5  アフォガート



「星って、頼りないよね」

 空を見上げながらポツリと呟いた。洋君はわたしと同じように空を見上げていた。洋君は黙っている。たぶん、わたしに先を促しているんだ。

「あんな弱い光、一体誰を照らせるんだろう」

 訊ねているんじゃない。口から自然に出てしまっただけの、独り言。落ちる夕日と同時に、ゆっくりと星は輝きを増していく。でも、人を照らすにはまだまだ明るさが足りない。

 この人――洋君みたいに、誰かを救うような、強い強い光を放つにはどうしたらいいのだろうか。わたしだって、いつか、誰かを、助けてみたい。どうしようもない哀しみや虚しさ。言いようのない寂しさ。何かを抱えている人に、近づいて、寄り添って、助けてあげたいんだ。

「戻ろう」

 沈黙していた洋君が、唐突にそう言った。

 わたしは頷いて、洋君と一緒に帰る。ゆっくり、ゆっくり、歩いて行く。

 最初、わたしは、家まで送ってくれるのだと思った。だけど目指している方向が違っていた。洋君の家――カフェに向かっていた。カフェの扉を開くと、チリン、と鈴が鳴った。洋君とわたしが入ると、そこにはもう一人――三十歳くらいの男の人……佐伯さんが席に座って何か飲んでいた。化け物みたいな面をした、店主。

「また連れてきたのか、その子」

 その言葉を聞いて、わたしは申し訳なくなったけど、洋君は全く気にしていないようで、まあまあ、と言って苦笑するだけだった。

「佐伯さん、コーヒーアフォガート作ってくれる?」

 洋君は何を言っているのだろう。

「質問に答えてねぇし。まあいいけど」

 佐伯さんはめんどくさそうに席を立って、奥に引っ込んでいった。

 わたしはどうすればいいのか分からず――前に一度来たにもかかわらず、目をキョロキョロとさせて店を眺めていた。

「座ってていいよ」

 そんなわたしを見て、笑みをこぼした洋君はわたしにそう言った。近くにある椅子にわたしが座ると、洋君はわたしの向かい側に座った。

「俺が今言った、コーヒーアフォガードって分かる?」

 分からないのを知っていて、あえて洋君は訊いているような気がした。そんなお洒落な食べ物……か飲み物かわからないけれど、聞いたことない。

「分からないよ。どんなのなの?」

 コーヒーって名前がついてるから、それっぽいのだろうか。

「まあ来てからのお楽しみ――ほら来たよ」

 カウンターの奥から、佐伯さんの歩いてくる音がした。両手に一つずつ食器を持っている。近くに来てから分かったけど、コーヒーとアイスクリームだった。佐伯さんはそれらを、そうっとテーブルに置いた。

「お待たせ。っていうかこんなんでいいの? おれの料理の腕を披露したいんだけど」

「これでいいんだって。……さあ、召し上がれ」

 洋君はわたしを見ている。見られながらの食事とはなんとも恥ずかしい。

「って、コーヒーアフォガートってこのセットのことなの?」

「真優ちゃん、ホントに知らないんだね」

 洋君はそう言うと、熱いコーヒーをアイスクリームにかけた。

「こうやって食べるんだよ」

 どうぞ、と言ってわたしにそれを――アフォガートとかいうモノを差し出した。コーヒーの中で溶け出しているアイスクリームをスプーンですくう。口に入れると、アイスに絡まったコーヒーの苦みが、わたしの口の中に広がった。そしてひんやりとするアイスがすぅっと溶けていって、苦みは消えて、わたしのよく知るアイスの甘みがそこにはあった。

「美味しい」

 自然と、わたしの口からそう出ていた。

「よかった」洋君は呟いた。

「じゃあさ、人生ってどう思う?」

 じゃあ、って、話題転換が変だよ。

「意味が分からないよ」

 わたしは素直にそう言った。

「そうだねえ」

 洋君は真面目な顔で何かを考えている。

「さっき、アフォガートのこと美味しいって言ってたけどさ。ホントはちょっと苦かったでしょ?」

 なんで見抜かれているのか分からないけど、確かにちょっと苦かった。

「食べれないほどじゃないけど、苦かった」

「でしょ? それが今、君だけが感じられるモノ」

「どういうこと?」

「俺だって、アレを苦いと思う。でもさ、大人になればあんなの、大抵の人は苦いなんて思わないんだ。あの中にある甘さだけを感じるようになる。色んな事を経験して、子供から大人になっていって、経験する代わりに、色んなモノを失っていく。その一つだよ。苦みって」

 へえ。とわたしは頷く。そうかもしれない。

「俺は、忘れちゃいけないモノ、消えたら駄目なモノがあると思う。君は甘みも苦さも分かっているんでしょ? 人生って、それだよ。どっちも知った人が、知ることができた人が、人生を楽しめると思う」

