2  気持ち



 鉄製の分厚い扉を開け、病院の屋上に出た俺は大きく息を吸った。

 田舎と呼ぶほど小さくはなくて、でも都会じゃなくて……ここは、そんな街を一望できる場所。転倒防止用に張り巡らされているフェンス。そこから覗くことのできる景色は、意外と好きだ。せっつに会いに来るけど、大抵は寝ている。だから俺は自然にここで時間を潰すようになっていた。

 せっつは数年前からずっとこの病院に入院している。病名はなし。というか付けられないらしい。原因不明の病気で、少しずつ病状は進んでいて、打つ手はない。というくらいのことしか知らない。……ホントは、それさえも知らなかったのだけど。

 せっつは、自分から病気のことを話さない。自分からというより、俺が訊ねても、大丈夫、大丈夫、それしか言わない。さすがに俺だって馬鹿じゃない。せっつの担当医に頼んで、教えてもらったのだ。

 秋から冬になりかけている。まだ降っていないが、もう少しもしたら、この街には真っ白な雪が降る。細かくした綿のような、柔らかなそれが降る。吸い込んだ空気は冷たくて、肺がじんじん痺れる。ふうっと溜め込んでいた息を吐き出したところで、後ろから声を掛けられた。

「またここにいたんだね」

 声の主は分かっている。振り返ることなくそのまま言葉を返した。

「そうっすよ。暇な大学生なもんで」

 俺の横に並んで煙草を吸い始める彼……せっつの担当医だ。

「杉内(すぎうち)さんこそどうしたんですか?」

「ボクは当直終わったから帰るの。で、その前に一本吸おうとしたわけ。君もどうだい?」

 そう言って俺の手に一本握らせようとする。からかってるんじゃなくて本気かよ。

「病院で煙草って……っていうか未成年に煙草(そんなもん)を進めないでくださいよ」

「君未成年だったっけ?」

 白々しい。でもここまで堂々だと逆にすがすがしい。

「雪菜と同じですから」

 彼が吐き出した真っ白な煙は、ゆらゆらと揺らぎながらフェンスを越えて、そして、消えてゆく。何故だろう。流れてゆく煙を少しだけ羨ましいと思っている自分がいた。

「俺煙になりたいです」

 飾ることなく、素直に告げた言葉だ。

「日頃のストレスから脳内、もしくは心に異常か」

 きつい視線だこと。

「哀れな目で見ないで下さいよ」

「一応僕は、優、秀、な医者だから重病人を放っておくわけにはいかない。さあ行こうか」

 自分で優秀と言うヤツは大抵ナルシストだ。なーんて思っていた俺だったけど、認識を改めさせられることになった。彼は紛れもなく天才だ。全身科医(ジェネラリスト)というのを目指していて、どうしてこんな中途半端な規模の病院に勤めているのか分からないほど有名なようだ。

 ……だってたまにテレビに出てるんだぜ? っていうかゴッ輝?

