っているであろう透明な潤いや光を灯していなかった。底冷えするような瞳であたしを見ていた。そうして、また抑揚なく、彼女は淡々と語る。

「みんなわたしの外見ばっかり見てるのよ? 成績優秀? 別にお前らのためにやってないし、友達や彼氏が褒める容姿や性格だって、すべて外面じゃない。麻衣は、そんなことを褒められたいの?」

 ああ、駄目だ。根本的にこの人とは何かが違うのだ。

 常に前にいて、常に光を浴び続けた姉。その遥か後方にいて、姉と比較され続けたあたしでは、抱く想いが違うのだ。あたしは『そんなこと』さえ褒めてもらってないのだ。もらえたとしても、それはすべて嘘。誇るべきモノがない人間の気持ちを知らないで毒を吐き出す姉が憎かった。

「だからあたしはアンタが持ってないモノを手に入れようとしたんだっ! それが悪いって言えるの!?」

「だからそんなモノ手に入れて何が嬉しいのよ!? そんな安っぽい自己満なんて麻衣はほしいのかっ!?」

 頭では分かっていた。どちら(優等生と劣等生)の弁も正しくて、またどちら(優等生と劣等生)の弁も間違っている。だけど、ううん。だからこそ心のどこかでは納得できなかった。

 さきほどまで声をあげていたのが嘘のように、今この部屋にあるのは、奇妙な沈黙だけだった。姉とは分かり合えないかもしれない。でも、それでも何か言いたかった。

「あたしは、ほしかったんだっ……」

 姉は言葉を選びつつ、ゆっくりと口を動かした。

「わたしだってほしかった。そしてやっと、本物に出逢ったんだ。親より、誰より、何より、大切な人。わたしに残ってる時間、すべてを掛けて、守っていきたい人。守ってもらいたい人。わたしは、その人だけいれば、それでいい。だから麻衣も、偽物を手に入れて安心するのはやめなよ。……ううん、やめてほしい」

 本物と偽物。なんだか酷く抽象的で、曖昧な言葉だ。意味は全く違うのだろうけど、その意味に気付くのに一体どれだけの時間が掛かるのだろう。そして、一体どれだけ自身を磨り減らすのだろう。あたしはまだ偽物しか手に入れてない。社会の底辺に蔓延っているのは作られた本物。嘘を綺麗に隠したつもりでも、滲み出てくる虚像の安さを、あたしはもう、知っている。そこに情や愛はない。

 姉は何を知って、そしてどんな本物と出逢ったんだろう。

「どんな本物……?」

「どう言えばいいか分からないなあ」

 姉は照れたように笑い、それから真面目な顔をして話した。

「こんなわたしを慈しんでくれて、受け入れてくれる人」

 たぶん、それが愛だと思う。そう付け足して姉は小さく笑った。その笑みは、あたしが見てきたどんな笑顔より素敵だった。

 その言葉を聞いて、その笑みを見て、羨ましくなったのと同時に悲しくなった。やはり姉とあたしじゃ違うんだ。

 俯いているあたしに姉はこう言った。

「いつか麻衣にもそんな人が見つかるよ。大丈夫だよ」


 ずっと、ずっと、その言葉が頭から離れない。


 姉が亡くなって、あたしは蒼さんと――姉が唯一愛した男である、蒼さんと出逢った。姉と本音を言い合ってから、二人を隔てていた距離が近づいたような気がしていた。これからは、もう少し仲良くやれるかな、なんて思っていた矢先のことだったから、あたしはショックだった。でも本当にショックだったのは、どうして姉が死んだのか、ということだ。なんでもできる姉より、何もないあたしが死ねばよかったのに。そう考えたら、その考えだけが頭を支配するようになった。援助交際をしていたときから、なんにも変わってない。ハツカネズミみたいに、同じ場所をぐるグルグル回るだけ。一つの考え方しかできなくて、いっぱいいっぱいになる。だから蒼さんと出逢ったとき、あたしは爆発してしまった。蒼さんは蒼さんで抱えているモノがあるから口を開いたのに、それを遮ってまで自分の気持ちを爆発させた。あたしは人を思いやれるほどできた人間ではないんだと、そこでまた一つ自分の欠点を自覚した。

 蒼さんは、自分が芽衣姉さんを殺したと思っている。そして、それを話してくれたときのことは、これから読む場所に書かれているのだろう。再びマウスを操作しようとするが、妙に緊張している。

 蒼さんの抱いている感情の核心に触れるからだろうか。それとも、ずっと鳴り止まない警鐘を恐れているからだろうか。


 あたしはやっと、姉と同じ本物を見つけたのだと思っていた。

 そう考えていたあたしを、蒼さんは揺るがす。

 蒼さんは、やっぱり蒼さんは、姉とあたしを比べていたのだ。


     ☆☆☆☆☆


 ゆっくりと買い物をして家に帰ったが、そこには麻衣の姿がなかった。付けっぱなしだったパソコンの画面には、僕が開いてなかった小説が開いており……パソコンの画面に近づいて文字を読んで、俺は悟った。

 ――ああ、見られてしまった。

 これは小説でもなんでもなく、俺も気持ちを吐き出しただけの雑記だった。当然、誰にも言ってないことが書いてある。たぶん、麻衣が見たら傷つくであろうことも。

「最っ低だな。俺」

 嘆息するしかなかった。

 もっと注意を払うべきだったのだ。どうして俺はパソコンを付けたまま出掛けたんだ。

 自分の浅慮を悔やみつつ、手にぶら下げていたビニール袋から、買った品々を取り出して冷蔵庫に入れる。

 終わったかな。いや、終わったな。

 なんとなく、俺はそう思った。

 穢れた気持ちを見て、それでも人は人を愛せるだろうか。……それは、無理だろう。

 それも、ずっと本人に対して隠していたのだ。大人になるにつれて、誰にだって隠しておきたいことの一つや二つは出てくるだろうが、それでも、俺が隠していた秘密は、最低だと思う。

 だけど、そこに書き記した言葉が、語弊を生むのも事実なのだ。今となっては、その意味を伝えることもできないが。

 確かに、すべては芽衣から始まっている。

 だけど、でも、たぶん、俺は――



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