3 涙
「こうすけ君、話があるんだけど、いいかな」
昨日の夜、洋に話したからだろうか、緊張しているのを隠せるくらいには、心は幾分か落ち着いていた。
その日のこうすけ君は落ち込んでいた。私と目が合う度に、縋るような目付きで私を見てくる。瞳が揺らいで、すぐに涙が落ちそうな……子犬のような目付き。母性とかって言うんだろうけど、私の中にもそういうモノがあるらしくて。
私が側にいるよ。って言いたかった。こうすけ君の悩みは分からないけど、それがこうすけ君を悩ますなら、そんな目をするくらい心を痛めてるのだとしたら、私が守ってあげたい。こうすけ君を、守ってあげたかった。
「どうした?」
そう訊ねてくるこうすけ君の目は私を見ているはずなのに、どこか違う場所を見ているようで、それなのに、やっぱり私に何か期待しているような……そんな顔をされたら私は放っておけない。……そんなことは言い訳で、どんな方法でもいいから、こうすけ君を手に入れたいだけ。
私だけを見てほしいんだ。私を見て、『七恵、好きだよ』って言ってほしい。
きっと私は、言葉で説明するのが苦手なのだ。だから今、私はこうやって彼の手を退いて歩いている。
――ああ、これからどうしようか。
そんなことを思ってしまった自分に呆れてしまった。どうするも何も、告白するだけだ。彼は黙って私についてきてくれている。廊下の窓に反射して、こうすけ君の姿が見える。目は、虚ろだ。黙ってついてきているのではなくて、本当は意思なんてない……?
少しだけ、不吉な考えが頭をかすめた。そんなことはない。告白する前だから、不安になってるだけなんだ。そう思い込もうとしたけど、そのもやもや感はいつまで経っても消えなかった。
歩いて、歩いて、歩いて。今は使われていない旧館まで来てしまった。確かに人はいないけど、歩きすぎたかな。こうすけ君が疲れていないか心配になって、私は振り向いた。
こうすけ君は、ちゃんといた。私が自分で手を引いていたのだから当たり前だけど、それでも心配だった。ここにいるのに、ここにいない。心がどこかに飛んでいる。私にはそう見える。
「こうすけ君」
「――っ、何?」
私の言葉にビクビクとしている。驚いてもいる。私は何もしてないよ。どうしたの。私に言ってみてよ。君は私と一緒にいるんだよ。……いるよね?
「こんなとこまで来ちゃったよ」
ぎこちないであろう笑みを浮かべる私。そうすることしかできない。
「そうだね」
こうすけ君も、笑う。その笑みは私と同じくぎこちない。
「ここ、もう使われてないから、誰もいないよ?」
そう告げてくるこうすけ君。私が何をしようとしているのか、分かっているのかな。
「知ってるよ。だから来たんだよ」
こうすけ君は、私を見つめてくる。こうすけ君は、逃げる? 逃げない?
「そうか」
とだけ言って、今度は逆に私の手を引いて、旧館の中に入っていった。
使われてはいないけど、鍵は掛かっていない。だからみんな、サボるときはこの旧館に来る。その旧館の一番奥の部屋。誰もいない教室。まるで世界から隔絶されてしまったみたいに、時を止めてしまったのか。そんな部屋の端っこに、私とこうすけ君は座っていた。
こうすけ君は、時折視線を中に漂わせる。でも、基本的に下を向いたままだった。私はそんなこうすけ君の横顔をずっと見ていた。
時間は流れていく。このままでは、昨日決めた決意が消えてしまいそうになる。事実、先ほどより私の中にあったはずの強い強い決意は弱くなっている……ような気がする。