「そもそも俺にストレスなんてあるわけないじゃないですか。あいつの方が大変だ」

「まあ、そうだね」

 彼は頷いて、また口に煙草を咥える。

 前から風が吹いてきて、俺は少しの間目を瞑った。そのあと、わけもなくチラリと横目で彼の方を見た。すると彼も俺を覗いていた。

 視線が一瞬交差する。

 せっつの担当医である彼が何を思っているのか、その目から窺うことはできなかった。

 そして、彼もたぶん、俺の思っていることを見抜くことはできなかっただろう。

「はは」

 彼は突然笑い出した。

「なんですか?」

「いや、なんで君と腹の探り合いをしたのかなあって」

「俺も思いましたけど、笑うことはないじゃないですか?」

 そうなんだけどね。と言う彼はまだニヤニヤと笑っている。

「意外と心配してるんだね」

「……どう返せばいいんすか」

 自分の顔に考えが出ていたのだろうか。

 ボクと似たような目をしているよ。と彼は言った。そうなのだろうか、と思って俺が彼の目をもう一度覗こうとすると、彼はさっと反転し、帰っていった。

 そう、心配だ。進行性で止まらない。寝ていることが多くなってきてる。杉内さんだって、俺にすべてを話したわけじゃないだろう。もしかしたら、せっつはこのまま起きないのかもしれない。そう考えると、俺は、俺の胸の奥には、何かが溜まっていく。恐れとか不安とか、その手の感情だ。昔……十年ほど前だったか、俺の婆ちゃんが死んだ。そのとき俺はまだ九歳かそこらで、死という概念が分からなかった。たぶん、今だってそうなのだろうけど、もしせっつが、霧霜雪菜という女の子が死んでしまったら、俺は婆ちゃんが死んだときとは比べものにならないくらい悲しむだろう。自分も死にたくなるだろう。

 それなら、いっそ、せっつと関わらない方がいいのかもしれない。

 もし明日、学校に行って、そこで七恵が何かアクションを起こしたら、俺はそれに乗っかろう。楽になろう。

 その前に一度だけ、一度だけだ。せっつに会いに行こう。顔を見よう。俺が安心して、そうして離れよう。自己防衛だってわかっているけど、俺は耐えられない。

 結局俺は、雪菜の部屋に何度も行くことになった。何故なら、昼になっても夕方になっても、雪菜は起きなかったからだ。

 自分の気持ちの置き場は、どこなのだろう。


     ☆☆☆☆☆


 夏の終わりからだろうか、こうすけ君はしょっちゅう大学を抜け出すようになっていた。大学を抜け出す際のキーワードが、送られてくるメールだ。彼はメールを見て、何か返信してから、そそくさと教室から抜け出していた。

 私は事情を知らない。なんでサボるのか、どこに行っているのか、何があるのか。

 友達からだよ。という彼の言葉を信じるほど素直じゃないけど、だからって聞けるほど仲を深めているわけでもなかった。そっか、とか、またなの、なんて言って送り出すけど、本当は嫌だ。女の勘だけど、たぶん、差し出されたメールの相手は女の子だ。こうすけ君は毎日その彼女の元へと向かっているんだ。そう思うと、私はなんだか苦しい。心の奥がぎゅっと締め付けられる。

 それは、こうすけ君のことが好きだからだ。まだ表面的な部分しか知らないけど、話していると楽しくて、もっと会話が続けばいいって思っている。そんな自分の気持ちに気づいたとき、私はドキドキした。恋をしているのだと分かった。

 私と話しているときに見せる表情と、送られてきたメールを見たときに顔に出ている表情は、違う。どちらが本物でどちらが偽物で、なんてことはないのだろう。でも、違う顔なんだ。私はもっとこうすけ君のことを知りたいと思っている。笑うだけの彼じゃなくて、怒っている顔や呆れた顔を見てみたい。もっともっと近づいて――

 分からない。近づいてどうするのかなんて分からない。だけど側にいたい。

 もし何か悩んでいるなら、一緒に考えてあげたい。

 もし苦しんでいるなら、一緒にそれを分かち合いたい。

 好きだよ。こうすけ君。

 ベッドに置いてある枕をこうすけ君に見立てる。

 こうすけ君――

 ぎゅーっと抱きしめる。こうすけ君の腕で抱かれるのを想像する。一体どんな感じがするのだろう。でも、もし、仮なんだけど、メールの女の子が抱かれているとしたら……。

 また悲しく、苦しくなってくる。身体の内部から針を刺されているような、そんな痛みを感じる。私は、こうすけ君の友達なのかな。それ以上には見られていないのかな。

 ……そういえば、高校生のときにも好きだった人がいた。その人のときにもこんな感情を覚えた。彼とこうすけ君は全然似ていないけど、どこか、何かが、似ているような気がする。