 俺の主観だけど。そう付け足して、洋君は笑った。

 アフォガートをもう一度すくって、口に入れる。

「やっぱり、苦いね」

 鮮明ではなく、薄汚れてきているセピア色の記憶。アイスクリームを食べるといつも思い出すあの記憶。

 アファガート――アイスクリームを食べても思い出さなかった。

 もちろん、忘れたわけじゃない。それこそ洋君の言っていた、『忘れちゃいけないモノ、消えたら駄目なモノ』だ。だから忘れない。あの記憶の中の幸せは、もうすぐ、今からの幸せに取って代わるのだ。記憶を覚えていること。それを不幸だと思っていたわたしは消える。ちゃんと自分の中で消化して、昇華して、消す。それは悪いことじゃないはずだ。

 今から、わたしは前に進めばいい。逃げるんじゃなくて、自分で前に進むんだ。お母さんもお父さんも一緒に、家族で前に進もう。

 洋君がわたしに対して不思議な力を使う前、確かこう言っていた。

『真優ちゃんの不幸を全て取り除くわけじゃない。そんな便利な力はないよ。だけど俺は、君のためにほんの少しの力なら貸すことが出来る。【お前にはお前の役割がある】ってことを俺によく言ってくる奴が居るんだけど。そいつ風に言うなら、【瑞原真優には瑞原真優の役割がある】ってことさ。だから全部は取り除かない』

 仮に洋君が不幸を全て取り除いてくれたとする。そうすれば、その日から完璧な日々が始まるだろう。両親は仲直りしていて、わたしが家に帰ればお母さんが料理を作っていて、お父さんが帰ってきて、三人で食事をして、そこには笑みがこぼれていて……そんな幸せな日々が始まる。けれど、それは本当の幸せ?

 違う――

 本当の幸せとか偽物の幸せとか、そんなことを考えるまでもなく、わたしは嫌だ。

 そりゃあ、楽だよ。求めていた日々がすぐそこにあるんだもん。でも、それでもわたしは嫌なんだ。辛かった日常から逃げていたわたしがそう思うのはオカシイかな。ううん。逃げていたから分かることも、たぶんある。逃げていたのは、その幸せな日々を必死に求めていたからだ。今なら分かる。そして、洋君の言った言葉の意味も。

 要は、努力しろってことだ。幸せに向かって、がむしゃらに歩いて行けっていう意味だ。

 わたしが努力をする余地を残してくれたのだ。心から求めれば、与えられることを教えてくれるために。

「でもさ、長ったらしいよね」 

「ん?」

 洋君は不思議そうな顔でわたしを見た。伝わらなくてもいいや。

 先ほど思い出したセリフ、ずいぶん長ったらしい。もっと素直に、普通に、『頑張れ』って言えばいいのに。そういう年頃なのか、洋君自身がそういう人なのか。

「ううん。なんでもないの」

 ふうん、と口元を上げて笑う洋君。

「真優ちゃん」

「何?」

 洋君はポケットから携帯電話を出した。チラッと携帯を見て、わたしに言う。

「見せたいモノがあるんだ」

 外に出よう。洋君がそう言うので、わたしはそれに従った。今度は、何を教えてくれるんだろう。わたしは無意識の内に興奮していた。彼は無駄なことをする人じゃないということを、心のどこかで理解しているから。

「外出たら、すぐに空を見上げてごらん」

 真っ暗な空に所狭しと並んで、絨毯のように広がる星に目を奪われた。洋君が扉を開けた際に聞こえたはずの鈴の音を聞き逃すくらい、それは綺麗だった。闇空というキャンバスに散りばめられた星屑たち。ちゃんと明るいじゃないか。

「綺麗……」思わず口から飛び出た言葉。

 わたしは結構な時間、その満天の星空を眺めていた。

「これでもまだ、星は頼りない?」

 洋君は笑っていた。

「ううん。もう思わない」

「だろ?」

 何が、『あんな弱い光、一体誰を照らせるんだろう』だ。全然、弱くない。ちゃんと一つ一つの星の輝きは弱いながらも、弱くとも、わたしの下まで届いている。ちゃんとわたしには見えている。

「星って、人間みたいじゃないか?」

 横にいる洋君は、真顔で喋っている。

「一つ一つは弱いけど……ってこと?」

「そうそう。もう分かってるね」

「うん。分かった。でも、わたしは洋君の口から、洋君の言葉で聞いてみたい」

 自分の口から発せられた言葉なのに、わたしは内心驚いていた。どうしてそんなことを言ったのだろうか。

「今言ったけど、星ってのは、一つ一つの輝き自体は弱いね。まあ強い光もあるけど、大体は、見えるか見えないかくらいの希薄な光だよ。俺たち人間だって、そうじゃないのかな? 他人を、困っている人を照らせるような、眩しい輝きを持つ人は、多くないと思う。それよりも、その見えるか見えないかの光の数の方が凄く多いんだよ。そんな人たちだって、誰かを照らせるって思いたい。そう信じたいんだよ」

 ――俺は、真優ちゃんを照らせたかい?