目を瞑った。そして、清いとは言えない、濁った空気を肺に吸い込んだ。そして、吐き出す。
「私、こうすけ君のことが好きだよ」
ゆっくりと、ゆっくりと、こうすけ君はこちらに顔を向けた。
こうすけ君は、怯えていた瞳に微かな光を灯した。
「……俺も七恵のことが好きだよ」
一分か、十分か、それとも一時間か。黙っていたこうすけ君は、そう言葉を発した。
私は緊張していた。どんなときよりも緊張していた。だから、その言葉を聞いたとき、最初は意味が分からなくて、ただただ、ぼんやりとこうすけ君の口を見ていた。
「七恵?」
こうすけ君はそんな私を不思議に思ったのか、顔を近づけた。
こうすけ君の匂いがした。我に返った私は、こうすけ君の言った言葉の意味を繰り返し考えた。聞き間違いじゃない。
「本当?」
こうすけ君はちゃんと私を見ている。だから聞き返す必要なんてない。
「ああ」
目の前にいるこうすけ君は、私を見てる。
「好きだよって言って」
どうして? と彼の目は言っている。確認したいだけ。
「七恵、好きだよ」
「嬉しいよ」
その言葉が、どんなにほしかったか。
私の目から、つぅっと涙が流れた。
☆☆☆☆☆
「嬉しいよ」
そう言った七恵の目から、涙が流れた。
俺はそんな七恵になんの感情も覚えず抱きしめる。
俺は心をなくしてしまったのかもしれない。なんでだろう。好きって言ってくれる子がいて、俺はその子のことを嫌いとは思ってないから、好きって言って。これでいいはずなのに。
抱きしめていた腕を解く。どちらともなく顔を近づけ、俺はキスをした。七恵の匂いがして、柔らかくて、温かくて。ふわふわとした気持ちが俺の中に生まれる。七恵、と名前を呼んで、彼女の身体を倒した。唇にキスを落としていく。
そうしないと、俺は忘れるようにしたそれから逃げれなかった。卑怯者で、臆病者だ。もう分かってるんだ。だったら、さっさと楽にしてくれ。
こんな場所だというのに、気づけば俺と七恵は裸になっていた。終わってしまった行為に、七恵に、忘れたそれに、俺は罪悪感を覚えた。たぶん、行為中、俺たちはお互いの名前を呼んでいた。彼女は純粋に俺が好きだから何度も俺を求めたのだろう。でも、俺は違う。俺は自分の恐怖を消そうとして、七恵を利用した。正確には、七恵の身体だ。欲望に浸っている間だけはすべてを忘れられた。溺れるようにして、七恵の身体を掴んで、そこに自分の恐怖をぶつける。そうすることしかできなかった。最低だとはわかっていても、止められなかった。
俺は自分が分からない。何をどう思っているのか。
――嘘吐き
頭の中で声がした。もう一人の冷めた自分がそう言っている。
分かってる。もう分かってるんだ。
俺は今、あいつの側にいてやりたいんだ。今日だって、俺は朝ずっと携帯を眺めていたじゃないか。せっつからのメールが来てないか、何度も確認したじゃないか。七恵のことを考えていなかったわけじゃないけど、俺は一番に、誰よりも、どんなことよりも先に、せっつのことを考えていた。いい加減気づけ。いや、理解しろ。中途半端なことをするな。
それこそ、いっそ離れた方がいいじゃないか。でも、そんなこと俺にできない。できるわけがなかった。だって今あいつは、一人で泣いているかもしれない。真っ白な部屋(病室)の中で、涙を流しているかもしれない。そんなあいつの孤独を誰が癒す?