 そのとき、私は積極的にアピールした。それなのに彼はそのアピールを躱し続けたのだった。結局、私はその恋を諦めたのだけど、その人とは友達になれた。異性だけど、なんでも話せる、本当の意味で友達になれた。

 こうすけ君のこと、聞いてみようかな。

 男の子のことは男の子に聞くのが一番だ。久々に、彼に連絡を取ってみようと思った。

 自分の気持ちは決まっているから、私は明日想いを伝える。でも、不安を紛らわしたい。こんなときは少しでも話しをしていたい。

 彼は、何をしているのかな――


     ☆☆☆☆☆


 今日の『カフェ・サエキ』は大繁盛だ。全部で二十席――四人掛けのテーブル席が四つと、カウンター席が四つあるのだけど、すべてのテーブル席には人が座っていた。孫か誰かの入学祝いだそうで、家族親戚が集まった団体様だった。

 そんなわけで、いつもは手伝わない僕を含めた店員三人がフル稼働だ。佐伯さんが料理を作り、僕が料理を運んで説明し、真優が子供やお年寄りの話し相手になるという役割。 ……僕は真優の配置がおかしいと思っていた。だけど、意外と真優はその手の人物――子供やお年寄りの相手が上手だった。

 コレだけ客の人数が多いと、どうしても一つ一つの料理が出てくるまでに時間が掛かってしまう。そうなると子供は「ひまーひまー料理まだー」なんて、こっちの身にもなってみろよ、と思わず拳を握ってしまいそうなセリフを吐き出したりする。そしてお祖父ちゃんお祖母ちゃんがその子供の相手をする。子供の面倒を見るというのは意外と大変なモノで、元気のない、と言ったら失礼かもしれないが、やはりお年寄りには荷が重いだろう。と言うことで真優がお手伝いに行くのだ。

 微笑みながら優しく話しかける姿を見ていると、こちらまで微笑みたくなる。そしてその度に思うのは、僕に対してもああやっていてくれたらなあ……。

 そもそもだ。佐伯さんが人前に出てしまうと、大体の子供なんて泣き出す。大人だって怯える。そうなると僕か真優のどちらかでそういうことを担当しなければいけないのだ。

「洋君、オレンジジュース持ってきて」

 真優から指令を受けた僕は冷蔵庫からオレンジジュースを出した。それから氷を――キューブアイス(大抵の家庭で使う、2~3センチくらいの氷)を数個取って、ビニール袋に入れた。僕は小さな木槌を持って、バンバン叩く、どんどん叩く。すると氷は細かく砕ける。砕けた氷の中で比較的大きい氷は取り除く。飲み物と一緒に飲んだ際に、口に残るからだ。そうしてできた、細かな氷――クラッシュドアイスをジュースの入っているコップに入れる。できあがりだ。

 余談だけど、コップは冷やしてある。常温のコップと冷やしてあったコップだと、氷の溶け方が全くと言っていいほど違うのだ。

「はいよ」

 僕は真優にオレンジジュースを手渡した。

「また、氷手作りなんだ」

 真優はそう言うと、呆れたように笑った。そしてそれを小さな子供の元に届けた。

 本当は製氷機がある。キューブアイスを入れて、スイッチを押せば、一瞬だ。それを使って作ればすぐにできるのだ。僕が手で作るより何倍も早い。でも僕はそれを使って作るのを好まない。

 機械で作った無機質なモノを客に食べてほしくないからだ。僕は僕が作ったモノ――人の手で作ったモノで客の食事を彩りたい。だって、そこにはちゃんと人が、客がいるのだ。年齢だって性差だって性格だって、バラバラだ。機械で作ると言うことは、すべてが同じになるってことだ。人間は、みんなバラバラなんだ。僕は一人一人に合わせて作りたい。