「さ、さあね」

 はにかみながらそう言う洋君に少しだけ、……少しだけ、本当に少しだけ、わたしは照れてしまって、素直にうん、とは言えなかった。

「わたしも、そうなれるかな」

 洋君がわたしを助けてくれたみたいに、わたしも誰かを助けてみたい。誰かのヒーローという奴になってみたいんだ。

 洋君がニヤリと笑う。

「さあね」

 とても腹が立ったので、足の甲を思いっきり踏み付けた。

「いってえ! ホントに何回踏むんだお前は!」

 目に涙を浮かべる洋君に、わたしは舌を出した。

「ばあか」

「俺に対する敬意が消えてないか?」

「そういう人だって分かったから、ね?」

 何が『ね?』だよ、と呆れてこっちを見ている。

 洋君は、たぶん嘘吐きだ。

『そんな人たちだって、誰かを照らせるって思いたい。そう信じたいんだよ』って、なんて素直で、捻くれているのだろう。

 その想いだけで、わたしを助けようと思うか?

 例え、手に宿した不思議な力があったとしても、普通の人間なら積極的に関わろうとは思わないはずだ。その考え方は、真っ直ぐすぎる。捻くれているのがグルグルと一回転して真っ直ぐになっているとも言えるのかな。

 ……わたしの主観と偏見かもしれないけど。

 だけど、捻くれているのは当たっているだろう。それだけは絶対だと言える。

 いや、そんなのはどうでもいいんだ。いつかその考え方が洋君自身を滅ぼすかもしれない。なんだかよく分からないけど、わたしはそんな気がする。でも、それもどうでもいいんだって。ああ、ぐちゃぐちゃする。いつか洋君が困ったときに、わたしは助けよう。それでいい。誰かの、じゃなくて、まずはこの人の……。

「何考えてんの?」

 気が付くと洋君はわたしの前に立っていて、しゃがみ込んでわたしの顔を覗いていた。

「べっつに」

 なんだかさっきからおかしい。なんであたしが照れる必要があるんだろう。なんで恥ずかしくて不機嫌を装わなきゃならないんだろう。

「もう一個、素晴らしいオハナシをしてあげようか?」

 もったいぶったように言う洋君に、わたしはとっとと言えと思いつつも、なんの話? と律儀に訊いてみた。

「アフォガートさ」

 それがどうしたの? とわたしは目で伝える。

「イタリア語でね、『溺れる』とか『溺れた』とか、そんな意味なんだ」

 溺れる、溺れた。

「真優もさ、溺れてみなよ。ひたすらに」

「呼び捨てにした」

「敬意も持ってない奴に……っていうか俺年上じゃん」

 それにしても、溺れるか。わたしは何に溺れるんだろう。何に溺れたらいいのだろう。

「あ、無視ですか」

 全く意に介していないくせに。

「ねえ」

「ん?」

 洋君に訊ねてみる。

 それも、これから探していけばいいのかな。

「溺れること、できるかなあ?」

 てっきり、知るか。とか、さあね。とか、そんな言葉を吐くのかと思っていたら、洋君は少し考えて、こう言った。

 ――できるよ。真優なら。

 全部全部、これからなのだ。わたしは、これから歩き出す。

 前に進む。

 もし困難にぶつかっても、歩みを止めない。

 照らしてみせる。

 もしわたしが見えていない星でも、それでも照らす。

 そして、探してみせる。

 どこかに落ちている、溺れることのできるような、わたしだけの幸せのカケラを。

「当たり前じゃん」

 わたしは久々に心から笑ったような気がした。


 とりあえず、高校生になったらバイトを始めよう。

 もっと彼のことを知りたい。彼の中身を知っていきたい。近づいて、近づいて、どうなるのかなんて分からないけど、それでも近づいて。今わたしの中にある、生まれたてのこの気持ちの正体を――憧れなのか、恋なのか、見極めたい。

 そう思ってわたしは密かにカフェに通うのだった。そして半年後、高校に合格したわたしはバイトを開始する。働いていると佐伯さんは意外と『良い人』ってことが判明したり、久しぶりに会った洋君は「なんで真優ここにいるの?」なんて驚いていたけど……。

 それはまた別のお話ってことで。



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