俺は――
穏やかな顔で寝ている七恵。
俺は――
俺と七恵の呼吸する音だけで作られていたこの部屋に、新しい音が飛び込んできた。
それは、すべてを壊すように。
閉じられた世界でできていたこの部屋は、今、壊れた。
でもそのときの俺は、色々と考えていた。だから、掛かってきていた電話に気づかずに、自分の馬鹿さ加減に呆れながら、罵りながら、考えていた。
どう思われたっていい。せっつのところに行こう。七恵には謝って、謝って。
俺は――馬鹿だ。
大切なモノをちゃんと手に入れよう。俺は周りに対して誠実でいよう。
もう自分に嘘を吐かない。
そこで俺はブルブルと震えているモノに気づいた。
俺の思考を遮るようにして掛かってきた電話。
マナーモード中で震えている携帯を手に取る俺。
最悪の結末が告げられることも知らずに。
☆☆☆☆☆
わたしには、大切な人がいる。誰よりも、何よりも。
本当は、その人の幸せだけを願いたいんだ。だけどね、わたしは弱い人間だから、わたしの幸せを求めてしまうよ。自分の気持ちなんて、ホントはよく分かっていないのかもしれない。確かに、好きだよ。こうちゃんのことが好き。でも、やっぱりわたしは素直になれない。同じことの繰り返し、堂々巡りって奴なのかもしれないけど……。素直になれないのは、こうちゃんのことを考えるからだ。この先の、わたしがいなくなった未来のことを。
こうちゃんを辛い目に遭わせたくない。深い悲しみとか。絶望感とか。そんなモノを、味わわせるなんて絶対に嫌だ。わたしはこうちゃんに幸せになってほしいんだ。
だって、大切な人だから。誰よりも、何よりも。
――本当は、もうちょっとだけ甘えていたかったけど。
わたしの前にいるのは、先生だ。わたしの主治医。杉内さんは善人と呼ぶのが相応しい人だ。奇妙な病気のわたしを見捨てずに、最期まで付き合ってくれた。こんな人が主治医でよかった。ありがとうございます。
って、聞こえてないかあ。
先生は必死にわたしに呼び掛けている。ありがとう。ありがとう。先生、ありがとう。
でもね、もうわたし、喋れないよ。力が入らないんだ。よく見えないよ。
こうちゃん。逢いたいよ。
突如として浮かんできた想いにわたしは驚く。ああ、そっか。わたしはやっぱり弱い人間なんだ。もう死ぬ、なんてときになっても、大切な人の幸せを願えない。
それは、駄目なことなのかな。いけないことかな。
こうちゃん。
心で名前を呼んでみる。彼は、死んでしまったわたしを見てどう思うのだろうか。
泣いてくれるかな。怒ってくれるかな。それとも、悲しみを隠しながら、笑うのかな。
寂しさでいっぱいだけど、わたしは、嬉しかった。
最期に逢いたかったけど、それでも嬉しいのだ。
だって今、わたしは笑えているはずだ。笑って言うんだ。
ねえこうちゃん。君に出逢えてよかったよ。
ありがとう。
さようなら。
☆☆☆☆☆
キリシモセツナの目が閉じていく。徐々に、徐々に、開かれていた目が閉じていく。
死んではいない。まだ、死んではいない。
でも、この目が開かれないことは、ボク自身が誰よりも理解している。
医師として、ボクは何もできなかった。結局、何もできずに――
「こうちゃん」
完全に瞼が閉じる寸前、彼女はそう呟いた。キラキラとした涙が一滴流れた。彼女は笑っていた。たぶん、すべてを理解していたであろうに、彼女は笑ってそう呟いたのだ。
「ボクは……」
絶望感にうちひしがれる前に、ボクにもできることがある。医師としてなのか、個人としてなのかは分からないが、できることはある。彼に、カザナリコウスケに連絡することだ。
彼女をもし救えるとしたら、それはボクではない。キリシモセツナの手を握りながら泣いている母親でもない。キリシモセツナが想いを寄せている、カザナリコウスケなのだ。
医療的にできることは……ない。ほんの少し命を延ばすだけなのかもしれないが、彼女が目を覚ますとしたら、それはカザナリコウスケの声じゃないと駄目なような、そんな気がする。
ボクは部屋から出て、走った。階段を下りて、下りて、下りて、ボクは病院の外に出た。ポケットに突っ込んであった携帯を手に取り、カザナリコウスケに電話を掛ける。
早く出てくれよ。
そう願いながらボクは耳を澄ませる。不安か緊張かはわからないけど、何故かボクの聴覚は研ぎ澄まされていた。聞こえてくるのは風の音だ。それと、木の葉の音。風が吹いて、葉っぱがどんどん落ちていく。落葉樹、だっただろうか。ボクはその光景をずっと見ていた。一枚。また一枚。落ちていく葉にキリシモセツナを重ね合わせる。木の葉がすべて落ちてしまうのと、キリシモセツナの命が絶たれてしまうのと、どちらが早いのだろう。
ああ、まだ出ない。
風は、ずっと吹いている。風に流されて、舞い飛んだ葉はボクの足下に辿り着いた。
寂寥感だけが募っていく。そして、携帯電話を持つボクの手は冷えていく。カザナリコウスケはまだ電話に出ない。何かあったのだろうか。
と、そこでノイズ音。
「もしもし」
「コウスケ君だね」
「どうしました?」
「セツナちゃんが倒れた」
え。と間抜けな声を出すカザナリコウスケ。そんな彼に苛立ちを覚えたが、なるべく感情を抑えてボクは告げた。
「彼女はもう、目を覚まさない」
沈黙が続いた。カザナリコウスケ、君は何を思っている?