「氷の作り方、大分慣れてきたじゃねえか」

 少し離れた場所で料理を作っていた佐伯さんが僕に話しかけてきた。料理を作っているときは大抵話さないのにもかかわらず、だ。

「そうですか?」

「ああ、早くなってるし、人に合わせられるようにもなってきてる」

 さっき、『いつもは手伝わない』と言ったが、本当は、手伝わせてもらえないのだ。僕は将来、佐伯さんと共にこのカフェを経営していきたいと思っている。だから色々と教えてもらいたいのだけど、どうやら佐伯さんの中では、既に僕をどう教育するか決まっているようだった。

 佐伯さんに許可されているのは、包丁を研ぐことと、氷を砕くこと、それと接客くらいだった。最近は朝食メニューを作ることを許されているけど……。まあ、そのくらいだ。

 毎日行っているから実感が湧かないけど、上手になってきてるのかな。

「まあ、精進しろ」

 それだけ言うと、また料理に集中し始めた。おー、今日のメインは肉系ですか。

「味見させてください」

「……今からフライパンごと投げるから口開けろ」

 佐伯さんなら本当にやりかねないと思った僕は慌てて逃げ出した。疲れてきたであろう真優に「休んできな」と言って客の相手をした。


 何故か食器は僕が洗うという暗黙の掟ができているので、今日もそのルールに従って食器を洗っていた。最後の一枚を洗い終えて、僕は息を吐いた。

「終わったー……」

 真優と佐伯さんは椅子に座って遅い晩飯を食べていた。どうやら今日はおにぎりらしい。

 佐伯さん、手抜きしやがった。疲れてるときは大体おにぎりだ。手を洗って、二人のところまで歩いていき、椅子に座ろうとしたときだった。僕は異変に気づいた。

 おにぎりがねえ!

 テーブルの上に置いてあるお皿には何も乗っていなかった。あ、米粒だ。

 視覚の情報が脳に辿り着いた瞬間、疲れが大波になって押し寄せてきた。なんで晩飯……おにぎりも食べれないの。

「おぎぎりは……?」

 もはや呂律も回らない。

「「おぎぎりってっ!」」

 二人して爆笑し出す。こいつら鬼だ。

「え、ホントにないんですか?」

 ああ、おれ食ったからな。と、平然と言いやがる佐伯さん。

「それにもう、時間遅いからな。そろそろ送らないと」

 チラリと真優ちゃんに視線を向ける佐伯さん。

 もうこんな時間か。見上げた先にある時計の針は八時半を指していた。

 仕事をするのは構わないが、誰かが責任を持って家まで送る。と言うのが真優の家族との約束だ。なにせまだ十六歳だ。家族からしたら心配だろう。しっかりと愛されているようで僕は嬉しい。

 でも、一つ納得がいかないのは――

「ほら、早く帰ろっ」

 真優はもう上着を羽織っていた。準備早いなあ……じゃなくて、どうして毎度毎度僕が送らなければならないんだ。

 ――こういうのって、大人が送るべきじゃないか?

 と、少し前に真優と佐伯さんに提案してみたことがあるが、一笑されて一蹴された。

 ――洋君はあたしを送るのめんどくさい?

 ――お前っておれ以上に……いや敢えて言わないけど、めんどくさいの?

 ちげえよ! と心で突っ込んだけど、まあそれも今更だ。

 そう、今更言ってもしょうがない。

「俺も上着持ってくっから、ちょっと待ってて」

 僕は急いで二階に上がった。息を切らしつつも、置いてある上着を取った。

 すると兄貴が上着の中から転がり落ちてきた。この人何してんの?

