5  虹に降り注ぐ雪



 十月の終わり、ある日の話。

 俺はいつものようにせっつの見舞いに来ていた。これからは毎日せっつのお見舞いに行こうと決めたとき、今年は留年かな、なんて俺は思っていたけど、七恵がほとんどの授業のノートを取ってくれていたおかげで、なんとか留年にはならなそうだった。なんで俺なんかに、と言ったところ、『こうすけ君のためじゃなくて、雪菜ちゃんのため』と反撃された。あの男……上野洋が七恵と友達で、そこからせっつの情報が七恵に流れたらしい。それは別に構わないのだけど、俺は上野洋に礼をしたかった。

 自分の境遇に酔ってただけで、誰のことも考えていなかった俺をぶん殴ってくれたこと。

 何より、せっつの命を救ってくれたこと。

 せっつが目を覚ましたあと、上野洋はその場からすぐに立ち去ったらしい。自分で言うのは恥ずかしいけど俺は泣いていた。だから気づかなかっただけかも、と思ったんだけど、杉内さんも同様だったらしい。いつの間にか消えていた。まるで幽霊か、天使か、とりあえず霊的な存在のようではあった。ふらりと現れて、せっつを助けて、ふらりと消える。

 いつでもいい。彼ともう一度出会ったら、今度こそ礼をしようと思う。

 そんなことを思いつつ、今日も俺は病院に来ていた。肝心のせっつはというと、身体の痛みは起こらないものの、まだ本調子じゃないらしく、いつもベッドで過ごしていた。今日も話し相手になろうと思って……。

「コウスケ君の方が逢いたいと思ってるに決まってるじゃん」

 せっつの部屋の前まで辿り着いたとき聞こえた声。思わず足がもつれそうになった。

「そうなのかなあ……」

「想いってのは、近くにいればいるほど、案外分からないものだね」

 上野洋と同じように杉内さんにも感謝しなければならないのに、何故だろうか、とても腹が立つ。早く部屋に入ってせっつの側に行こう。

 ……それにしても、自分の気持ちに気づいてからせっつにどう接していいのか分からない。はあ。真っ直ぐになればいいだけなのにな。

「よっ」

 部屋に入った俺は片手を上げて挨拶をする。杉内さんと話していたせっつは俺の入ってきた音に驚きながらも、顔いっぱいに笑みを浮かべて俺の名を呼ぶ。

「こうちゃんだ!」

「コウスケ君も来たか。ちょうどいいかな」

 何がですか? と目で訴える。

「今日から出歩いていいよって。リハビリがてら、君のお気に入りの場所にでも連れて行ってあげなよ」

 お気に入りの……ああ、リハビリにもちょうどいい位の距離か。

「分かりました」

 俺は頷いてせっつを連れ出す。

「ほら、行くよ?」

「まだ横になっていたい……」

 お前は駄目人間か。心の中でそう罵りつつ、俺はせっつの手を引く。その手には少しずつではあるけど肉がついてきている。

 俺とせっつはゆったりした動きで部屋から出た。せっつの歩幅に合わせて廊下を歩き、階段を上り、屋上へと出る。覗いていたはずの太陽が陰り、曇天の空からは雪が降ってきそうだった。