続けて、今来れるかい? と聞こうとしたところで、電話越しに別の声が聞こえてきた。
『どうしたの?』
女の声だった。起きたばかりのような声。いや、それよりも気になったのは、その女の声の甘さだった。まるで、それは彼氏彼女のような……。
『こうすけ君、どうしたの?』
先ほどより強い声だ。はっきりとボクのところまで届く。
「……が……ったからか――」
覇気のない、微かな呻き声だった。
「なんだって?」
『こうすけ君……? 泣いてるの?』
「俺が、間違えたからかよ!」
突如として怒りを爆発させたカザナリコウスケ。ボクは彼に何が起こったのかを知らない。いや、知りたくない。
「そんなのは君の勝手だ。ボクは――セツナちゃんがそれを知りたいと思うか?」
思わず言い捨てた。これじゃあ、ボクの方が感情を爆発させそうだ。
「お前、何してた?」
「……俺は」
言葉が続かなかった。途切れた言葉の先なんて分かる。これは、男としての勘だ。
「最低だね」
キリシモセツナの想いを、感じ取っていなかったわけじゃないだろう。それなのに、それでも、逃げていたいなら逃げていればいい。
「卑怯者……いや、臆病者か。そんな男に恋をしてたなんて馬鹿みたいだな。あの子が報われないよ」
知らず知らずのうちに自分で笑っていた。キリシモセツナの恋の終焉がこれで終わるとは、さすがに思わなかった。くだらない。あの子の想いは、結局ちゃんと通じてなかったわけか。
「なあ、可哀想だとは思わないか?」
ボクがそう言ったところで、プツリと電話が切れた。
☆☆☆☆☆
「……俺は」
こうすけ君は泣いていた。ポタポタと落ちる涙に私は触れたかった。
私がそれに手を伸ばすと、こうすけ君は首を振った。まるで、やめろ、とでも言うように。
電話からは男性の声が聞こえていた。その人が言葉を発する度にこうすけ君の表情は曇っていく。ただ静かに涙が流れていくだけ。
また、何か男性が言った。するとこうすけ君の顔が、更に曇っていき――
もう見たくない。こうすけ君のそんな顔、見たくないよ。
私は携帯電話を奪って、電話を切った。
「ねえ、どうしたの?」
「七恵……」
どうしてそんなに申し訳なさそうにこっちを見るの? ねえ、こうすけ君。
「俺の、大切な人が、倒れたって……」
その言葉が誰を指すのか、すぐに分かった。それでも、違っててほしいから私は疑問形で訊ねる。
「メールの子……?」
「そうだよ」
そんなにあっさり肯定しないでよ。
「俺、間違っちまった」
頭を抱え込んでしまうこうすけ君。
「ねえ、何を間違ったの?」
聞かない方がいいのに、なんで私は聞いてしまうんだろう。
「俺、本当は――」
「言わないでっ!」
大声を出してこうすけ君の声を遮った。私の声にビクリと反応して、顔を覆っていた手が離れた。
聞きたくない。自分で聞いたけど、聞きたくない。ごちゃごちゃするよ。ねえ、こうすけ君、どうしてそんなことを言おうとするの? 全部、嘘なの?
「七恵、俺は――っ」
言い訳なんて、聞きたくない!
私は平手打ちでこうすけ君の頬を叩いていた。
「男なら、言い訳なんて、するな!」
言いながら、私の目からも涙が流れてくる。
「ごめん」
真っ昼間から裸で、私たちは何をしているんだろう。
わけが分からない。こうすけ君は一体何をしたいの?