【うにゃぁ……】

 猫だからなのか、兄貴はよく寝ている。昼間は一階のカフェにいて、ミィちゃんやケンちゃんと戯れている。あの最初の事件(兄貴が二匹にボコボコにされたときのこと)が嘘のようだ。

 飼い猫じゃないから、夜になるとその二匹はフラッと姿を消してしまう。遊び相手がいなくなった兄貴は二階に上がっていつも惰眠を貪っているのだった。

 まあ、それはいいんだけど。どうして僕の上着の中で寝ているのかが理解できない。人肌恋しいなら彼女作れよ。猫のな。

 自分が思いっきりの毒を吐いてることに気づいて、一人で苦笑した。

「ひーろーくーん!」

 ……おっと。これ以上待たすと真優は苛立ちを隠さずに僕にぶつけてくる。具体的には僕の足だ。いつか本当に足がもげてしまうのではないだろうかと思う。

 上着を抱えながら一階に戻る。そこには退屈そうな顔をした真優がいて、案の定。

「遅いっ」

 と文句を言われた。あーはいはいすみませんね。

「送ってやろうとしてるんだから文句を言わないの」

 何故か真優が舌打ちをした。

 逆ギレ? 反抗期? キレる十代?

「真優ちゃん、まあまあ……」

 佐伯さんが真優の肩をぽんぽんと叩いて宥める。

「分かりました。佐伯さんがそういうなら……」

 この二人はどんどん仲良くなっているようで。

 あーなんだろう凄くもやもやするねえ。

「行くぞー」

「洋君の方が用意遅かったくせに」

 真優はそう言うと、素早く扉を開け、すたすたと歩き出してしまった。

 階段を一気に上り下りしたばかりで、僕の心臓は少し早くなっているが、真優に追いつくために小走りで駆け出した。


 真優の家までの道のりは、長いようで短い。遠いと言えば遠いし、近いと言えば近いのだろう。僕らは基本、無言ではいられない。真優は何かと僕に絡んでくるし、僕もそんな真優をからかうのが好きなのだ。だから馬鹿みたいな話をして、端から見たらどうでもいいような話題で盛り上がって、また違う話をして。そんな風に僕と真優の時間は流れている。流れていく。

 月が雲に隠れている。季節は、秋から冬になろうとしている。二人して口や鼻から白い息を出しながら、じゃれ合う。

 流れていく時間の中で、真優は成長している。当たり前の話だけど、これからも成長していく。

 でも、僕は違う。身長だって一ミリも伸びてないし、体重だって変化無しだ。それはこれからも変わらないのだろう。そんな未来を思うと不安を覚える。未来なんて、とても曖昧なモノだけど、宿命って奴は。どう足掻いたって変わらない。少しずつだけど、諦めもつくようになっている。

 横目でチラッと真優を覗く。

 例えばだ。僕はこの子のことが好きだ。たぶん、惹かれている。どこにでもいるような、そんな子に惹かれている。ちょっと不器用で、優しく笑うことができて、真っ直ぐに想いを表すことができて。

 でもきっと、この想いは届かない。届けてはいけない。

 真優の手を握ったとき、僕が自己満足の応援をしたとき、僕は自分に課したのだ。僕は恋をしないと。真優とはこれっきりなんだから、忘れようと。記憶はそういうモノだと。納得しようとしたんだ。

 そうだったら、よかったのに。

 いざ蓋を開けてみれば、真優とは毎日顔を合わすし、こうやって二人で時を過ごしている。この胸の疼きを隠しながら、僕は笑顔で接する。真優から発せられる言葉に、僕は相づちを打つ。内容なんてどうでもいい。ただ、その声を聞いていたかった。それなのに真優は話し疲れてしまって、黙ってしまった。