 もう、そんな季節か。

 少しさび付いている青いベンチにせっつと並んで腰掛ける。

「座ろう」

「うん」

「寒くないか?」

「大丈夫」

「……震えてるじゃんか」

「……だ、だいじょっ……くちゅん!」

 俺は羽織っていた上着をせっつの身体に掛けた。

「無理すんなって」

「無理なんかしてないよ?」

 そもそも病人を外に引っ張ってきた俺の配慮が足りないだけだ。っていうか杉内さんも同罪だけどな。

「それにわたし、外に出れて嬉しいし」

 せっつは空を仰いで、両手を精一杯、上へ上へと伸ばす。宙に漂っている灰色の雲を掴もうとするが、掴み取ろうと握った拳を開いてみても、何もない。

「それ、虚しくねえか?」

「んー。そうだね」

 なんでそこで笑うんだよ。

「これは、今までのわたしの行動なんだよ」

「どういうことだよ?」

 せっつはしばらく考えて、それから俺に告げた。

「ほれっほれっ」

 謎の擬音を発しつつ、せっつはまた雲を掴もうとする。

「こうやってもさ、何も掴めないって思ってたんだよ。わたしはわたしの気持ちに気づいているのに、色々言い訳にしてさ」

 それは、俺が言うべき言葉なんだ。せっつのことを言い訳にして、傷つけなくてよかったはずの人も傷つけて……俺は俺の気持ちに気づいていたのに。

「って、お前の気持ちって――」

 なんだよ? と訊ねようしたけど、頬に冷たいものが当たるのを感じて、俺は辺りを見渡す。

 ふわふわとではない。ボテッボテッと音を立てて降っていた。これは、霙か。

「ほら」

 せっつは自分の掌を俺に見せた。おそらく霙に含まれている雪(?)が溶けたのであろうが、水が滴って地面に落ちていた。

「ちゃんと掴めるんだよ。わたしはわたしを。向き合うって決めたんだ」

「だから、何からだよ?」

 せっつ……雪菜は無言で俺にもたれ掛かってきた。不意に香った雪菜の匂いに、柄にもなく俺の心臓は高鳴ってしまった。そこで七恵が言ってたセリフを思い出した。

『好きだから、毎日メール送ってくるんでしょ!』

 雪菜、俺は今、お前を抱き寄せてもいいんだろうか。

「こうちゃん」

 すぐ側で俺を見つめる雪菜は、女の顔をしていた。俺が初めて見る雪菜の表情。

 雪菜――

 俺も無言で雪菜をギュッと抱き締めた。溜らなく愛おしかった。好きとか嫌いとか、愛情とか親愛とか、様々な言葉が脳裏をかすめるが、俺の貧困な語彙ではこの気持ちを表せない。ただ、溜らなく愛おしいだけ。そしてこの腕の中にある温もりを守り通したいと俺は本気で思った。トクントクンと俺と雪菜の心臓は鳴っていて、でも別の人間で、だけど今、俺たちは二人で一つの命だと思えた。違う、一つの命なんだ。

 こんな想いが続いていけば、くっついてなんかいなくても、俺たちは互いに一つだと思えるだろう。まだ、俺には無理だけど。だって、雪菜と話していた杉内さんに俺は嫉妬していたんだ。ガキだよ。そんな男だ。雪菜に何か言わなきゃいけないのに、腕に力を込めることしかできない自分が情けない。

「戻ろうか?」

 ついついそんな言葉が口から出てしまう。恨めしそうな顔で俺を見る雪菜。恥ずかしくてもう色々と耐えられないんだよ。分かってくれよ。

「もうちょっとだけ」

 降り注ぐ霙は俺らの身体や顔を穿つけど、何も気にならない。雪菜がそうしていたいなら、無理矢理に引っ張ってまで戻る必要もない。せめて身体が冷えないように、俺は雪菜に熱を与え続けるだけ。

 そうして、どのくらいの時間が経ったのだろう。出ている肌や雪菜の着ている俺の上着があまり濡れていないところを見ると、大した時間ではないと思う。

 いつの間にか霙は止んでいて、雲に覆われて陰っていたはずの太陽が顔を出していた。

 俺たちが座っているベンチや、そこにあるフェンスから眺めることのできる街々をぴかぴかと照らす。風はあまり吹いてないし。雲は分厚いし。中途半端に太陽は出ている。俺が見渡せるすべてを照らしはしない。が、たぶん、人生ってのは「そんなものなのかもしれないね」雪菜の声だった。

「何が?」

「自然に任せるだけじゃ、このくらいしか照らせないのかもしれない。だから、こうやってしていたいのかな」

 そうか。だから俺は、俺たちはみんな、自分で動くことを覚えるんだ。自ら行動して、求めて、その先にある温かさを知りたいんだ。

 生きていくということは、様々な道――分岐点を選ぶことだ。人間は選択し続けることしかできない。お偉い方達がよく使う言葉だけど、人生はゲームじゃないから、リセットはできない。

 でも、思うのだ。

 ゲームオーバーじゃない限りは、俺のようにやり直すことができる。選んでしまった道の途中で、その道を選び取ったことを悔やみながら引き返して、違う道を選び直すのは、きっと悪いことじゃないと思う。