「ねえ、せめて、ちゃんと話してよ」
小さく頷いたこうすけ君は、徐に話し始めた。
「せっつ……霧霜雪菜って言うんだけど。そいつのこと、子供だったときから好きだったと思う。でも、面と向かって好きなんて言える相手じゃなかったんだよ。幼なじみで一緒にいたから余計さ。ずっとこんな関係が続いていくのかなあ。なんて思ったら、あいつ病気になっちゃって。……俺が知らなかっただけで、初めから患っていたらしいんだけど、その病気が本格的になっちまったっていうのかな。それが一五歳くらいのときで、それからあいつは病院に入院してるんだ」
「今も……?」
「うん。それで、俺は、怖くなったんだろうな。病名無し、原因不明の、少しずつ悪化している病気を、俺は一番近くで見ていてさ。腕とか、足とか、めちゃくちゃ細くなってるんだ。そういうのも見てて、俺は彼女に対して何もできないから、逃げてたんだ。本当は、一番……誰よりも大切なのに。別にあいつがいなくなっても平気だって、自分の気持ちに嘘を吐いて。それで、七恵と――」
「もう、いいよ」
「ごめん」
私は憤っている。もちろんそれは、私を利用したことだってそうだ。でもね、そうじゃないんだよ。こうすけ君は……この人は……。
「その子、こうすけ君のこと好きなんでしょ?」
どうして……。
「分からない」
首を振るこうすけ君。
「分かってやりなよ!」
限界だった。一度止まったはずの涙がまた流れ出てくる。
「好きだから、毎日メール送ってくるんでしょ!」
その子はどんな気持ちだったのだろう。私は想像することしかできないけれど、会ったこともない子だけど、手に取るように分かる。
たぶん、相当心は痛かったと思う。傷ついていたと思う。どれだけ心が強い女の子なのだろう。胸の奥から湧き上がる、甘くて切ない気持ちをただただ必死に抑えて。好きな人に『好き』って言えないって、そんなに辛いことってないよ。こうすけ君の前じゃ笑って、一人のときに泣いて……それなのに、それなのに――
「何もできないって最低だよ!」
一緒にいることが、側にいてあげるだけで救われる想いがあることを、こうすけ君は知らない。ううん、理解できないんだ。
「好きなんでしょ?」
「……好きだよ」
「はっきり言えるんじゃない」
こうすけ君が言った『好きだよ』は、私に向けての言葉じゃない。
でも、私は嬉しい。
その子と私は、言うなればライバルだ。こうすけ君という一人の男の子を手に入れたくて、戦ってきた。直接の面識はないけど、その子だって戦ってきたんだ。
そして、私は悟った。こうすけ君とその子は、繋がっている。心の奥の奥で繋がっている。不器用すぎる男の子と、嘘吐きなその子。私が入り込める余地なんてなかったんだ。
それなのに、私は嬉しい。
こうすけ君のことを、それほどまでに愛している子がいるのだ。こうすけ君の彼女になるのが、例え私じゃなくても、その子なら許せる。先の見えない、いつか死んでしまうであろう病気と、秘めた想いの二つを天秤に掛けた。結果その子は、こうすけ君への想いを殺した。それは、誰よりも、何よりも、こうすけ君のことが大切だからだ。そんな子なんだ。
こうすけ君が逃げていたのは許せない。
私の身体を利用したのも許せない。
その子の想いに気づいていなかったのも許せない。
正直自分でも何を思っているのか、何を言おうと思っているのか分からない。
口から出る想いだけに身を任せる。
「側に行ってあげなよ」
「七恵……?」
「悲しいよ。大好きな人に嘘吐かれたもん。それでもね、私はこうすけ君のことが好きだよ」
脈絡もなく言葉を吐き出す。
「一緒にいたいよ。行くなって言いたいよ。けどね、誰よりもそれを望んでいるのは誰だと思う? その子でしょ?」
微かだけど、ほんの少しだけど、こうすけ君の目には力が戻ってきている。
――あと少しだ。飛び立てるように、背中を押す。
鋭利な刃物を自分に刺す。血で濡れた刃物で、自分の体をぐちゃぐちゃに引っかき回す。
でも、いいのだ。
どんなことからだって逃げるな。君のことをそんなに愛してる子はそうそういないんだよ。大事にしてあげてよ。
「それに、こうすけ君が好きなのは、その子なんでしょ? 私といていいの? エッチしてていいの?」