「仕事、どう?」

 こんな話題を提供する僕はどうなのだろう。どんどんコミュニケーション能力が落ちている気がする。

「いきなり何? まあ、楽しいよ」

 急激な話題転換にも関わらず、彼女は僕に追従してきた。

「よくもまあ、ウチで働こうと思ったよね」

 あはは。と苦笑いの真優。

「バイトなんて他にいっぱいあるだろうに」

「べ、別にあたし、バイトしたいって思ったわけじゃないし」

「じゃあなんで?」

 答えに困っているらしく、腕を組んで唸っている。

「なんだろうな、説明しづらいなあ」

 夜風が雲を流す。そこには朧気な月の光があった。僕らの足下までその光は届いている。冷たく、凛とした空気を吸い込んだ僕は知る。

 やはり、すべては儚い。

 『人』の『夢』と書いて、『儚』い。恋も、生きると言うことも、何もかもが。

 悲しいわけじゃない。これは諦念の気持ちだ。

 それらすべてを、あるがままに受け入れること。

「あ、洋君、ちょっと待っててね」

 そう聞こえてきた声に反応して、顔を横に向けたときには、既に真優は走り出していた。コンビニ目掛けて一直線。煮干しに釣られて走り出す兄貴みたいだ。

「食い過ぎじゃねーの?」

「うっさいばかっ!」

 コンビニの駐車場の端に移動しながら、僕は考える。

 そういえば、いつから僕のことを『洋君』って呼ぶようになったんだっけ。つーか、だから、なんであの子はウチの店で働いているんだろう。佐伯さんみたいな化け物と平凡な僕しかいないあの店で働いて何を得られるんだろう。……なーんて言ったら佐伯さんに殺されそうだ。

 真優がコンビニから出てきた。僕が先ほどまでいた場所から消えていたからか、真優は不安げに辺りを見渡している。もう少しその様子を観察していたかったけど、なんだか悪いような気がして、僕は真優に声を掛けた。

「こっちだよ」

「あ、いた」

 安心したのか、微かに頬は緩んでいた。

「買ってきてやったぜー」

「男言葉を直そうな」

 小さな紙袋を抱えて小走りでやってくる真優。

「……買ってきてやったぜ!」

 人差し指と中指がピンと立っている。見事なVサイン。

「そんなんじゃモテないぞ?」

「…………買ってきてあげたよ?」

 ウルウルと目を潤ませてこちらを見上げる真優。あーこのアングルいいなあ。

「こんな感じ?」

「及第点だな」

 上から偉そうにー。なんて、少しむくれつつ、抱えていた紙袋から湯気の出ている丸いモノを取って、僕に差し出す。

「どーぞっ!」

 差し出すと言うより押しつけられ――

「熱っ!」

 勝ち誇ったような顔をしている。

「これ何? あんまん? 肉まん?」

「食べれば分かるでしょ」

 まだむくれてる……。ふーふーと息を吐いてそれを冷まそうとするが、湯気は僕をせせら笑うかの如くモクモクと白い蒸気を上げている。ああもうめんどくさい。それに齧り付く。熱くて熱くて僕は喋れない。この味は肉まんだ。はふはふしながら肉まんを頬張る。美味しいなあ。

「お腹減ってたでしょ?」

「いや、そりゃ、もちろん」

「よかったあ」

 一気に食べ終えた僕を見て、嬉しそうに目を細める真優。

「人が食ってるの見て嬉しいの?」

「そうじゃないけど……」

「変な子」

 小さな声でボソッとこぼしたのに、真優には聞こえていたようだった。

「ばあか!」

「ぎゅばぁ――――」

 おかしな擬音を口から漏らして、崩れ落ちる僕。食べたばかりの胃に繰り出された肘打ちはダメージが大きい。

「洋君って、本当に、馬鹿なんじゃないの?」

「な、何がだよ……」

「とっとと帰るよっ」

 寄り道したの誰だよ! でもまあ、肉まん買ってもらったしなあ。

「はいよ」

 頷いて立ち上がる僕。ああ、まだふらふらするよ。

「早くー」

 いつも真優は僕より先に立ち上がって歩いているなあ。

「今――」

 今行く、と言おうとしたところで、携帯電話が震えた。

 ――七恵?