 結局俺は一人では雪菜を選べなかった。七恵や杉内さん。そして上野洋。その三人に背中を押されて掴んだんだ。だからって、その道を選んだことを誰かのせいにはしない。背中は押されたけど、決めたのは俺だ。霧霜雪菜って女の子の、側にいることを決めたんだ。

「雪菜、俺は、」

 お前の側にいる。

 って格好つけて言いたかったのに、雪菜は唐突に俺の名前を呼んだ。

「こうちゃん、あれっ!」

 雪菜が指を差した方向には、虹があった。

「こうちゃんだよ!」

「……俺は確かに虹介(こうすけ)だけど」

 風成虹介。それが俺の名前。そんな名前に疑問を持っていた俺は、小さい頃、両親に言ったことがある。どうして虹介で『こうすけ』なんて読ませるようにしたの、と。浩介とか浩助とか色々な字があるのにさ。そしたら両親はなんと、『格好いいから』という理由で虹介なんて字を付けたらしい。そして、『誰も読めなくていいべ?』とかわけの分からないことを言っていたと思う。

 上空に浮かぶそれは、それぞれの色の境界線がはっきりとしている、見事な七色だった。

「す、素敵だね」

 雪菜がもじもじと手を動かしながら言う。

「そうだな。こんな綺麗な虹は久々だな」

「そ、そうじゃなくてね」

「……ん?」

「雨が上がったあとに虹って出るよね。『涙のあとにも虹も出る』? とかって歌詞もあるじゃん」

 正確に言うなら。『涙のあとには虹も出る』だな。

「誰かが悲しんで、泣いちゃって、どうしようもなくなって、それでも生きていればいつか笑えるって。そのための虹なんだって思いたい」

 こんな真面目な話は雪菜には似合わないんだけど、この場のこのセリフに限っては、雪菜が言うから意味を為すのだと思う。

「そうか」

 雪菜のための虹(おれ)であってほしい。雪菜は、そういう意味で言ったのだろうか。彼女にそれを尋ねるのは、さすがに怖い。……ゆっくりでいいよね。うん。

「あ、また降り出した」

「今度は、ちゃんと雪だな」

 こんな景色、見たことねえな。

 ふわふわと舞い下りていく雪が、虹に降り注いでいく。意外とこの世界は、俺たちの都合のいいようにできているんじゃないだろうか。だって、虹と雪って、これはまるで。

「わたし達みたい」

「そう、かもな」

「かもって何?」

 分かったよ分かりましたよ。

「そうだねっ!」

 大声を出して恥ずかしさを紛らわす。

「なんでいきなり大声出すの?」

「話変えるけどさ」

「うん」

 虹に腰掛けるように降り注いでいく雪。実際には虹を通過して地面に落ちていくだけなのだろうけど、俺には虹を頼るように降っていくように見える。叶わない願いだけど、虹の上に乗っかりたいと。そんなふうに俺には見えた。

「雪菜は、もっと素直に虹(おれ)を頼っていいんだよ」

 雪菜はもっと、俺を頼ればいい。

 いいのかな。雪菜はそう言っている。声には出していないけど、雪菜はそう言っている。

「あれ、見えるか」

 安定しない天気なのか、降り出したばかりの雪は次第に止んでいく。それと共に虹も消えかけていた。そこで俺の目が捉えたのは、七色の橋に降り積もる雪だった。

 願いは叶うんだ。

 雪菜もその神秘的な光景を口を開けつつ見ていた。

「何あれ……」

「神様がくれた夢じゃないかな」

 よく分かんないけどな。

「どういうこと?」

「ここは俺達のための舞台なんじゃないか?」

 たぶん、今からだ。ここから歩き出すのだ。

「一緒に、だから」

 離れかけていた身体をもう一度こちらに寄せて、雪菜は言う。

 分からないけど、神様は俺達に夢を見せてくれた。道を外した俺を見捨てずにいてくれた。俺と雪菜がすれ違って、二つになってしまった道を一つにしてくれた。

 交わることはない。いや、交わるべきではないと逃げていた俺。今だって、不安とか、そのような感情を持つことはある。あるけど。

「ああ」

 それでも頷くんだ。頷けるんだ。

 口下手な俺は……ただの恥ずかしがり屋さんなんでしょうけど。やっぱ真っ直ぐに気持ちを表すのは苦手だ。そんな俺だけど、それでも二人で歩いて行こうと思う。

 一瞬だけ見ることのできた、あの幻のような、夢みたいな光景。虹と雪の交差。

 もっと俺が人間的に大きくなって、雪菜も頼ることを覚えて……あの景色は二人の未来だ。繰り返しではあるけど、俺は雪菜の側にいることを決めたのだ。

「「――き」」

 誰に告げるわけでもなく、自然と紡いでいた言葉は……え?