「そんなことしてた俺が、行ってもいいのかな」
「そんなこと知らないよ。こうすけ君が行きたいから行くんでしょう? それに、もしその子の前でなんか言ったら……私とのことを言ったら、私、こうすけ君のことを一生許さないから」
言わないのが辛い。罪を打ち明けて楽になってしまいたい。そう思って、本当に打ち明けてしまう人間が、ごく稀にいる。こうすけ君の幸せだけを願った子に対して、私との情事を話すことは、残酷すぎる仕打ちだ。そもそも、『倒れた』と言っていたから、話せるのかも分からないけど、助かったときにこうすけ君が言ってしまう可能性はあるだろう。
そうさせないための、釘を差し込んでおく。
「約束してね」
「分かった」
数時間だけだったけど、恋人だった私たち。仮だけど、嘘だけど、それでもいい。刹那の間だけ感じた熱は、確かに本物だった。それだけでいい。日の光が差し込んで、私の素肌を照らす。こうすけ君の裸体も。光が眩しすぎるからだろうか、汚くなった窓ガラスに映る私の裸は、なんとなくだけど、頼りない。なんだか滑稽だ。二人して、何かに操られるように求め合って、果てて、終わった。でも、体温だって、快感だって、すべて本物だった。
――ああ、そうか。
私にとっては、だったのだ。だから虚しいんだ。こうすけ君は、逃避から始まった欲求だったんだ。たぶん、私じゃなくてもよかったんだ。そこに自分への好意が多少ありさえすれば。
「ねえ、こうすけ君」
服を着終わり、静かに教室の外に出ようとしたこうすけ君に声を掛けた。
「私、どうだった?」
意味が、伝わるだろうか。この鈍い彼に。しばらく沈黙していた。私の質問の意味を考えているんだろう。
「よかったよ。ありがとう」
彼は笑っていた。ぎこちなく、それでも笑う。そういうところが、大好きで、嫌いだ。
優しいけど、ばれるような嘘なら、最初から吐くな。
私は立ち上がって、こうすけ君の元まで歩く。何故だろうか、こうすけ君はちょっとだけ頬を朱に染めた。
あ、服を着てないからか。
でも、関係なかった。
「目、瞑って」
「どうして?」
「いいから」
こうすけ君は素直に目を瞑った。短い睫毛が震えていた。
私はキスをした。貪るようなキスじゃない。そんな暴力的なモノじゃない。味わうように、なんて言うと変かな。でも、私はこうすけ君を感じていたかった。覚えていたかった。私だって、こうすけ君のことが好きなんだ。彼も、私を抱きしめて、ちゃんとキスをしてくれていた。キスをするときの礼儀、かは知らないけど、どうしても私は目を瞑ってしまう。恥ずかしいという気持ちから来ているのかも、と個人的には思う。このとき、私は初めて目を開けた。すると、こうすけ君も目を開いていたのだ。
長い、長い、そんなキスだった。こうすけ君も、私と同じようなことを思っているのだろうか。そうならば、私は幸せだ。そう思った途端、さっきまでの憤りが嘘のように治まっていく。
そうして、私たちは唇を離した。
まるで、本当の恋人のように。
「七恵って、大胆なんだな」
意外そうにこうすけ君は言う。
「今更気づいたの?」
そして、わたしは――
次の瞬間、こうすけ君の頬を再び叩いていた。
「ばれるような嘘なら最初から言うな!」
私は肩で息をしていた。怒りじゃない。これは、注意とか警告とか、そういった類のモノだ。
「分かった!? その子の前でそういうことしちゃ駄目だからね!?」
こうすけ君はこちらを見つめ、しばし放心していた。でも、口元に微かな笑みをたたえて。
「ありがとう」
と言って、教室の外に出て行った。
残された私は、立ち尽くしていた。こうすけ君の足音が完全に消えたあとで、私は嗚咽をこぼした。怒りじゃない。憤りじゃない。ただ、悲しかった。抑えようとしたはずのモノが、次々に溢れてくる。あれだけ格好つけて、こうすけ君を送り出したのに。
自分でも呆れてしまう。この涙の量は一体なんなんだろう。落ち着くまで、泣こう。泣き続けよう。そうだ、泣き終わったら彼に聞いてもらう。
私とこうすけ君の、二人の事の顛末を。
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