 歩きながら電話に出る。

「もしもし」

「洋、突然ですが、わたしのこと覚えてますか?」

「七恵だろ?」

「よかった。忘れてなかったんだ」

「忘れるわけないだろ。あんな積極的なアピール……いってえ!」

 顔がぐちゃぐちゃに崩れた般若が僕の足を踏み付けた。

「どうしたの?」

「だ、大丈夫。んで?」

「わたし今ね、好きな人がいて――」

 そこから、七恵の話が始まった。

 要は好きな人がいるんだけど、自分に脈が有るのかないのかということだった。

 なんでも、そいつは最近しょっちゅう大学を抜けるそうだ。で、その抜ける要因がメールを送ってきている女の子。その男はその子が好きなのか、別にそうじゃないのか。わたしが告白してもいいのか。と言うことだった。

 僕のときにはあんなにアピールしていたのに……。

「なんでそいつにはアピールしないの?」

「なんか、困ってるっぽいからかな。顔がさ、なんだか苦しそうなんだよ。何かに迷っているって言うか……笑っててもさ、陰のある笑いなんだ。なんか、洋っぽいよ」

「……そうなんだ」

 その男、かざなりこうすけに興味が湧いてきた。

「近いうちに、そっちの学校行ってみる。行くときには連絡するから」

「あ、ゴメン。でも明日告白するよ?」

「なんなんだよ……」

 彼女は電話越しに笑っている。たぶん、話したかっただけなんだろうな。

「話して、ちょっと整理したかっただけだよ。ごめんね」

「まあ、いいんだけどさ。俺暇人だし」

「ありがとう。やっぱり洋だね。好きになってよかった」

「俺照れ屋さんなんで、この辺で。おやすみ」

 おやすみなさい。と言って彼女は電話を切った。……そして僕は今、殺気を感じている。

「へえ…………」

 俯いている真優は、ごにょごにょと何かを囁いている。

「どうしたの?」

 なんでこの子は変なところで怒るかなあ。

「洋、だって。へえ。彼女なんだ? いたんだね?」

「いや、友達だよ? 前に何回も告られたけど」

 そういうことが気になるお年頃かしら。

「ほ、ホント?」

 なんでそんなことで嘘つかなきゃならないのですか。

「うん、まあ可愛い子だったから惜しかったなあ……」

 そう。七恵は可愛い子だ。可愛いなんて言葉じゃ形容しがたい。美しいという言葉がとてもよく似合う子だった。顔のパーツとか、腰のくびれとか。胸の大きさと「なんかいやらしいこと考えてるでしょっ!」……女って怖い。

「考えてないって。アレだよ。真優よりは胸が大きいかなって」

 一瞬ぽかーんとして、それから顔を真っ赤にして怒り出した。

「あ、あたし、胸ないけどさ! ってそうじゃなくて! なんだよ! そういう子が好みならOKしちゃえばよかったじゃない!」

「最初のは否定しろよ! 大丈夫、年相応だ。 ってちげえ! OKできたらどんだけ楽か……」

 そこまで言ってハッとなった。危ない。余計なことまで漏らすところだった。

「なんでOKしなかったの? 好みだったんでしょ?」

 あー。この子はこの手の話題には妙に食い付いてくるなあ。

「まあ、可愛いし、付き合ったら楽しいだろうなって思ったけど……俺、恋をしない主義だからね」

「た、楽しいかもしれないじゃん?」

「知るか」

 僕は思わず吐き捨てた。

 そりゃ楽しいだろうね。お前といるこんな時間が続けばね。一緒に年月を重ねられるなら、それは楽しいだろう。変な力と引き替えに生き返って、年を取らなくなって、この子と出逢って。もし僕があそこで、事故で死んでいたら、こんな想いを知ることはなかっただろう。告げられずにいる、この柔らかで、温かで、ふわふわとしたこの気持ちを。知りたくもなかった、こんな気持ちを。

 何が間違えで、何が正しいのか、僕にはよく分からない。僕の中に組み込まれてしまったであろう、様々なモノが拡がっていく。拡散された想いは、決して一つに纏まることはなく、バラバラに点在したまま。

 心は、難しい。

 真優は、珍しく黙ったまま歩いていた。



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