「な、なんか言った?」

「こ、こうちゃんこそなんか言ったよね?」

「言ってないっ。雪菜は?」

「わたしも言ってないよ! っていうか前はせっつだったのに、なんか雪菜って恥ずか――なんでもないっ!」

 雪菜に対する愛おしさが胸の中に広がる。

 例えば、心に湖みたいなモノがあるとする。

 自分と向き合うことで気づいた雪菜への想いを――俺の中にあった小さな石ころ(愛)を投げただけなのに、投げた場所を中心にして水面はずっと揺れている。収まるどころか、どんどんどんどん揺れは強くなる。

 二人で一緒に生きていく。二つが一つになるように。

 雪菜は『わたしはわたしを掴める』と言っていた。それなら、俺も掴んでみようと思う。

 消滅してしまった虹に手を伸ばす。その行為を事情の知らない他人が見れば、如何に無意味で愚かなことをしているのかと思うだろう。でも、そんなことは俺に関係なかった。

 もう俺はお前を離さない。

 何回も、何回も、さっきまで存在していた虹を掴もうとする。拳を握って、開いて。馬鹿の一つ覚えみたいに。そのサイクルを繰り返して、また俺は気づいた。

 消えたモノは、もう掴めないのだ。

 側にいることが当たり前で、それ故にピンぼけしていた大切な人の存在。いつもは気づかないのに、消えてしまうなんて現実を見せつけられたとき、その人の大切さを知る。

 俺は、今を大事にしなきゃならない。過去でも未来でもない、今という時間を。

「好きだよ」

 ありったけの想いを、言霊に乗せて俺は発する。

 突然の俺の告白に雪菜はキョトンとしていた。そのまま雪菜にキスをする。


 そこにはたぶん、すべてがあった。

 病院の屋上で告白した俺は馬鹿なんだろうけど。

 シチュエーションってもんがあるだろうって自分でも思うけど。

 目を瞑った俺の中に、すべてがあった。

 見ている色や聞こえている音など必要なかった。

 唇から伝わる柔らかさ。

 確かめなくても分かる、雪菜の温もり。

 相変わらず雲に隠されている太陽。

 雲は少しずつ移ろいでいく。

 無風のように思えたけど、確かに流れている風。


 名残惜しいと思いつつ、唇から離れる。

 瞑っていた目を開くと、泣いている雪菜がいた。

 その涙を拭って、俺は思った。

 拭い続けたいと。

 あるのは、雪菜の安寧を想う気持ちだけだった。


 ――それがすべてだった。


 そのあとの話をする。泣き止んだ雪菜と一緒に俺は彼女の病室に戻った。……何故かそこには杉内さんを含め、病院の医療関係者達が十人ほどいた。とりあえず、俺達は部屋に入った瞬間に、たくさんのクラッカーで歓迎された。白煙で咽せた俺だったけど、杉内さんからとんでもないことを暴露された俺は再度咽せることになった。

 俺と雪菜の微妙な(?)関係は病院内で有名だったらしい。で、俺が告白するかしないかを病院中の人間が賭けていて、屋上での俺達の様子をそうっと窺っていた。とかなんとか。悪いけど、恥ずかしすぎて俺も上手には説明できない。

「好きってちゃんと言った?」

 と、杉内さんに耳打ちされたときに俺は誓った。人の無垢な心で遊びやがった大人なんか誰も信じないと。……なんてことはなくて、こんなにも俺達を祝福してくれる人がいるとは思っていなかったから、純粋に嬉しかった。

 こんな幸せをくれた、上野洋に感謝しなきゃな。

 そう思いながら俺は帰路についていた。

 ああ、そうそう。雪菜のために支払った右手(対価)のことだけど、それほど大げさなモノではないみたいだ。偏頭痛のように時折痛みが走るくらいで、日常生活にはなんの問題もない。

 そしてこれは余談だけど。この冬、一つの事件が起きることになる。……まあ。

 それはまた別のお話ってことで。



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